徳島刑務所受刑者接見妨害事件と最高裁判決について

2001 年 5 月 19 日 (土)

講演者: 金子武嗣 (大阪弁護士会 弁護士)


ご紹介いただきました金子です。記念講演とはおこがましいのですが、戸塚先生が本編で、私が前座ということで事案の説明等をさせていただきたいと思います。

若干自己紹介させていただきます。私は司法修習 25 期です。登録しましたのが昭和 48 年ですから 1973 年です。私が登録した年に「森永ミルク中毒事件」の裁判がありました。私はその弁護団に加えさせてもらいました。今有名になりましたが中坊公平さんという人が団長でした。当時 43 ぐらいで、中坊さんが団長で若手の弁護士 1 年目から 5 年目ぐらいの弁護士が集まって弁護団を組みました。それで、弁護士になった時に被害者の方々の家へまわり貴重な経験をさせていただいた思い出があります。その後「消費者事件」で、「クレジット問題」を昭和 50 年頃から取組み、クレジットの「抗弁権の対抗」問題、当時「抗弁権の接続条項」がありませんでしたので、「抗弁権の対抗」問題をやらせていただきました。このような、公害事件や消費者事件をやっていますと、被害の実態から「世の中の仕組み」というのが分かってくるものだなという実感がしてまいりました。ほとんど負けていても、その実感を理論化すれば、そういう中で事件が一つでも勝っていけば、制度が変わる。学生運動でいわれた「一点突破、全面展開」はいい言葉だと思っているのです。というのは、すべての事件が負けていても、一つの事件でも勝てばなんか世の中開けてくる、ということをものすごくその当時印象に残っている次第です。

御紹介する事件は、私やりたくてやったわけではなくて、なんとなく流れの中で入っていってしまったというのが、今から言いますと実感の事件です。ここにまとめてきましたが、これは戸塚先生から国連に提出するために書いてくださいということで 3 回ぐらい書き直し、まだ完成はしていないんですけれども、そういう文書の一つです。

そもそもこの事件は、1990 年ですから平成 2 年の 4 月に始まります。当時大阪拘置所に拘留されていました北野さんという ―― K さんと書いていますが ―― 北野さんが懲役 15 年の刑が確定しまして、大阪拘置所から徳島の刑務所に移されたことから始まります。当時彼には病気があり、下半身も麻痺的な状況でしたが、当時はっきり分かりませんでした。大阪拘置所では、本人の主訴をある程度見てくれて、例えば歩行のためのストラルドの杖を貸与してくれてなどしていたんですけれども、徳島刑務所に移りましたら、それが「詐病」だということで、彼が嘘をついている、要するに作業をやりたくないからそう言っているんだという事で、杖を取り上げられたり、いわれなき暴行をうけました。彼は下肢に運動障害があるんですけれども、詐病と決め付け、訓練と称し無理やり運動させようとし、相当ひどい事をしました。そうすると彼はこれに抵抗した途端に、制圧行為とかという理由をつけ、多数の刑務官が暴行を加えたのです。そもそも私は弁護団に入った時は、再審をやろうという事で弁護団が結成されたんです。偶然というものは恐ろしいものでして、私は大阪弁護士会のある会派で懇親会があったです。その時木下淳一君 (27 期) と偶然会い「今ちょっと再審で困ってるから、君時間あるか」というから「時間ないわけではないけど」といいましたら、弁護団に加入させられました。ということで、彼と一緒に ―― 7 人弁護団員はいたんですけれども ―― そういうことでやるようになりました。本当は再審をやるはずだったんですが、平成 2 年 5 月に、木下さんともう一人の弁護士横内勝次さんの 2 人が徳島刑務所に北野さんに会いに行ったんです。なかなか面会が許されなかったようで、それで時間とったんですけど、行きましたら本人がやつれたすごい姿でした。面会に行って「どうしたんだ」と聞くと北野さんから刑務所に対するいろんな訴えがありました。これはえらいこっちゃ、再審をやるよりも本人が本当に生きて刑務所から帰れへんのちゃうか、ということになりました。で、、何をやったかと言いますと、本人を原告として徳島の刑務所に対して損害賠償請求を起こそうということになり、証拠保全をしたりして、証拠を集め裁判を起こしました。その時はまだ北野さんの病巣というのははっきり判っていなかったんですけれども、こういう裁判の中で鑑定を 3 回ぐらいやって、後日ようやく病巣の客観的な事がわかってきました。その裁判を起こしましたが、その裁判の関係や再審の関係で徳島刑務所に北野さんとの面会に私達は行くわけです。今は明石海峡に橋ができまして、車で 1 時間半ぐらいで徳島まで行けるようになっているんですけれども、当時は大阪から船で大体 2 時間ですかねえ、2 時間から下手すると 2 時間半以上かかります。徳島港から徳島刑務所は入田というところにありまして、車でも 40 分ぐらいかかると思いますね。それで、何もないところですから、そのタクシーを待っていてもらってそれで面会して帰ってくるのですけれども、そういうことで片道 3 時間から 3 時間半、1 日仕事になります。それだけ時間をかけて面会に行って話を聞きます。

「監獄法」の規則で、接見時間を定めているわけですけれども、接見の時間は 30 分以内で、刑事の弁護人との接見は例外としていますが、これを 121 条に定めています。

接見の刑務官立会いについては、「接見には監獄官吏にこれを立会いすべし、但し刑事被告人と弁護人との接見はこの限りにあらず」と定めているわけです。要するに徳島刑務所はこれを厳格に私達の接見に適用しました。

私たちは損害賠償請求事件の打ち合わせにも行くわけですけれども、加害者である相手方が立会っているのですね。そういう状況で時間も 30 分がくると切ってしまう。私たちは片道 3 時間半以上かけ 1 日仕事で徳島刑務所まで行って、30 分で時間は切られるわ、相手方の立会までついている。最初のうちは僕らもおとなしくしとったんですけれども、面会を繰り返していくたびににだんだん自分達が惨めになってきました。といいいますのは、その相手方というか、弁護士が、ぶん殴った相手の立会いの下に、どうしてそこで接見をしなければならないのか、時間まで制限されなければならないのか、、、という事でなんとなく自分達が惨めになってきました。木下さんと二人で帰りのタクシーのなかで「おかしいなー」「この場合は、相手方だし、この接見のさせ方はどうもおかしいでなんとかせなあかんで」ということになりました。

それはいいのですが、いろいろ調べましたが参考になるものがありません。日本ではそういう事件もなく、本当は事件はたくさんあったんですけれどもそういう問題意識もなく、皆がとりあげてなかったのが正確でした。

ちょうど 1991 年 (平成 3 年) ですか、その時に戸塚先生にも参加していただきましたが、ちょうど私が当時属しておりました大阪共同事務所の 30 周年記念行事がありました。それで国際人権問題を企画していたんです。しかし私、同じ事務所だったんですけれども、もう一つこの企画がピンと来ずに、半分無関心で「そういうものもあるんかいな」という感じだったんです。その時、戸塚先生ロンドンにいらっしゃって、そこからわざわざ来ていただいて、講演もしていただいたんです。そういうことで、外国から来ていただいたちょうどその時に、北村泰三さんという、熊本大学の教授 (当時は助教授) の講演もあり、その際国際人権の関係で受刑者と弁護士の接見について書かれた論文を資料としていただきました。その時に、あとでご紹介しますけれども、イギリスの事件で、イギリスのヨーロッパ人権裁判所の事件で「キャンベル・フェル事件」という、それと「ゴルダー事件」が紹介されていました。そのケースは、私達と同じケースで、ヨーロッパ人権裁判所が「それはヨーロッパ人権条約違反だ」と認めた判例がありました。私たちはそれを見た時に、「やっぱり世の中には同じような事件があって、しかもそれがヨーロッパ人権裁判所違法だとされたというんだったら、これはなんとかなりそうだ」と思いました。弁護士は極めて先例に弱いんですが、「何かないか」と一生懸命探した時に、世界の片隅にでも、どこかに手がかりがあればなんとかなるな、ということを思い知らされました。私たちにとって国際人権法はあまりにも難しかったんですけれども、そういうものでも使ってなんとかしたい。これは、「時間制限」もそうなんですけれども、私たちの琴線に触れたのは「刑務官立会い」でした。ぶん殴った相手方の立会いで、なんで私たちがこんな接見をせなあかんのや、というところでした。その判例というのをいくつか挙げさせていただきます。やっぱり国際人権法というのは使える、これに依拠して裁判を起こしました。それが 1991年 (平成 3 年) の 8 月ですけれども、その時にちょうどその弁護団長をやっていただいた戸田勝先生で、戸田先生と木下さんと私と北野さんが原告となって裁判起こしたんです。

一審の徳島の裁判所では 1996 年 (平成 8 年) 3 月 15 日に、30 分の時間制限というものは国際人権規約の 14 条違反であるとして「時間制限は違法」として、損害賠償を認める判決を出してくれました。ここにちょっと書きましたけれども、「憲法 98 条 2 項というのは『日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする』というふうに規定されている。」これは、要するにわが国において、条約は批准・公布によりそのまま国法の一形式として受け入れられ、特段の立法措置を待つまでもなく国内法関係に適用され、かつ、条約が一般の法律に優位する効力を有することを定めているものと解される、として、まず条約が直接適用があるということを認めました。その時に根拠となりましたのが、「部落解放研究」の中の報告でした。それは国際人権規約が日本で批准されまして、日本の第 1 回報告書が規約人権委員会で審査されました。当時、日本ではほとんどこの条約について関心がなかった頃でしたが、和島岩吉さん (元日弁連会長 大阪弁護士会所属) が会長をされていた部落解放研究所が、わざわざジュネーブまで人を送りまして審査の様子を記録しておいたんです。規約人権委員会の審査で、当時は日本国も余り批准したところで、日本の代表が、「条約というのは国内法より高い地位を占めると解される。裁判所によって条約に合致しないと判断された国内法を無効とさせる、改正させなければならない」という、いいことを言っていました。それを、日本から行った人達が審査の状況というものをちゃあんと記録にしていたんですね。それが、ちょうど「部落解放研究」に載っていました。私は感心したんですけれども、当時誰も関心のない事をわざわざジュネーブまでお金かけていって、これは 1981 年 (昭和 56 年) 頃ですね、そんなに日本の円も強くなかった頃でしょうけれども、その頃に派遣して、じっと審査の様子というものを一民間人がずっと記録してくれていたのです。それがものすごく役に立ちまして、裁判の中で、被告国は、ぜんぜん違う主張をしていたのですが、こちらが「国の外と内とで言うことが違う、矛盾するのではないか。」という事を主張しました。そしたら最初は条約が直接適応がないとか言っていた国もぴたっと主張しなくなったのです。そういうことで、裁判所も比較的認めやすかったんだと思いますけれども、一般的に国際人権自由権規約、条約が直接適応になると認めてくれました。

本件の受刑者と民事の事件の訴訟代理人たる弁護士との接見について、打ち合わせに支障をきたすような接見に対する制限は許されないかということで、2 つ争点、一つは「時間制限」と他の一つは「刑務官立会い」の件だったんですが、「時間制限」についてのみ違法、この国際人権規約違反ということを認めました。

当然このような判決ですから国側は控訴します。私たちも「接見の立会い」ということについては、不満ですから控訴する。高松高等裁判所のほうで審理されることになりました。

高松高裁での審議では、そもそも「時間制限」の点と「立会い」の点の 2 点でしたが、徳島地裁が根拠としたのは、ヨーロッパ人権裁判所の判決 ―― 先程言いました「ゴルダ―事件」と「キャンベル=フェル事件」の判決 ――、それともう一つは、国連では人権関係の決議をしているのですけれども、それについて考慮するかということも問題となりました。国連の決議というのは、例えば「被拘禁者保護原則」では、刑務所の処遇について細かい事項を決議しています。この決議が法的効力があるということになると、後々の解釈論としては非常に使いやすいということもありまして、僕らのほうも相当強く主張したんですけれども、徳島地裁の判決では、結局法的拘束力までないんだ、ということで蹴られました。それをなんとか高裁のほうで認めさせたいということでいろんな立証をしました。

また、高松高裁で私達が立証しましたのは、刑務所の接見とはいかに不合理なものかということの一種の被害調査というわけではないですけれども、全国の弁護士さん ―― こういう監獄事件をやっている人 ―― にアンケートいたしました。日弁連人権擁護委員会第 3 部会 (被拘禁者の人権部会) の委員の人達を通じてアンケートしました。で、そのアンケートが 15 センチ位積み集めまして、それを裁判所に出しました。それと、当時部会長で旭川の弁護士さんで、彼も一生懸命 (監獄の事件をされていた八重樫和裕さんに高松まで来てもらい) 尋問をしまして、いかに監獄には人権侵害があって、しかもそれを外の世界、特に裁判の中に達することがどれだけ大変なものか、その時に相手方の立会いがどれだけ弊害があったかということを相当程度しゃべってもらいました。そういう立証も効いたのかもしれませんけれども、1997 年 (平成 9 年) 1 1月 25 日に高松高裁判決がありました。損害額については若干減らされたんですけれども、それは高裁の政治的な配慮みたいなようなんですが、結局中身はこちらのほうにとっては、とても素敵なものになりました。

高松高裁は、徳島地裁の判決を少し進めまして、条約の直接適用ということ、ヨーロッパ人権裁判所の判断は、国際人権自由権規約 14 条 1 項の解釈に際して指針 (ガイドライン) にできると判断しました。そして、国連決議の「被拘禁者保護原則」というのは、「法体系又は経済発展の程度にかかわりなく、ほとんどの諸国にさしたる困難もなく受入れうるもの」として専門家によって起草され、慎重な審議が行われた後、積極的な反対がないうちに採択されたものである事を考慮したら、要するに被拘禁者の保護について国際的な基準として意義を有している。で、ただし条約法条約に該当してないとしても、14 条の解釈に際して指針 ―― ガイドライン ―― となりうるものだということで、ガイドライというんですけれども、拘束力をもつという事でその効力を認めてくれました。

結論としまして、刑務官の立会いについても違法であると認める判決をしました。

このように徳島の地方裁判所も高松の高等裁判所も、国際人権規約を日本の国に適応していく道筋というものと、解釈論というものをものすごく細かく判断してくれたと思います。それで当然こういう判決ですから国側も上告しますし、私達も対抗的に ―― あんまり上告はしたくはなかったんですが ―― 上告し最高裁に移りました。

最高裁、これは平成 12 年 9 月 7 日に判決をしました。これは弁論まであったんですけれども、第一小法廷で判決がされました。この判決は判例時報 1728 号に載っております。今日のテーマであります最高裁と国際人権規約の問題になるんですけれども、最高裁判決は 5 名の裁判官で、4 名の多数意見と遠藤光男さん 1 人の反対意見でした。多数意見というのは本当に三行半 (みくだりはん) でした。監獄法、監獄法施行規則が、憲法 13 条及び 32 条に違反しないことは、「よど号事件」とか「未決拘禁者の図書閲読の禁止」とかこういう過去の最高裁判決がありますけれども、これらの判例の趣旨で明らかになっている。これらの規定が自由権規約 14 条に違反すると解する事もできないというものでたったそれだけでした。

具体的な場合において処遇上その他の必要から 30 分を超える接見を認めるかどうか、あるいは教化上その他の必要から立会いを行わないことにするかどうかについて、刑務所長の裁量的な判断にゆだねられる、というふうに解すべきで、刑務所長が判断の行使としてした判断というのは、裁量権の範囲を逸脱し、又はこれを濫用したというふうに認められる場合でない限り、国家賠償法 1 条 1 項にいう違法な行為には当らない。本件の場合には違法な行為に当らない。ということで、全面的なこちらの敗訴という事になりました。2 件の上告ですから、国が上告した分については破棄し、原告の請求棄却、こちらのほうは上告棄却という事になりました。

私たちは、国際人権法をずっと徳島地裁と高松高裁で立証してきたんですけれども、最高裁判決では、「監獄法、監獄法施行規則が自由権規約 14 条に違反すると解することもできない」という 1 行が、唯一の判断であり、その答えでした。高松高裁や徳島地裁の緻密な解釈論に到底及びませんし、国際的に見ましても人権理論の水準から見ても、とても耐えられないような低レベルな、私から見ましても外に出すのも恥ずかしいような「代物」ということです。

ちなみに遠藤さんの反対意見ですけれども、この方は弁護士さん出身ですし、こういうふうに言っています。

「徳島刑務所事件の実質的被告は徳島刑務所自身とみてよい。いかに、その受刑者がその身柄を拘束されている目的及び行刑施設としての物的、人的制約等を考慮しなければならないとしても、このような事件についての打ち合わせを実質的相手方当事者というべき徳島刑務所の職員の監視下で行わせるということは」ここが一番僕は好きなんですけれども、「誰の目から見てもあまりにも不公平であるという事は明らかである。これを容認するとすれば、公正な裁判を受けさせるという理念は完全に没却されてしまう。多数意見について接見を監視のみででき、かつ接見内容の聴取を不能とするような施設を設置することによって対応することもできたはずであるから、かならずしも理由とはなり得ない」というふうなことでした。やはり、弁護士出身といいますか、弁護士という仕事のわかる人がやっぱり裁判官にならないとほんとうに実態がわからないといいますか、そういうものだなということをつくづく思いました。

国際人権規約は、まだ十分に理解があるとはいえませんけれども、秘密接見交通権の重要さということについては、この反対意見はそういう意味で私達の意を汲んでくれたなと思いました。これが唯一の救いでした。

ところで、本題の最高裁判決と国際人権との関わりについて若干感想めいたことを述べたいと思います。

1981 年 (昭和 56 年) ですね、日本が国際人権自由権規約を批准したすぐの 10 月 22 日の国連規約人権委員会の定期報告書審査 (第 1 回) の時ですけれども、富川明憲さんという主席事務官 ―― この方は外務省ですけれども当時法務省から出向されていた方なんですね ―― その人が要するに、「条約というのは国内法より高い地位を占める」と、「裁判所により条約に合致しないと判断された国内法は無効とされるか改正されなければならない」ということで国際人権規約、自由権規約の国内法に対する優位性と直接効力を有する事を言明しております。ところが、日本の裁判所、司法が、条約についてちゃんと審査して、そして本来であれば判断しなければならないんですけれども、日本の裁判所というところは徹底的に避けようという傾向が顕著です。特に 1980 年代から、なんと言いましょうか私達よりも随分前から先輩たちが、菅充行先生、武村二三夫先生などが、国際人権規約を使ってこられました。それは、私は当時はぜんぜん知らなくて、そんなんやってはる人おるんやな、というぐらいの知識しかありませんでした。先輩たちが一生懸命使ってこられて、だけど、なんといいますか負けて負けて負けまくりました。菅先生なんかは僕につくづく言われましたが、国際人権を主張したら、「国際人権規約の効力はさておき、、」とか言われまして、「『さておき』はないだろう」というふうに先生が怒っておられたのをまだ覚えています。『さておき判決』というんですか、裁判所では歯牙にはかけられないんですけれども、そういう先輩達が一所懸命そういうことで使ってこられたら、少しずつ認められるようになってきました。そういう風に一生懸命に言っていけば、下級審では少しずつそういう、ポツポツポツポツとなんか認めてくれるケースがあるなというのをつくづく思うのです。

私たちの事件の前にも『指紋押捺の事件』という大阪高裁の判決がありまして、その中で「損害論」の中ですけれども、国際人権規約の直接適法というのを認めました。その前には刑事事件の通訳費用の負担の問題で、それを東京高裁が国際人権規約違反を認めています。

このように、少しずつポツポツと認める判決が下級審で出るようになってきたのです。高松高裁もその流れに乗ってそういう形になったんです。

しかし、問題は最高裁です。国際人権法が使われる事件というのは、戦後補償とか、マイナリティーの事件が多くて、日本の国というのが被告となりまして、時代遅れの法律とか規則の効力とかが問われることになります。下級審の裁判所では国際人権法の効力を認めようとするものが少しずつ出てきましたけれども、最高裁は頑なに認めません。『指紋押捺の事件』で自由権規約の違反を認めました大阪高等裁判所の最高裁判決は、国際人権規約について全く判断することなく、破棄しております。

私達の最高裁判決も国際人権規約について「たった一行」しか判断がなかったわけです。これが自由権規約に関する最高裁の判断であり、これは高松高裁と徳島地裁の緻密な解釈論に到底及ばない。私がこの事件でつくづく思いましたのは、人権というのは人間にとって基本的な部分ですし、人権というのは、世界のどの国においても、国を問わず、保障されているはずです。だから逆に言いますと、人権侵害というのも世界中どこに行っても同じなのです。

私達の事件というのは 1990 年代の事件なんですが、それよりも 10 年ぐらい前に同じ事件が世界にはあった。イギリスの国にあったわけですね。キャンベル・フェルとイギリスの事件でして、これは 1984 年の 6 月 28 日にヨーロッパ人権裁判所でヨーロッパ人権条約に違反するとされました。ヨーロッパ人権条約と国際人権規約とは双子の兄弟で、国際人権規約がつくられる前にヨーロッパ人権版としてヨーロッパ人権条約というものが作られた。これはヨーロッパ人権条約の良いところは、裁判所がありまして、そこが判決という形できっちり出してくれます。判決には論理過程が必要なわけです。法律というか裁判というものの良いところというのは、やはり論理過程といいますか、そういうものがきっちり判決文の中に出てくるというのが良いところと、私は思います。

そこで、ヨーロッパ人権裁判所の論理過程というものと今の最高裁の判決の論理過程というものを比較すれば、その優劣といいますか、日本の最高裁の判決は、何にも判断していない、要するに「違反しない」といっているだけであって、何の理由も説得力もありません。地裁、高裁の判決と比べても、ヨーロッパ人権裁判所の判決と比べても、事案は同じことですから、その論理過程を比較したらどちらの判決が優れたものかということが、一目瞭然となると思うのです。比較すれば、国際人権についての姿勢の違いは明らかですし、また理論的な水準の差というものも明らかになっていると私自身は思うわけです。

最高裁としたら、日本の国では自分が一番偉いと思っていますから、なんと言いますか「お山の大将」でいられるわけですけれども、やはり世界という場になりますと、そこに引きずり出された時に日本の裁判所というものがどれだけ非論理的といいますか、低レベルな、理論的にも低水準の、そういう判決しか書いていないかという事が明らかになれば、最高裁への影響も随分違ってくるのではないでしょうか。後の戸塚先生の話になりますけれども、この事件と判決を、国連などの諸外国へ持って行って、どんどん明らかにしていけば違うのではないかと思いました。

国際人権法というものの解釈を、日本国内、裁判所の狭い解釈論の中に閉じ込めてしまえば、日本憲法の枠内に閉じ込めてしまうという事になります。しかし、最高裁の判決を国際的に出せばやっぱり非難されますし、理論的にも耐えられないものになるのではないか、という感じがします。そこら辺をいかいにその世界という、世界の場に持っていくかというところがこれからの私たちのこれからの課題になると思われます。これは考えようによってはとても面白いことです。

私は、戸塚先生からのお話がありまして、いろいろ皆さんに話をしました。

日弁連人権擁護委員会第 3 部会 (被拘禁者の人権部会) で話をする機会がありました。関西ではこんな面白い事をしようとしていると紹介しましたら、だいぶん激励されて、喜んで帰ってきました。

そういうことで、今までですと最高裁の判決が出た時に、それを批判する手立てというのがほとんどなかったんですけれども、それを日本の外に持ち出し批判される機会をつくることをしていかなければならないのではないか、ということをつくづく思いました。それで、戸塚先生の本番の話にも繋がるんですけれども、そういうことでやっていきたいというふうに思っています。

ところで事件の顛末について若干お話させていただきます。

北野さん、無事に刑務所から戻ってくることができました。損害賠償請求の中でいろいろな鑑定をやりまして、彼の訴えは鑑定で裏付けられました。私たちも彼を何とかしたいというふうに思って、刑務所から病院に移すか、医療刑務所に移せということで、私達がこれも原告になりまして徳島地裁に人身法請求をしました。裁判所では普通は門前払いが多いのですが、徳島地裁は、1 年あまり相当程度つっこんだ審議をしてくれました。最初は法務省のほうはタカをくくっていまして、高松法務局の検事しか来なかったんですけれども、終わりぐらいになりますとちょっとやばいなと思ったのか心配になったのか、法務省から検事が大挙来まして、相当程度つば迫り合いとなりました。裁判所は法務省に医療刑務所に移したらどうか勧告もしてくれたんですけれども、結局駄目でした。最終的には、徳島の裁判所もそれだけの腹がなくて、結局請求棄却になりまして、私たちは上告したんですけれども駄目でした。その理由は、国際人権規約違反というのは上告理由にならない、つまり憲法違反しか最高裁判所は受けつけない、しかも上告受理をしない、というものでした。条約違反については上告受理をしないというふうなことのようです。

ところが、最高裁の判決の 3 日後に北野さんは、法務省により徳島刑務所から大阪医療刑務支所に移されました。法務省も、裁判の間何をやっていたのかという話になるんですけれど、本人の病状を理解して移さないといけないと思っていたようですけれども、結局は移さずにいて、それで最高裁の判決 3 日後に、移したのでしょう。北野さんは結局医療刑務所でなんとか生き延びて出てきました。それは 1999 年 (平成 11 年) 3 月ぐらいの話です。そういうことで、彼をなんとか生きて返すという当初の目的だけはなんとか達しました。

一応事件の概略としては、このようなことで、終わります。