国連人権機関にどう働きかけるか
―― NGO ロビー活動のノウハウ ――

2002 年 5 月 18 日 (土)

講演者: 戸塚悦朗 (神戸大学大学院国際協力研究科助教授)


どうも 2 年続いてお招きいただきましてありがとうございます。それでちょっとコーヒーを飲みながらやらせていただきます。

大体私も神戸の生活になれてきまして、これで 2 年目なんですが、神戸で研究会とかこういうまじめな会の総会とかやると大体このぐらいの規模だということがわかってきたものですから、きょうも余りたくさんコピーをつくらずに 15 部持ってまいりましたけど、レジュメは届いておりましょうか。それで 2 枚ありまして、一つはレジュメで、もう一つが決議なんですけど、これもこちらに伺って今 2 年間ですが、国際人権問題研究会という研究会を立ち上げて、きょう麻田先生いらっしゃらないんですけども、麻田先生に大変お世話になって、今年度何をしようかということでこれをやろうということで決議をしたんですが、これは後でまた御説明をさせていただきます。そちらの総会も大体このぐらいなんですね。

それから、私は今神戸大学の大学院で教えている授業がありまして、国際協力研究科で、法律と経済とその他とありまして、法律の方が余り学生がいないんですけども、その地域比較法政策論という授業をとっている学生がことしは 12 名、去年までが大体 10 名か 10 名弱ぐらいですね。法律の授業は幾つかあるんですけども、場合によるとゼロというクラスもあるそうです。ほとんど大学院生は法学部出身じゃないものですから、法律に関心を引きつけるというのは難しいんですけど、この問題だと結構来るんですね。それで、幸いことしは 2 年間の実績と主張が実りまして、英語ではインターナショナルフィールワークというタイトルなんですが、日本語では海外実習ということで単位が取れるようになったんです。ジュネーブに行く国連人権 NGO の活動の実務トレーニングコースですね。

多分、日本の大学ではこのようなコースどこもありませんので、初めてなんだろうと思うんですね。まだ正式には決まってないんですけど、ことし 6 名が希望してますので、それを近々学内の正式な機関にかけまして、それで教授会の承認を得て、多分今のところは正式に認められるだろうと思います (注 2002 年 6 月教授会で承認された)。つまり、このコースのために特別にそういう者に単位を与えようということで大枠をつくったものですから、その大枠の方は教務委員会を通っておりますので、これはこのコースは認められるはずだというふうに、私は思っております。

それで、そういうこともありまして、海外実習のために何かマニュアルが必要だろうということで、授業の教科書に使うために、去年まではばらばらに資料を配っていたんですけど、まとめてテキストの形にして、ことしは学生に使ってもらうことをやり出したんですね。それで、大学院ですから「読んでこいよ」と言って、読んできたということを前提にやっているんですけど、なかなか皆読んでこなくて、きのうも授業で「もう少しちゃんと読むように」ということを言ったんです。先生方には多分これは非常に役に立つだろうと思いまして、学生の数よりもたくさんつくって余分を持ってきました。ちょっと高いんですけど、これは神戸大学の生協でつくったんですが、一冊 5,000 円なんです。きょうのお話のテキストとして使えるようにというようにして何部か持ってまいりました。残部がそうなくて、全部なくなると困ると思って、「これだけはここで全部買っていただいても大丈夫だ」という部数だけ持ってまいりましたんで、ぜひお買い求めいただければと思います。

「出版をこれしなきゃいけないな」と今思っているんですが、将来ロースクールでどの程度こういうコースを作るところができるかにもよるんですね。出版しても、NGO の人は買うでしょうけど、法学部の学生が果たして買うだろうかと心配です。

去年のお話である程度カバーしてるんですけど、去年はテキストがなかったものですから、テキストを荒っぽく御説明をした上でレジュメのお話に移りたいと思います。それじゃもう一冊必要でしたら、どうぞ私のものをお持ちください。

実は、きょう何部刷るかちょっと悩んだんですね。だけど、まあ残してもしようがないだろうと。また必要があったら刷ればいいかということで、原稿だけ取ってあって、こちらで多分必要だろうという部数と、それから授業で必要だという部数にほぼ限って刷りましたので、ちょうどこれで私の使う分と一、二冊残っているかな。それで万一の場合に備えればいいだろうというふうに思っております。

それで、その資料の説明をまずいたしますけれども、最初の方に私の書きました連載なんですが、これが法学セミナーがことしの 2 月で一応終わったものですから、その二つの連載があるんですけども、その連載のリストをつけております。その連載後、実は全部そういうふうに本みたいにしちゃえばいいんですども、まだなってないものですから、なっているのは慰安婦問題に関連のある一部を本にしたのが、前にお話をしたと思いますけど『日本が知らない戦争責任』という、現代人文社から出ている本でありますけども、その本でも足りないんですね。やはり「全体を出版しなきゃいけないな」というふうに思ってますが、とても 1 冊にはなり切らないので、どういうふうにするかこれから考えなきゃいけないと思うんです。

今度の実務トレーニングに必要な部分の最小限を、最初の方に入れました。入れたものは大枠 2 つありまして、1 つは、国際人権法、これは日弁連の新人弁護士研修というときの講演です。あれは新人の弁護士ですから随分たくさん見えまして、何人ぐらいいたのかな、1,000 人近くいたんですかね。それで 700 から 800 ぐらいいたんでしょうか。

そのときにお話した内容が 1 つあります。大体の趣旨は、要するに国際人権法というのは国内で直接適応できる。国内法制の一部になってるんだから、それを法廷で使うことができると。それをまず最初にやらなきゃいけないという、そういうことを言っていまして、そのときは私は国際法の部分を六法から切り取りまして、それで「この順番がおかしい」と、「憲法の次に入れるべきだ」と言って教えたんです。けれども、そういう六法も実はあるんですね。本当、驚きましたけどその中にちょっと書いておきましたが 1 冊だけありました。労働法について ILO の条約の方を、国内法より先にしているというものです。

考え方として、憲法と国際法とどっちを上に持っていくかというような論争がありますけども、多数説はどうも条約優位説だということなんですね。国際法が優位だというのが多数説だそうですが、最低限法律より優位ということで「憲法の後ろに入れたらいいんじゃないか」というふうに私は主張しました。私しかいないという主張だと思ったら、幸か不幸か 1 冊だけそういう考え方に従ってできた六法というか、労働六法でしたけどもありました。だけどあとは全部国際法は最後ですね。

これは、どうしてそうなのかよくわからないんですけども、盲腸みたいなものなんですね。それでその盲腸が高じまして今度はもう司法試験からもなくなるというんで、ますます国際法が軽視されてるという状況です。これは由々しき事態だというふうに思いますけれども、とにかくそういうことを言ってます。

それから、その中でもう一つ言ってることは、もし国内法の手続で国際人権法違反が解消されない場合どうするかといったら、国際手続に訴えると。「そのときに国際手続が初めて役に立つんだ」ということで、国際的な手続と機関のことを説明しているんです。大きく分けて条約による手続、それは皆さん御承知の規約人権委員会に対する報告書制度、あるいは経済的、社会的、文化的権利に関する委員会への報告書制度、それに対するカウンターレポートですね、その制度があると。

それは、大体最近 NGO が非常に活発に使っています。驚きましたけれども、去年の社会権委員会にも数十名の NGO の代表が日本から行ってます。これは世界的にも例のない規模ですね。ほかの国はもうほとんど来ません。実際この制度を使える国がたくさんあるんですが、ジュネーブへ来るのは大きな NGO が一、二来ているというだけで、問題の国から来ているというのはほとんどない。これは、「多分日本の経済力を示すものだ」という考え方が一つ、もう一つは、やはり「いかに国際的に通用しない国内法上の運用がなされているか」ということですね。物すごく不満がうっせきしているという状況をよくあらわしているんだろうと思います。

それから、報告書制度というのは使いやすいものですから、参加者が多い。条約による手続には、皆さんがこれまで運動をしてこられた選択議定書の手続がある。それは批准しなきゃ使えないから、その批准運動をしなきゃいけないと。

もう一つの手続として、条約によらない手続があります。これは憲章上の手続です。これはインターネットで人権高等弁護官のホームページを見るとすぐわかるんですが、上に 2 つ索引の穴が開いているんですね。一つがチャーターベースドというのですね。憲章による手続、これが実は条約によらない手続です。条約といっても、国連憲章だけが条約ですね。国連憲章が基礎にあって、その中に基本的人権の保障というのがあるものですから、そこから始まる。

大体、「基本的な人権の保障という言葉が国際法上使われたのは国連憲章が初めてなんじゃないかな」というのが、私の今の大ざっぱな考えなんですが、そこに 1 つありますね。

それから、もう一つ下にトリーティーベースドというのがありまして、条約による手続と。社会権の委員会が微妙なんですが、一応条約機関の方に分類されているみたいですね。

この 2 つの手続が、やっぱり相当違うものですからそれで分けられているし、沿革上も大きく違う。だから、条約に批准しなくても国連に入りさえすれば、国連憲章を認めていさえすれば条約によらない手続は使える。日本の場合、選択議定書を批准してないので、今そっちの方が大事じゃないかと思います。そういう趣旨で、私はその後に条約によらない手続の使い方というのはどういうものか、それの使い方をどうするかという基礎知識みたいなものを、5 回に分けて連載したものをつけております。それを見ていただくと、大体憲章上の手続についてわかると思います。

ただし、「どう使うか」はなかなかそれを見ただけではわからないですね。わからないけれども、「建物の中でどういうふうに行動するか」というのをわかるためには、まず建物がわからないといけないので、その建物はわかるという程度には書いてあると思いますし、それから、先例も幾つか書いておきました。先例というか、これまでどういう活動があったかということですね。

それで、大阪弁護士会の行動というのはその延長にくるわけですけれども、そこをまず見ていただいたらどうかというふうに思います。その後で、条約による手続というのはどういうのか。そのサンプルとして去年参加した経済的、社会的、文化的権利に関する委員会というのはどういうものかというのがちらっとわかる程度の資料をつけてあります。それで、もちろん各部分がこれだけでは足りませんから、その先はまた勉強していただかないといけないんですけども、一応大枠はわかるということですね。

それから、チャーターベースド、条約によらない手続というものの代表として「人権小委員会というのはどんなものか」というようなことがわかるようなものをそこにちょっと入れてあります。これは、先生方はもう御承知なんですが、学生には全く、皆目見当がつかないようなものですから、そういったものでもちょっとそこに載せておいてそれをもとに考えさせるということですね。

例えば来週、再来週の授業ではコンピューターを使うというふうに言ってるんですが、コンピューターによって今の条約による手続と条約によらない手続、その 2 つについてどんな情報がそこにあるのかということを、大ざっぱにわかるように教える予定です。

例えば、そこに人権条約宣言のリストがありますけれども、それだけでもみんな目が回るほどたくさんありますので、学生たちは見ただけで拒否反応を起こす可能性があるんですが、コンピューターを使ってやってみると案外簡単なんですね。索引の方法が上手になれば、キーワードを「ぽん」と入れると、例えばカンボジアについて研究しているとか、ラオスについて研究しているとか、ルーマニアについて研究しているとか、そういう人はその国の名前を「ぽん」と入れると、関係しているものが全部「ばっ」と出てくるんですね。それで、それを丹念に読んでいけばコンピューターだけで相当のことがわかる。

詳しくは、例えば NGO の出した文章、去年私どもが出した文章があります。JFOR で出した文章があるんですが、その文章は「慰安婦」問題ですけども、それをインターネットで探してみますと出てこないですね。NGO 提出文章のうちごく大事なもの、アメリスティインターナショナルとか、そういうところが出しているものは幾つかは出てきますが、私たちみたいに細かい NGO の出したものは出てこない。これは国連の作業が追いつかないんだろうと思います。だけど、そういうものについては載ってなければ、神戸大学に兼松記念館というのがあるんですが、その裏に国連寄託図書館というのがあるんです。ほとんど閑古鳥が鳴いてますので、そこへ行けば行列もしないでとにかく開架式ですから自由に見られる。これはすごいですね。

国会図書館なんか、私時々行くんですが行くと、全部文書を特定して請求しないと出てこないですね。出てくるまで物すごい時間がかかりますし、神戸大学の場合は、見る人がいないものですから、防衛も非常に甘くて、あれだと「持ち出されちゃったらなくなっちゃうな」という気がするんですけども、自由に見られる。これは非常に便利ですね。ぜひ御活用いただいたらと思います。

だから、どうも学生にとっては神戸大学というのは物すごく研究のしやすい宝の山みたいなところですね。雑誌なんかも非常によく整っています。

いずれにしても、コンピューターを使えば、これはいながらにして、その寄託図書館とすべて同じとはいいませんけど、例えば 10 年ぐらい前からとかですね、一定の期間しか取れないというのが一つ問題ですね。それから、もう一つは今申し上げたように出ていないところがあるという欠点ですね。若干そういう欠点はありますし、コンピューターの性能が低いと、時間がかかったりする。それから「プリントアウトしなきゃいけないと」なったら大変というのはあります。ただし、最近は CD-ROM を買えるんですね。これ幾らだったかな。

なぜ CD-ROM になったかなんですけれども、これは開発途上国に対するサービスの一環だろうと思いますね。途上国はインターネットさえつながれば、ジュネーブに行かなくても国連に行ったのと同じだけの情報が「ばっ」と手に入るんだ、という状況にできるということで最初やったんです。実はやってみると、コンピューターの数はもちろん少ない、使える人が少ないということもあるんですけれども、途上国のコンピューターは恐らく性能が低いんだろうと思うんですね。国連の方でどんどんアップデートしていきますので、ある程度近代的なコンピューターがないと読めないようなものになっちゃったんですね。そうすると、もう三、四年前のコンピューターをいまだに使っているところだと、情報をとりこむのが遅くて入ってこないですね。だから「最新のコンピューターがなきゃいけない」ということになるんだろうと思いますね。それから、通信状況の悪いところはだめなんですね。それから、やっぱりコンピューターは高いですから、そうなるとこれは実は「通信が便利になったということで人権情報を世界中に、どんな人にもたちどころに届けられる」という、理論的にはそうだったんですけども、現実的にはそうならなかった。

それで、去年の段階で、国連高等弁護官事務所が多分 5 万ドルぐらい寄附を募っていたんですね。「そのぐらい日本政府が寄付してくれないか」ということだったんですけど、結局しなかったと思うんですね。「5 万ドルで何をするか」ときくと、「CD-ROM を開発するんだ」というふうに言ってました。それが多分できたんだろうと思うんですよ、最近広告が出てます。この CD-ROM を買えば、もちろん更新はできないんですけども、また新しいのを買うときに安く売ってくれるかどうかありますが、多分 10 年分ぐらいだったですかね、全部入っているんですね。これも何か CD-ROM じゃなくて CD-RW とか何とか、何でしたっけ。何かそういうようなのでなきゃだめだとなっちゃうと、古いコンピューターでは読めないんです。 CD-ROM だったら「古いコンピューターでも読めるぞ」という考えなんだろうと思うんですね。神戸大学のような大きな資料センターを新たにつくるのは非常に大変なものですから、その CD-ROM を買うことによって弁護士会なんかでも恐らく解決できるだろうというふうに思います。それがその資料のそこまでですね。

その先は、何があるかといいますと黄色の枠があって、それだけ見ていただいたらと思います。次々見ていっていただいた方がいいと思いますが、その真ん中ぐらいの黄色の紙がありまして、それの次に入っているのが 1984 年/E/CN.4/sub.2/1984/SR 幾つというのがありませんか。SR19 かな。そういう文章があると思うんですが。それ見つかりましたか、国連のマークがある真ん中辺です。もっとずっと後ろですね。

これが何か気がつく方いらっしゃいますか。これは何だ。この SR というのは、E というのは経済社会理事会なんですね。CN.4 というのが、これが人権委員会です。4 番目の委員会ですね。そのあとの Sub.2 というのが 2 つ目の小委員会です。実は最初の Sub.1 というのはなくなっちゃったかと思うんですけども、これが人権小委員会ですね。あとが年度です、1984。そしてそのあと SR という Summary Record というんですね。Summary Record というのは、その下の方にも書いてありますけども、それは要約記録ですね。国連の審議録です。

国会みたいに全文出すのはお金がかかるものですから、要約してと。この要約だけでも出てると大変なものなんですけども、これが出るのにちょっと時間がかかります。三、四週間かかります。

審議の直後には、毎日プレスセレリースが出ています。記者発表ですね、その記者発表というのは荒っぽいんですね。荒っぽいんですけども、早いものですから便利なんですね。記者発表は大体英語とフランス語で出ますが、この Summary Record も午前が英語なら、午後はフランス語というふうに出ます。そして、会期が、これ 19 番目となっていますけれども、これは午前、午後で 1 回、2 回と数えます。これだと 19 番目の会議ですね。それでそこの後ろに発言の大体の要旨が書いてあるんですよ。それで、私はページを忘れたんですけども、今最初が何ページだったですか。187、そしたら 195 とか 6 とか、その辺を見ていただいて、左の方にシェアという人の名前がないですか。左の下の方ですけど。196、やっぱり大体当たってたな。シェアというのがありますね。これどなたか何だかわかりますか。

広中先生は、当事者ですからおわかりだろうと思うんですけど。思い出されますか。たしか広中先生が事務局長のときじゃないですかね。違いましたか。広中先生が事務局長のときに、人権協会で第 1 回の市民版レポートというのを出されたと思うんですね。私の持ち込んでいた精神障害者の人権の問題が、第 2 番目になったんですね。追い越されちゃったんですね。最初に出したんですけども、少し議論が長引いて、1 年ぐらい議論しましたかね。先生が事務局長の間に議論していて、それが継続されたんでしょう。

カウンターレポートを出したときは、先生のときでしたっけ。たしか、先生のときか、その次かのときに、インターナショナル・リーグ・フォ・ヒューマン・ライツ (ILHR) につないでいただいたと思うんですね。広中先生のときだったな。

それで、ILHR というのは NGO です。人権協会は国連の NGO ではないので、直接の発言はできませんが、アフィリエイト、つまり加盟団体です。そこで ILHR に頼んだわけですね。この ILHR というのはボールディングが「人権協会をつくれ」というふうに日本の在野渋曹に連合軍の政策の一環でしょうけども、言い出したわけです。そのボールディングたちは ACLU の幹部で、それで ILHR をやっておったんだと思うんですね。

これは、アメリカ自由人権協会の、要するに国際的な窓口ですね。しかし、世界中に加盟団体を持って、国際的な NGO になって、そして国連から諮問資格をもらっていたわけですね。カテゴリUという人権に特化した NGO です。アムネスティ・インターナショナルと同じですね。それでそこはアクレディテイションといって、信認状を出すことはできるんですね。ILHR から私の名前の入った手紙を国連あてに出してもらわないと、私は国連に出られない、国連で発言もできないわけですね。

そこで、それが欲しくて自由人権協会にお願いをして、精神病者の問題の審議をしてもらって、「これならいいだろう」ということになって、人権協会から ILHR へ信任状の要請書を送ってもらったということなんですね。ですから、やはり国連 NGO を説得をしなきゃいけない。国連 NGO のオーケーを取るためには、やっぱりそこに所属している国内 NGO の説得をしなきゃいけない。それが最初のプロセスなんだということがわかるんですね。これは結果なんです。そういう準備を 1 年以上やったのです。その前に実はもっと準備しています。このようにして人権協会の理事会を通して、手紙をアメリカに送ってもらったら、アメリカからある日突然電報が来たんですね。あの当時はたしか電報ですね。

それで、その電報が私の事務所に来まして、その電報が言うには、「8 月の何日に、そのジュネーブにあるホテルエデンに到着せよ」という指令ですね。ですから、そうなったら事件を全部、とにかくキャンセルしました。余り時間的余裕はなかったですよ、たしか。それでジュネーブに飛んで行ったわけですね。ジュネーブでホテルエデンというのは国連へ歩いて 10 分ぐらい。これがすごく大事なんですよ、こういうことろは。やっぱり先方はなれているものですから、そのホテルエデンを定宿にしていました。NGO だと 1 割引きになるんですね。

最近、私はその隣のホテルに移ったんですけども、その隣のホテルはアムネスティ・インターナショナルなんかがしょっちゅう使うところで、キッチンがある部屋があるんですね。ですから、安く泊まれるものですからそこへ移りました。それがモンレポという、休息という名前なんですが、このホテルには去年のうちから予約をしてあります。ことしも 7 月の 28 日、日曜日から予約をしてあると思いますね。約 1 カ月ぐらい予約がしてあります。そこは 2 週間以上泊まらないと、そのキッチンのある部屋に泊まれないんですね。キッチンのある部屋に泊まると、スペースがホテルの倍になります。それから、キッチンが使えますから食費がすごく助かるんですね。何かと便利です。私も子供連れで行くものですから、少しスペースがないといられない。とにかくそこを使うんですね。やっぱりホテルに泊まるよりも半額ぐらいになると思いますね。半額以下になるかな。それがだんだんわかってくるんですね。だけどそういう実用的なことはすごく大事なんですね。そういうノウハウをどう学生に教えるかということを今やっているんです。その「ホテルエデンに来い」と、こういうことで飛んで行ったんですね。

そうしましたら、そこにニナ・シェアさんという人が待っていた。この方には、実はその前の年に原後先生がお世話になったのです。原後先生は、二弁の人はみんな知ってるんですけど、すごく元気のいい、私よりも先輩の先生がおられまして、たしか日弁連の人権委員会の代表という資格を持って、サハリンの残留韓国人の人権問題を国連に訴えに行ったんですね。そのときには、発言は息子さんが読まれたと思うんですけど、久保田洋さんが生きておられて、国連の事務局で人権小委員会を担当しておられたものですから、大変助けてもらったということでした。

その原後先生から紹介していただいたのはそのニナ・シェアさんです。紹介というよりも「私はこうやったよ」ということです。「人権協会を通じてこういうふうに手紙を出してもらって、こういうふうにやりました」というそのプロセスを教えていただいたのと、その久保田さんの電話番号を教えてもらった。その 2 つですね。これがすごく大事なんですよね。当時は本もないし、何も情報がありませんから、とにかくその原後先生にお会いして、「どうしたらいいんでしょうか」ということでノウハウを伺って、それで始めたんですね。

何か、国連に行かなきゃとにかく解決しないというふうに思い込んでたんですよ、そのときは。なぜ思い込んでいたかというと、日弁連から私は「出入り差しとめ」ぐらいの処分を受けておりまして、こういう法改正とかそういう主張をしちゃいけないということになっていました。精神病者の人権問題について、精神病者集団という患者団体があるんですけど、そこの言う日弁連批判を載せた本を二弁人権委員会編集で出そうとしたら、「出版禁止」と言われまして、二弁編集の本が出せなくなりました。結局、私と精神科医広田先生の共編の形で 3 冊の本 (亜紀書房刊) を出したのです。実は、二弁人権委員会の仕事なんですね。

そのくらい周辺が厳しかった。マスコミが支持してくれない、そんなことは大したことじゃないですね。やっぱり日弁連が支持してくれないというのは、これは大変なことです。

そういう状況ですから、人権協会の御支援をいただいたのはありがたいことだったんです。二弁も支持してくれました。それで国連へ行くぐらいのことをしないと、とても日本の壁は破れないということで、「行けば破れる」と思ったわけじゃないんですけど、何かしなきゃしようがない。何かするためには、もうこれしかない。病院の中で人が殺されてるわけですから、とにかくそれを阻止するためには、何らかのアクションが要るということですね。日本の裁判とかそんなものでは、あるいは日本の日弁連とかそういうものではとても解決できない種類の人権問題を解決するためには、こういう非常手段しかないという、非常に思い詰めた気持ちで取り組んだことなんですけど、幸いそれは当たったんですね。

ILHR のこの発言があったときに、朝日新聞が 1 面トップで書いてくれたんですね。それで、そこへ行くプロセスをちょっと御説明しますと、その後ろです。その後ろに、サイカイアトリー・ロー・アンド・エシックスという本にのった、英文の論文があると思うんですね。これは出た時期はちょっと遅いんです。ですけども、実際は二弁の研究の成果がここに全部ありまして、それは喜田村先生と私と光石先生の 3 名の連名の論文になってるんじゃないかと思います。二弁の人権委員会の研究成果を私がまとめまして、その 3 名の名前でイスラエルのハイファというところで開かれた学会に発表したんですね。それが国連に行ったのが 1984 年の 8 月ですから、1984 年の 8 月の前ですね。2 月だったか、何かその辺じゃなかったかと思うんですけども、もうちょっと前かな、ちょっと記憶がはっきりしないですが、前なんです。

それで、学会に行ったわけですが、大変な評価を受けました。日本では新聞も書いてくれないし、だれも評価してくれない。それが、国際学会に行くと非常に評価されるということがわかったんですね。それは 1 つのテストなんです。およそ論文というのを発表したのはこの英語の論文が初めてなんですね。それまでに、日本語の論文はどこにも発表したことはありません。これも要するに「国際的にどう評価されるか一応テストしなきゃいけない」ということで、一番手近にあった国際会議に申し込んだんですね。これは寺嶋先生という医師が教えてくれた会議だと思います。

論理的に考えて、法的な主張も、内容的な主張についても、「これは国際的には極めて注目される間違いのないものだ」という自信を得て、それで人権協会の方にもそれをお出ししたんだと思うんですね。だから、その英文のものもたしか同時に人権協会にも ILHR にも送っているわけですね。その発言なんですが、今回のテキストには載せてありません。だけども、その発言の全訳をその後ろの方に、日本語の論文の抜粋を幾つかつけてますけど、それは『精神医療と人権』の一部です。この本は、日弁連の刑法委員会から二弁の会長を通じて「これは出版できない」というふうに言ってきたものですね。

それで、その本に運動の概要と、それから問題の所在ですね、宇都宮病院事件で何があったかを報告しています。英文の論文の方には、宇都宮病院事件はないんです。その当時は、実は宇都宮病院事件は調査中でありまして、発表できる段階ではなかった。だから、その全体状況と法的な主張だけをそこで出したわけですね。

国際的な運動のときにはそういう英文の資料が絶対要るんです。それでそのサンプルとして、こういうものをつくらなきゃだめだというサンプルとしてそこに入れたですね。これは出版されましたから、もっといい。英文の資料をつくったら、それが出版されるというところまで運動として持ち込むというのが大事なんですね。

私たちがやっているのは研究じゃありません。だけど、研究がベースにないとそういうふうに評価もされない。「二弁の研究というのはやっぱり相当の水準だったんだな」と、今から思うとですね。ですから、やはり単に新聞記事をコピーして持って来るというのじゃなくて、独自に学問的な批判に耐える事実の調査、法的な主張というものをきちんとつくって、それを持ち込むと。そうすれば評価されるし、それを国連で、配りながら発言をするとよいと思います。

ニナ・シェアさんの発言は、ほぼ半分が宇都宮病院事件です、実は。宇都宮病院事件は、その当時国連活動に合わせて調査しまして、殺人の証拠はほぼ固まって、国会の予算委員会でそれを取り上げてもらうところまできました。その取り上げてもらう日に、朝日新聞に記事を解禁するということで、朝日と共同調査をしたんですね。とりくんだのは私たち二弁委員会などの人権のごく一部の弁護士と、社会党の政策審議会、それと朝日新聞です。

朝日新聞にはこのとき、もう亡くなったんですがデスクをやっておられた非常に誠実な記者で、武田さんという方がいました。冤罪にずっととりくんでいた方です。その前にスモン訴訟のときに毎日に特ダネを抜かれました。それは私どもの出した情報だったんですが、夜 12 時ごろ尋ねて来られて、「よそのトップ記事でも朝日は大事なものだったら報道しますので、ぜひ教えてください」というのです。資料を全部さしあげました。そしたらすぐに追いかけて報道してくれました。そういう非常に誠実な方でした。

二弁で精神病院による人権侵害の調査をやっていたものですからだんだんに情報が入ってくるんですけども、幾つも殺人病院の情報が入ってきたんですね。宇都宮病院事件もその 1 つですが、「一番ひどいだろう」というんで武田さんにお話して、武田さんが 26 人のチームをつくってくれたんですね。それはやっぱりすごいですね、朝日でも余り前例はないと思いますけど、その中に本田雅和さんとか水野さん、橋本さんなどもいたんです。優秀な方が活躍してくれました。

それで、その朝日が先に報道する可能性もあったんですけども、実は私達は国会に寄りかかったんですね。それは、当時精神病者の言うことを聞いて記事を書いた場合、「これは名誉毀損でやられる可能性がある」という判断が弁護士側にはやっぱりありました。ですから、国会で取り上げてもらった場合は免責特権があって、一応セーフですから、その国会で審議されていることを報道する分には問題は少ないですよね。全然ゼロではありませんが、問題は減るということでタイアップしたわけですね。

それで、それが朝日と毎日と読売とに途中で漏れるんですね。それで、毎日の知り合いの記者から物すごく強く取材を受けて大変だったんです。実は毎日と読売はそれぞれそれに強い人がいまして、共同もそうですけど、こちらの関係者のチームの中で担当を分けたんですね。その担当の人が、ちゃんとしかるべき話をして資料も渡しているんですけど、取材が十分でなかったんですよ。要するに、精神病者の言うことは信用されないんですね。

だから、朝日が先行したというのは、これはしようがないんですよ。朝日は多勢の記者を張りつけて取材してくれました。宇都宮支局の 2 人の記者が、もう精神病院の中まで入り込んで、隠しカメラで写真をじゃんじゃん撮っているんですからね。バケツの中に入れてある脳とか、そういうものを全部写真に撮っているんですよ。だから、朝日新聞は一報したら、その後続けてトップ記事を幾つも続けられるだけの材料を持っている。ところが、読売と毎日、その他は国会審議の予定日の直前にだれかがリークして、知ったものですからそれはもう大変な騒ぎになって、情報を集め出したんですね。

朝日新聞の宇都宮事件第 1 報は、実は 1 面トップにならなかったんですよ。これは社会面へ持っていったんだったかな。要するに、1 ランク落としたんですね。理由は、2 人死んでいるんですね。2 人殺されているんですけども、そのうちの 1 人について合併症がありまして、「死因が暴行によるという、確実な裏づけがとれない」ということで、一段落としたらしいですね。ほかの社は、「国会でとりあげる」というものですから、その概要がとにかく 1 面トップだったと思います。これがすごく大きかったですね。

この情報を国連に持って行ったのです。だから、その内容自体非常にしっかりしたものだったということと、もう一つは宇都宮病院事件のショックといいますかね、その 2 つだろうと思いました。

しかし、国連に持って行って発表したのも、そういうことをやったのはその前の年に原後先生だけですから、日本の問題が国連にきちんと出てくるというのは非常に少なかった。アメリカ人が発言したのもよかったみたいですね。朝日は 8 月、このニナ・シェアさんの発言ときの報道は、「米団体日本の精神衛生行政を批判」というものでした。これ米団体じゃないんですよね。アメリカに本部があるけど、国際団体なんです。「その辺で、また全然間違ってる」というふうに私は言ったんですけど、アメリカ人が発言したというところが、ショックが大きかった原因の一つだったわけですね。

なぜその後すぐに法改正されたか。これはですね、アメリカ政府がかんでたんじゃないかということを、いまだに私は疑いを持っているんですね。ガエさんという方がいまして、女性ですけど ILHR のトップでした。95 年でしたか、国連の人権委員会で女性に対する暴力の特別報告者という制度をつくるというときに、アメリカ政府がジェラルディン・フェラーロという、もと副大統領候補の女性を主席代表で送ってきたんですね。そして、NGO フォーラムをやるんですね。米国政府の NGO フォーラムですから、そのジェラルディン・フェラーロが説明をする主要人物なんですが、それを取り仕切るのはもちろん NGO なんです。「取り仕切って司会している人はだれだ」と思ったら、ガエさんなんですよ。ILHR は、アメリカ政府の大統領候補でも主席代表でも、その NGO フォーラムに呼んできて、大きな集会を取り仕切るだけの力を持っているんですね。小さい団体ですよ、専任は少人数です。

そのときに私も「発言したい」と、こういうふうに言ったら向こうも知っていたのか知らないのかわかりませんけど、係がやってきまして、「おまえは何を聞くんだ」と。「おまえはだれだ」と聞かれて、ちゃんと身分を明らかにしたら、そのガエさんがそれを見て、何かわかったかもしれませんけど、発言を許可するんですね。

それで、余りにも早いんですけどこの 1 面トップがあって、私は日本に帰りますでしょう。当時緒方貞子さんがニューヨークの人権担当の大使なんです。国連代表部に大使は 2 人いまして、次席大使がニューヨークから人権委員会の為にジュネーブにくるんです。その緒方さんは、普段はニューヨークにいるんですけど、その緒方貞子さんが日本に見えました。私は連絡を受けて、「外務省で講演してください」と言うものですから、ちょうどそこにお配りしたテキストの中にもある『精神医療と人権』 (亜紀書房) の第 1 巻ですね。3 つのうちの第 1 巻が出たところだったので、それを持って外務省へ行って講演をしたんですね。これよりもっとずっと大きい会議場でした。外務省の職員がいっぱいいて、そこで私は講演をして説明をしたんですね。

外務省は、ほぼ私どもの立場をすぐに飲み込んでくれました。緒方さんがそのとき言ってたのですが、「この精神病者の人権問題というのは、ソ連の問題だと思っていたんだけども、これは日本にもあるんですね。私これを知ってびっくりしました」と言うんですね。だから、僕は最初「緒方貞子さんが猛烈に物わかりのいい方で、外務省内で説得力があって法改正がなされるようになったのかな」と思っていたんですね。

ところが、今思うのは、「緒方貞子さんはニューヨークでアメリカ政府と話し合っていたんじゃないかな」という気がしてしようがないんですよ。なぜかというと、この精神病者の問題というのはもともとアメリカ政府とイギリス政府も話し合って、イギリスの方は恐らく ICJ、これはニール・マクダモットさんという、もとイギリスの労働党の閣僚ですガ、この方がトップでこれを中心的に取り上げる。アメリカの方は、この ILHR がこれを取り上げる。こういうふうにしてずっと国連審議をやっているんですね。

ILHR はたくさんのことはやらないんです。この年は、日本の精神病者の人権問題でわたしともう 1 人はサハロフの甥子さんです。アメリカにいて、その方がロシア語みたいな英語で訴えたんです。「サハロフを解放しろ」と言ったんでしょうかね。それだけですよ。だから、ILHR というのはアメリカの国策に近いラインで動いていたんじゃないかと思うのです。ソ連を批判するためにこれをやっているのに、にわかに日本が主役になっちゃったわけですね。「日本の方がひどい」というふうになっちゃうと、ソ連批判のために精神病者の人権問題を使えなくなっちゃうということじゃないのかなという気がしてしようがないですね。だから、「早く日本は火を消せ」と。「そうじゃないと大変なことになるよ」ということを米国政府が言ってくれたんじゃないかと。それがなかったら、中曽根さん、後藤田さんがもうすぐ「ばっ」と決めて、法改正の方針が決まるということは説明がつきにくいのです。情報がすぐ行ってるんですよね。中曽根さん、後藤田さんのところへ。

そして、すぐ 2 人で「法改正をしよう」と決めちゃって、厚生省トップに秘密指令したんだそうですね。いきなり、課長人事を差しかえてしまったところが局長がこの法改正に反対。反対派の人が転勤した翌日に、「法改正する」というのを記者発表したんですね。ところが、日航機が落ちたものですから、1 面トップにならなかったんですけどね。それで仲課長が、ジュネーブ国連人権小委員会に行って「法改正します」と発表するんですね。

余りにも、うまくいった。それで、うまくいったのは、「うまく国連審議を使ったからだ」というふうに私は思っていたのですが、うまく行ったのには、それなりの幾つかの要因があったんじゃないかと思うんですね。本当のところは、私たちもわからない。そういう幸運が絡んだということはあります。それから、国内的な運動が非常にやっぱり精神科医療従事者中心にあったことも大事です。日弁連内の運動はすぐには成功しませんでした。法改正がなされて、日弁連が転換するんです。しかし国内に運動があったというところはよかった。そういうことじゃないかなと思ってるんですね。

その後ろに、次のケースですけども過労死があります。この過労死は、発言後、私と、今、日弁連の国際室長をやっている上柳敏郎先生と 2 人で取り組んでいます。実は、この当時「選択議定書を批准しなきゃいかん」と思いまして、これは IEDE (国際教育開発) というところの代表として行動しているんです。この IED で発言した理由ですが、とにかく毎年日本の重大な問題を国連に持って行かないと、日本政府は選択議定書批准の努力をしない。「批准さえすれば、こういうような発言はとまる」と思えば批准するだろうということで、いろいろの発言をしたんですね。しかし、大きな人権問題ってそうないんですよ。

拷問の問題、代用監獄接見交通権問題というのがその前にあると思います。これは、1503 手続で、もち出しました。これは 1988 年ですね、1988 年にイギリスに行くときに 5 人の弁護士さんからお餞別をいただきまして、そのお餞別の分だけジュネーブで作業をしまして、1503 手続でそれを出したんですね。お餞別の理由は「とにかく拘禁二法をとめるためにはこれしかないから、何か国連でやつてきてくれ」というんです。それで 1503 手続で訴えを出したんですね。1503 の書面をを出しておいて、それを使ってロビーングをして、NGO の人たちを日本に招いたんです。それで、件も来てくださって、報告書が出るんですね。3 つぐらいの NGO から報告書が出ました。これは NGO 実情調査団を活用する方法です。

過労死の方ですが、要するに材料が尽きまして、「何か重大な人権侵害をとりあげやらなきゃいけないけども、何がいいか」と思っていたら、新聞に「過労死で 1 年に 1 万人死ぬ」って書いてあるんですね。ところが、私の友人の弁護士たちはやってないんですよ、そういう事件。「何でやらないんだ」と言ったらですね、「やっている」と言う。「何をやっているんですか」と聞いたら羽柴先生だったかな、「休暇を取れないというのがあって、それを訴訟している」というのです。新聞記者がですね。「だけどそれじゃ弁護士としてやっていけないだろう」と思いました。休暇取れないというのでは訴訟物幾らでしょうか。損害賠償としても幾ら取れるんでしょうか。弁護士の労力の方が何 100 万円もかかるんじゃないかと心配になりました。それじゃ、自由人権協会の弁護士はみんな経済的に成立しないんじゃないかと思うのです。

ところが、片方は 1 万人死んでる。労災保険側は、ほとんど認めないというわけですね。全部亡くなってるわけですから、大事件です。「過労死弁護団というのがあるぞ」と言うんです。私の友人はほとんどだれもいないんですよ。自由人権協会とは系統が違うんですね。自由法曹団系の法律事務所が中心のようなんです。

それで困りました。いきなり新聞記事に基づいて国連で発言すると、恐らく弁護団が「迷惑だ」って言うんじゃないか。迷惑かけてまでやることはないからというんで、その事務局の事務所にごあいさつに伺いまして、「実は私こういうことを考えているんですけども、御迷惑でしょうか」って率直にたずねたのです。「御迷惑どころかやってください」というお話になりました。それで上柳先生がそのとき担当でした。アメリカのワシントン大学へ行って論文を書かれて、そういったものもあるものですから、英文の資料もあって、「じゃ一緒にやりましょう」ということで、そのエデンホテルに泊まっていただいて、それで一緒に取り組んだのがそれなんですね。

これは拍子ぬけしました。というのはですね、政府が反論しないんです。IED で発言を 1 回しました。そしたらですね、反論なしですよ。私が今までやったのでは、「おまえの言うことは違う」と、いつも反論ばかりでしたけども。反論しなかったのはこれが初めてだったんじゃないかな、当時は。それで、「何で反論しないんだ」と聞きに行ったら、「私たちも過労死するんです」と言うんですよ。だから、「これはやってもおもしろくないな」というふうに思いましてね、翌年はたしか文書提出か何かやったと思いますけど、2 回アクションをとったと思います。

それで、伺ってみますと「少しよくなった」というんですね、反応が。ですから、「それ以上続ける必要ありません」という、こういう話になりまして、「じゃもうこの辺でやめましょう」ということで、2 年でたしかやめたと思います。

これは法的にはしっかりしているんです、研究が裏にありますから。私がやった研究じゃないんですけども、上柳先生がちゃんとアメリカに行って研究をして、その成果がありますので、それを私の方で少しアイデアを加えてですね、これは休息を取る権利でいいんですけど、「そういう権利を侵害しているというのをベースにしてやろうじゃないか」というので発言したんですね。これは休息を取る権利でいいんですよね、国際法上は。だけど、休暇を取れなかったという訴訟だけ国内裁判をやっていたのでは、これ弁護士としては全く失敗じゃないかというのが私の当時の印象でしたね。これはもう、「自由人権協会系の弁護士さんというのは、ますます疲弊していって、自由法曹団系の弁護士さんたちはますます栄える」ということになるんじゃないかというふうに、私は当時思いました。

テキストに全部発言と研究というふうに並べてありますでしょう。私は、学生に「皆さん研究しなさい」と言っています。その研究がこういうところに行って芽を吹くんです。「研究が英文になってなかったら、国際的な場で話し合いができないんです」と。「だから書きなさい」と、「まず日本語で書きなさい」ということを勧めているんです。

そういうことで、その後ろの方に資料があります。全部資料で終わっちゃいますね、これは。

大体そういうことで、その一番最後には何がついているかというと前にもお配りしたんですが、どこへ行って泊まったらいいか。どうやったらバッジが取れるか、一体行く前に何を検討したらいいか、そのチェック事項が大体後ろの方にあるんです。それは去年御説明しましたので、読んでいただければよろしいということで、省略いたします。

あと 10 分ぐらいのうちに、これ全部レジュメの方をやります。

それで、大体その資料を読んでいただいたら、どうやったらその活動できるかというのはわかるということで、バックグラウンドを御説明したわけです。最初に、去年の大阪弁護士会の評価なんですが、これは私は「非常に成功したんじゃないか」と思います。それで、一応私も法律新聞に書きましたので、あるいは法学セミナーに書きましたから、形にもなっているということですね。これは非常によかった。

問題は、「これを継続するのにどうするか」、これが難しいんですよ。今までの私の精神病者の活動も、5 年ぐらい、少なくて 4 年ぐらい継続しているんですが、新しい材料を次々に出して、継続していくというのは非常に難しいです。お金もかかります。エネルギーも必要です。

それで、「継続するにはどうするか」なんですけど、次の論文、これを用意しなきゃいけない。これは去年用意されたのは多分あると思うんで、それより新しいものですね、これを発言に使うと。そして、去年やったものは 1,500 ワードにまとめて文書で出すと。これはまだまだ時間がありますから、あらかじめ出しておけば、必ず最初の段階で配布されます。結論は同じでもいいんですけども、毎年中身だけ変えて文書を出していけばいいんです、というのが私のアイデアなんですね。

それで去年の詳しいもの。英字新聞なんかもつけた詳しいリーフレット、そこにサンプルを幾つか、例えば過労死の事例も並べましたけども、過労死の資料は非常にいいサンプルになると思います。そういったちょっとしたリーフレット、これをたくさんつくってるんです。100 部つくっても、200 部つくってもいいんです。それを持って行って、発言したときに発言と一緒に去年のリーフレットを配るんですね。ことしのは発言だけでいいですから、去年の資料を配るんです。それで、ロビーでいろんな NGO に上げるんですね。そうすると、ことしは発言 1 つと文書提出 1 つと、リーフレット 1 つと、こういうふうにできるんですね。

ただ、去年の発言の場合は大阪弁護士会でないのです。JFOR と一緒に発言するのは難しいというようなことだったんですが、去年は私は発言のときに靖国神社とか慰安婦とかいろんなことを書いていたものです。それが一緒に、「これも大阪弁護士会の意見ですか」と、こう言われると苦しかったんだろうと思うんですけれども、大阪弁護士会の発言に絞った発言であれば、多分大阪弁護士会と JFOR の発言ということでやれるんじゃないかという気がするんですね。

そこで、ことしはベースになる英文の論文を 1 つきちっとつくると。ことしの分のですね。それから、去年の分をリーフレットにすると。それから、文書提出を考える。口頭発言を考えると。文書提出は去年のものでいいと。口頭発言と同じだとだめなんです。だから口頭発言の中で、昨年はこういうことを発言しました。文章になってますので読んでくださいということだけ一言言って、それとまた似ているんだけどということで別の発言をすればいい。結論は同じで、要するに選択議定書を批准すべきだというところへ持っていけばいいわけですね。

そして、そこの資料をどうつくるかというのは、さっきもう申し上げちゃったんですが、前準備をされた方がいいだろうと。

「いつ行くか」ですけども、これも議題は去年と似たようなものですから、大体いつごろがいいか。「去年はちょっと短かったんじゃないか」という気がしますが、いつをカバーするか、これを考えになった方がいいと。

ホテルは、できればモンレポを取られた方がいいんじゃないかなと思います。便利ですね、御相談に。

それから、人権高等弁護官事務所への請願行動、これは去年と同じですから同じパターンでやれます。それは同じパターンでやってもいいんですが、同じパターンだけでやった場合、新聞記者は恐らく新味がないんで、「新しい問題を持って来てる」というだけだとちょっと書きにくいんじゃないかなという気がするんですけどね。だから、できれば文章提出と発言を入れた方がある程度効果があるんじゃないかと。それから、やっぱりこのノウハウを勉強するという意味では、自分で文書を起案したり発言したりしないと覚えないだろうということがあります。それをお勧めします。

議題をどう選ぶか、これは改めてインターネット等で見て考えなきゃいかんと思います。多分、今度のテーマによりますね。文書提出の方をどうするか、これはもう幾つもの可能性がありますから、文書提出と発言と議題が違って構わないんですね。これは技術的な問題ですから、今後検討ということで。

幾つかの可能性というのは、次にあったんですが、そこまでは毎年これから新しく同じパターンで繰り返せるわけです。新しい問題を持ってくれば数年はできると。

パンフレットをつくって、今後ずっとロビングした場合、多分幾つかの NGO は非常に強い関心を示すと思うんですね。それで NGO 調査団を派遣してもらうという手があるんですね。どこか来てくれると言ったらお招きする。その場合は旅費、宿泊費等の実費ぐらいはカンパを募った方がいいだろうと思いますけど、まあこういう手もあるよということです。テキストの中に実例として代用監獄の問題もありますからみて下さい。

それから、その論文の出版なんですが、精神医療の場合にですね、学会に出したものを入れてありますけども、こういうことを考えてもいいんじゃないか。欧米の雑誌に、せっかく英文で書くわけですから去年のものをどこかに出す。そういうことをやってみたらどうかなという気がいたしますね。

もし余裕があれば、どこか学会に行って発表して、そこの学会の関係者の雑誌に出してもらうということもあるし、そうでなかったらそのハーバード大学とか、カリフォルニア大学とかとかいろいろ雑誌はありますから、そういうとこへ「ぽん」と送っちゃってもいいんですよね。もし必要があれば、私もお手伝いをしても構わないと思います。

それから、そういう幾つかの可能性というのは書きましたね。これは全部過去に私やったことがあるんですね。過去はもう夢中になってやっていたものですから、幾つもそういうことをやりましたけれども、その幾つかをおやりになるとよいでしょう。これから長いんで一度に全部やる必要もないかもしれません。例えば、JCLU の市民版レポートなんかは英語にして出したものですから、あれはレペタさんが一生懸命出版をやってくれましたね。ああいうところだったらすぐに出るんですよ。私もすぐ出せるところは幾つかあります。大どころを考えなければ英語の論文になると思います。英語になればインターネット時代ですからこのごろはもうインターネットで検索すると「ばっ」と引っかかってきます。相当影響力は出ると思います。少なくともそれをそこにあるように、コピーして資料として配る。学会誌に載ったものはある程度信用がありますので、通りがよくなると思いますね。

それから次なんですが、これさっき精神医療の場合なぜ成功したんだろうということの分析として、「アメリカ政府が関与したんじゃないか」という疑いというのと、もう一つは「国内運動がしっかりしていた」ということを申し上げたと思うんですが、国内運動というのは精神科医や保健婦さんとそういった方の運動があったんです。全家連はちょっとこの法改正問題については距離がありました、当時はですね。ですけども、とにかく国内的な運動は非常に「きちっ」としたものがあったんですね。それで実は私たちも NGO をつくったんです。

私が所属していた第二東京弁護士会に全友会という会派がありまして、皆さんは御存じだと思いますけど、これは何か大分裂をして今紫水会と全友会の 2 つに分かれてますが、まだ分かれる前の話ですね。「こういう問題があるので応援してくれないか」というふうにお願いをしましたところ、川端先生ですよ。私は当時もう頭に「かっか」来てたものですから、協力しくれない人はみんな「冷たい」と思っちゃったんですけど、その川端先生一流の言い方でですね、「それは自分で団体をつくってやるしかないんじゃないの」とか何とか言いましてですね。「これはえらい冷たいな」と思ったけれども、実は正しいんですね。要するに、全友会というのは、いろんなことをやっている人がいますから、「全友会にやってくれ」って言ったって、全友ニュースというミニコミ新聞に載せてくれるぐらいのものなんですね。やっぱり大きい組織ですから、選挙以外のことではそんなに頑張らないんですね。

私は当時弁護士会の会派というのを勘違いしてまして、「人権について頑張るんだ」というふうに思い込んでいたものですから、そういうふうに言われると「冷たい」と思ったんです。実は非常に適切なアドバイスだったんですね。それで、「精神医療人権基金」運営委員会というのをつくったんです。そこで活動しました。これは小さかったんですけども、ICJ ミッションの 3 回にわたる招聘もやりましたし、いろんなことをやりました。それで、「ある程度私たちの運動の基盤になったな」と思います。

そこでですね、言いたいことは「国内的な活動が大事だ」ということですよ。それで何をやるかと。これは一つは私は前から申し上げているのは大阪弁護士会という、これだけしっかりした基盤があると。例えばこの人権協会もこれだけの基盤があると。これ「数が少ない」と言う人もいるのかもしれないと思うんですけど、私「3 人いたら大丈夫」だと前から言ってるんですけどね。精神医療の場合 3 人というのは、弁護士の数でですね、二弁の永野貫太郎先生、それから東弁の内藤隆先生、それから、私と 3 人。3 人は常時会って頑張ったんですね。だけどそれ以上いないんですよ、実は。後に岡山にも福岡にも大阪にも精神医療人権センターというのができて、仙台にもできましたか。今東京には常勤の人がいたりして、何かその後にだんだん発展しましたけど、最初はとにかく実務法律家は 3 人しかいなかったんですね。非常な少数派です。それでもやれるんですから、こちらの方は、「これだけあったらできる」というふうにお考えになったらいいんじゃないかと思うんですね。

それで、問題は「何をやるか」なんです。私の 1 つのアイデア、目標は、2008 年に置いたらどうかと思います。今までを振り返ってみますと、世界人権宣言の何十周年というのは、結構節目になっているんですね。40 周年 (1988 年) というのは、覚えておられる方はおられますかね。これは 40 周年は神戸なんですよ。故久保田洋さんがまだ元気で、ジュネーブ国連欧州本部から東京に来られまして、「今度 40 周年です。日弁連で何かやってください」と、こういうふうに言ってきたんですね。それで困って、私は久保田さんと一緒に日弁連の会長室を訪ねまして、そのときの会長が北山先生だったんです。北山先生は、「それはいいですね、やりましょう」とか何とか言ってですね、引き受けてくれました。

後で非難されたんですけど、島根か鳥取か人権大会がある予定だったんですね。国際的な催しをやるには、あそこじゃ会場がない。「幸い、ポートアイランドにすばらしい会館ができた、あれを使いましょう」というので神戸に人権大会を移しちゃったんですね。それで、随分悪く言われたと思いますけど、やっぱり実際それまでの人権大会ではなかったほど最大の参加者が集まったという話でした。ああいう国際会議場がないとできなかったと思います。だから、「神戸というのは非常にいいとこだったな」と後で思いますれけど、初めて日弁連で国際人権法を全面的に取り組むということをやってくださったんですね。

その後ですね、相当何か日弁連の中の雰囲気が変わったように思います。50 周年 (1998 年) ですが、「50 周年には何とか選択議定書の批准を実現したらどうか」というふうに思ったんですけど、ちょっと 50 周年ではだめだったですね。でも 50 周年も役に立ったと思います。

今度 60 周年がくるんですよ。これが 2008 年です。そうすると、あと 6 年ありますね。その間ずっとこの国連活動を続けていって準備をして行くと。

実は、何か準備をしないと大々的なことはできないんですね。40 周年の準備のために何をしたかというと、二弁で国際人権セミナーを企画しました。これは全国的に呼びかけて、学者の先生方に集まっていただいて、小さな緑色の本を出したんですけども、あれはいまだに弁護士会が開催したセミナーの記録として歴史的なものになっていると思います。そういうものを日弁連にお出しして「こういうものをベースにやっていただけないか」ということでお願いをしたんですね。

ですから、この大阪弁護士会のこの活動がずっと続けば、恐らく 2008 年は相当のことになると思います。

「そこへ向けて、一体何をやるか」なんですけど、条約の批准運動、これは選択議定書が中心だと思いますけど、これはむしろ女性を立ててもいいんですよ。女性差別撤廃条約の選択議定書ができましたから。社会権の選択議定書もできるかもしれない。そうなってきますと、選択議定書ということですべての主要な権利全部ということで運動できるというふうに思います。

ジェンダーの視点が重要と申し上げたのは、どうも女性の方は政府もまとまりそうなんですね、これは。「恐らくまとまるんじゃないか」と思うんですよ。だからこれは男性中心でやっているとだめじゃないかと思う。女性の方が突破しやすいかもしれないと。これは、自由権規約の方だと法務省がまずブロックするわけですね。ところが、女性の方は法務省担当じゃないんですよ。だから閣議のときに脇から文句を言うことはあり得ても、事務当局としてのブロックができないんですね。女性の方はそういうふうなんです、今。あちらは女性が主体で動いていますから、これは突破しやすい。そっちが突破できれば、これは同じことなんです。今「原理的にだめだ」と言ってるわけですから、これはそっちの方がいいかもしれない。

それから、やっぱり ICC の批准の推進運動ですね、これもやった方がいいと。今有事立法とか言ってますけども、有事というのは本当におかしいんでありまして、昔有事があって日本が何をしたかと。さんざん問題にしている不処罰の問題を解決していないし、補償の問題も解決していない、謝罪も解決していない、何も解決していない。だから、今度有事で「戦争する」っていったら、またやるんですね。だから、「それを防ぐためにどうするか」といったら、ジュネーブ条約に違反した戦争犯罪の処罰の法律ができてないのです。立法義務はあるんですよ。条約違反なのに放置している。全くおかしいですよ、あの有事立法の進め方が。まずこの戦争の反省があって、その上で「じゃこの次戦争するとはきどうするんだ」という議論ならいいですよ。戦争を反省して、「戦争をしない」ということで、「9 条 1 本でいくんだ」というのがやっぱり正論だと思いますけど、それができないにしても、やっぱり一番最初にやらなきゃいけないのはどう戦争するかという法律じゃなくて、「国民の権利をどう抑制するか」とそんなものじゃなくて、自国民もそうですし、他国民もそうですし、「権利を侵害した場合一体何をやるんだ」と。そっちから先にやらないでですね、あるいはそういう「違法な人殺しはやらないんだ」と。違法な人殺しを「やれ」と言われた場合、命令を拒否できるとかですね、そうっいったようなことをきちんと立法した上でなかったら前に進めないはずなんですよね。順序が全くおかしい。だから小泉さんというのは、やっぱり本当におかしいというように私は思います。

だけど、その ICC 条約の批准運動というのは、それを象徴的にできるんですよ。あれを批准すると戦争犯罪、人道に対する罪については時効がないということを国内法上認めなきゃならなくなるんです。これは国内法の大原則を覆すことになるんですね。当たり前の話なんですけとれども、それが入ってるんですよ、これ。それをやらなきゃいけない。だから、ICC の批准運動というのをやるためには勉強しなきゃならんからそういうところへ行くんですね。ところが、今は日弁連の中で勉強できないです。

日弁連は国際人権問題委員会の中に、小さなグループをつくって研究してますけども、全体としては「処罰の問題は絶対に討議しない」ということになってますから、非常におかしなことで、前に進んでいない。これは人権協会とか、この大阪弁護士会とかがやらなければやれないだろうと思います。

それから、ILO 条約の批准運動です。ILO 条約には大変に大事な条約が幾つもあります。それは、労働団体と一緒に組めるというふうに思います。

じゃ、そういうものを転がしていく「何か道具はないか」ということになりますと、その次にいった「人権教育の 10 年」、これがもうじき終わっちゃいます。中間段階でやっと各県におりてきた。今兵庫県もおりてますね。これからいろんなところでやらなきゃいけなくなる。やらなきゃいけなくなる段階で人権委員会をつくるというんで、実はマスメディアを規制するという、何か変な状況になっちゃってますから、これをそんな急いでやる必要はないんですね。こういうものはむしろゆっくりと政権交代が終わってからやってもいいのじゃないでしょうか。それまで議論を積み重ねていく方がいいものができるかも知れません。その「人権教育の 10 年をもう 1 回やってくれ」と主張してもいいと思います。第 2 回目をという運動を国連でもやる必要があるだろうと。

そうすると、その中でいろんなことができてくると思うんですね。だからそれで最終段階でどうかかわるかと。そうすると、その中でそれも生かしながら司法改革の国際化をどこまで持っていけるかという問題もあります。司法改革の国際化で、この上の 2 番に言ったことは全部できるんです。やらなきゃいけないんです。ところが、今は何もやっていないと思います。司法改革の国際化で、今やっているのはビジネスだと思うんですね。人権はやっていない。これだったら、グローバリゼーションに飲み込まれちゃってですね、日本は今はグローバリゼーションで勝てっこないですよ。そんなところで勝負する必要は全然ないんでありまして、やはり人権、平和というところで世界の中でどうやって生きていくか。小さな国として、どうやって生きていくかということを模索しなきゃいけない。大国主義というのはやめて、経済大国だなんてそんなことを言ったってすぐつぶれちゃうじゃないですか。「外国から学ぶものはない」なんていうふうに言ってたら、もうすぐつぶれちゃうんですね。これは日本人が根本的に間違っている。島国でですね、本当は世界のことをわかってないからそうなっちゃうんです。世界のことをわかるために、一番いいのは、「国際人権法をまず実践していくのがいい」というのが私の意見です。これだったら、戦争をやらないでも世界のことがわかるわけですね。

それで、この「立法運動をどう進めるか」ということなんですけども、国際人権条約に違反している問題がたくさん積み重なってきてますね。私は「慰安婦」問題で立法運動に関与しています。これは皆さんに、きょうはお持ちしなかったな、失敗だったな、法案があるんですね。野党 3 党の共同法案があるんです。それは継続審議になって、今審議入りしようかしまいかという状況で参議院にぶら下がってます。こういったような運動をどうするか、これはほかにもあると思うんですよね。今、人権委員会のレポートが幾つかありますよね。今はそういった「立法で進めよう、実現しよう」と思うと、何か内容がおかしくなっちゃうんですね。

だから、私のアイデアはいずれ政権交代すると。政権交代したときにはきちっと成立するように今の段階から法案をためるべきだ。それも変な妥協をしないで、きちんとした法案をためるべきだ。この「慰安婦」法案は、絶対自民党が同意できない形ですね。公明党も同意できない。そういう形で、だけど野党 3 党の法案になってこれはぶら下がっているわけです。これは「絶対この形を変えないぞ」と言って進めていく。これが準備できていれば、政権交代したときにはすぐできるんです。これが村山政権のときにあればできたんですよ。ところが、準備がなかったから村山政権は何かあんなおかしな民間基金とか何とかというのをつくって失敗しちゃいましたね。この 5 月 1 日に、民間基金は韓国についても台湾についても活動を停止しました。村山さんたちの失敗でもあるんですけども、それまでに立法の準備ができていなかったというところも問題があるんですよね。

私は、サ条約違反だから、立法ができないというような議論は間違っているというので、ずっと言ってきましたけども、その英文の論文がドイツの赤十字雑誌に一、二週間前に載りました。それで、今度の最高裁批判にしても、なまじっかなことで妥協をせずに「ためる」ということが大事だと思うんですね。

戦後補償問題では、真相究明をする法案も衆議院にぶら下がってます。先ほど申し上げたようにジュネーブ条約の違反、「戦争犯罪も人道に対する罪もそんなの私は知りません」って、宮沢総理がそんなふうに回答したんですが、それでも日本の国会では審議がとまらないですね。総理大臣が「人道に対する罪を知らない」と言うんですね。これで、またその質問した人もよいとこまで行きましたが、それ以上追求せずそこでストップしちゃったんですね。

人道に対する罪とか、戦争犯罪という言葉が、日本の法にないわけじゃないんですよね。ほかにあるかもしれませんけど、ほかにあれば教えていただきたいんですが、私は 1 カ所だけ知ってるんです。難民法というのがありますよね。あの中に載ってるんですよ。だから、毎日法務省は難民かどうか、それを難民と認定するかどうかということのときに判断しているはずなんです。何だというと、「戦争犯罪人道に対する罪を犯した人間は入国させない」というように書いてあるんですね。難民に認めないんです。だから、それが日本法の中にあるですよね。そういうことを、総理大臣に切り返してほしいんですけども、「日本法上そういうものはない」と思ったらしくて、質問者は「ニュールンベルグの裁判にある」とか何とかいうふうに言い出すんですね。宮沢さんは、「東京裁判ではそんなものはなかった」とかですね、そんないいかげんなことを言ってるんです。

そういういいかげんなことを言っても通るっていうのは、「日本の弁護士会が、あるいは学者がこの問題を一切研究してないからだ」というのが、私の今のところの情勢判断ですね。何しろ、人権を一番守るという人がですね、「殺人を犯した場合に処罰するという法律をつくっちゃいけない」というふうに言い続けてるわけですから、そのタブーが取れない以上は、日本ではだれも不処罰問題が言えないということになると思います。ここは、何とか先生方の力で解決しないといけない。

それで、もう一つの問題、これが国連でこういうことをやる場合に一番困るのが語学なんですね、実は。フランス語でも中国語でもロシア語でもアラビア語でもいいんです。何かができれば。ところが、大体日本の我々は英語から学んでますから、英語を使うことにならざるを得ない。ところがそれが日本の教育がもう全く間違っているものですから、日本の大学もおかしいし、入試がおかしいんですね。要するに入試制度、司法試験とかああいうのをやめなきゃ日本の学生はよくならないです、これは。英語だって使えるようにならないですね。

私は、今大学院でとにかく「入試をやめろ」ということを言ってるんですけど、絶対にやめないですね。これは本当にどういうことなんですかね。科挙がいけなかったのか、もう何がいけなかったのかよくわからない。とにかく入試をやれば優秀な学生が来る、そんなばかな話があるかって思うのです。大学院生を教えてみて思うのは、つぶされちゃってるんですよ。要は私がここでやっているのは、この資料にいろいろあるのは「実例で前はこういうことをやりました」ということでしょう。ところが、「次の事件が起きてきたときにどうやったらいいか」なんて、正解なんてないんですよ。絶対ないんです。1 つずつ事件は全部違うし、状況も違うし、みんな新しくはじめなきゃいけない。正解がないんでしょう。「それをどうするか」ということを考える力を養わなきゃならない。大学院生はみんな優秀ですよ、そりゃ試験を受かって来るんですから。だけど、みんな正解と正解じゃないものしか知らないんですよ。

この前、私は司法試験予備校を見学に行ったんですけども、非常に上手ですね、教え方が。わかりやすいんですね。「クイズ」っていうのがあるんです。前回教えたのは大体こうだけど、それで問題があって、択一式にこれはどれが正しいですかと、こうやるんですね。どれが間違ってますか。それで、私はその後その塾をやっている人たちに感想として言ったのは、「これは正解と正解でないのしかないですね」と。「これだと、正解のない問題についてはどう対応するんですか」と聞いたら、答えがないんですよ。

大学は、司法試験塾を目のかたきにしたんですね。「司法試験塾があるからいけないんだから、じゃロースクールをつくればいいじゃないか」というのです。ロースクールなんかつくったってだめなんです、その先又試験するんでしょう。「ロースクールの卒業生は、全員合格させる」とか、「ロースクールの入学のときは入学試験をやめる」と言えばいいですよ。ところが、ロースクールの入学試験のときはもっと試験するじゃないですか。ロースクールを出るときにも試験で、ロースクール出た人はまた試験じゃないですか、司法試験、それからバイパス試験。もう試験だらけでですね、ますますこれは正解しかわからない人たちができてくるんです。もう機械みたいに、正解じゃない問題があるんだよ。あれ何かありましたね、たしか択一でも正解じゃないと。正解じゃないと言うのも正解なんですね。

これはね、日本人を徹底的にだめにする。だからトレーニングコースの、要するにノウハウをどうすると言ったらですね、「試験をやめろ」というのが正解なんですよ、もし正解があるとすれば。私はね、ホントそう思う。しかし、これはどうにもならないですよ。

それで、だからそういう英語の試験でしょう、これ入学試験でしょう、何年勉強しても実用にならないですよ。夏目漱石とこの入学試験が悪いんです。夏目漱石は英語の勉強の仕方、とにかく教育の仕方を「勉強して来い」と言われて、ロンドンに行って 2 年間ノイローゼで閉じこもってですね、文学書を読んでいた。だから彼が日本へ帰ってきたら、英米文学科ができたでしょう。夏目漱石は日本へ帰ってきたら、もう全部治っちゃって、元気になってどんどん小説書いて日本語をやったんですね。日本語には随分貢献したけど、英語教育の方には随分だめだったですね。

それで、この英語の問題があるんですよ。これは最後まで残ると思いますけど、どうもこの兵庫の経験から言いますと、1 つわかったことがある。わかったのは、兵庫で先生方はこうやって話を聞いてくださってすごくうれしいんですけど、弁護士会に行って「話を聞いてくれ」と何度言ってもだめなんですよね。とうとう最後にことしの 3 月に、年度内 1 度といって聞いてくれたんです。そちらに役員の先生がおられますけど、聞いていただいた、それでものすごくうれしかったんです。これはあと麻田先生に、「もう弁護士会でなくていいから、何人でもいいから、2 人でも 3 人でもいいから、一月に 1 回昼飯食べようよ。そこで、いろいろ経験談を言うから、みんなそれで飯食いながらただ聞いててくれりゃいいから」と言うんですけどね、だめなんですよ、企画してくれないんですね。「何でだ」と聞いたら、「そんな英語みたいな話私は嫌だ」というわけです。なるほど、英語アレルギーというか、そこがネックになるので。これ日本の試験が優秀な人達をみんなだめにしてしまったんです。

結局、どんなに法律家が法律を勉強しても、この国際人権法というのは英語など外国語もとになっているというんで、もうみんな拒否する。あと 1 年、私は神戸にいますけど、「恐らくこれはだめだろう」と思います。これは「方針転換しないとだめだ」というのが私の結論であります。国際人権法の情報を全部日本語にするしかないと思うようになりました。最初はね、「大事なものを選んで日本語にしよう、みんなで分担して日本語化しようか」と何人かの先生方に E メールで相談した。しかし、とても時間がかかる。我々ではどうにもならないんですよ。「困ったな」と思ってたらすごくいい情報が入った。これは外務省におられた方で、国連畑の長い猪又忠徳先生という教授が同僚にいまして、ことしの 3 月まで神戸大国際協力研究科にいて、3 年終わって外務省に戻ってとたんにコスタリカの大使で、もう出発されちゃったと思いますけど。

この方がですね、「外務省の中にこういう話があったんです。日本語を公用化にしようという話があったんだ」と言われるのです。「どうしてそれがつぶれちゃったんですか」と、国連の公用語ですよ。外務省がむしろ自分でやめちゃったというんですよ。何ら痛ようを感じない。普通の人たちは、みんな痛よう感じてるのにね、外務省の人たちは痛ようを感じない、語学ができるから。それで「何とか、みんなのサービスのためにそういうふうに日本語にしたらいいじゃないか」というんですね。そうやると困ることが起きる。これは裏話ですね。だれが困るかというと、外務省が困るらしいんです。どうして困る。日本語でみんなわかっちゃうじゃないか。日本語でわかったらいいじゃないかと思うのですが、私の推測ですが、ほかの省庁にわかったら大変らしいのです。外務省が何を言っても、外務省の言うことを聞かなくなる。みんな自分の方で情報を集めて、自分で勝手に政策つくっちゃう。外務省経由じゃなくなるわけですね。要するに、外務省の仕事がなくなって、外務省が失業しちゃうのではないか。

弁護士会なんか文句を言うから、それを恐れてるんじゃないですかって疑ったのですが、どうも弁護士なんて相手にされてないようです。人権協会も相手にされてない、だれも相手にされてない。庶民はどっちみち何もしない。政府の言うとおりですから。日本の庶民は「政府が右って言えば右」でしょう、「左って言えば左」、「有事って言えば有事」。こういうふうに、日本の庶民は抵抗しませんから、だからこれは相手にする必要はないのだろうと思うのです。しかし他の省庁から尊敬されなくなる可能性があるとなると、これは問題でしょうね。

しかし、ほかの省庁はどうも頑張るらしいんですよ。どうも秘密はそこにあるらしくて、猪又先生は、さすが外交官ですから、そこまではオープンにはしてくださらなかったんです。しかし、この先生が最後に置き土産に論文を書いてくださった。それは国際協力論集という神戸大学で出してる論集がありまして、その 2001 年 6 月号にすばらしい論文が出ています。

結局、「インターネットで世の中が変わった」というんですね。国連は、各国政府を通じて広報をやるのをやめた。それもやりますけど、広報は全部もうダイレクトに一人ずつの人に提供してしまう。世界中の人類に。どうしてできるといったらインターネットを通じて全部できるんです。とにかく情報を全部公開すると。それをインターネットに載せる、「そういう方針になった」というんですよ。それも今まで英語だった。ところが、フランス語、その他、少なくとも公用語に全部する。そこまで行ったんですね。「じゃ公用語ができない日本人はどうなるんですか」と言ったら、それは「日本人はだめなんですよね」って、それで公用語化なってませんからね。じゃ、「常任理事国になる」とかいう話になるでしょう。だけど、「ほかに方法がある」というのは、その猪又先生の論文に出ているんですよ。

それは何かというと、「ドイツなどが成功」というんです。東西ドイツとオーストリアで年間 110 万ドルです。ニューヨーク本部の主な情報は全部ドイツ語にしちゃったんです。「どうやったらできるんですか」と言ったら、「国連にお金を出せばできるんだ」と言う。簡単な話なんですね。110 万ドルは、最近なら 1 億 3,000 万円ですよ、年間。あの外務省の機密費って幾らあったんですか、あれ。何十年分じゃないですか。1 億 3,000 万ぐらいだったらね、だれか家を 1 軒提供してくれたらできるじゃないですか。10 人提供してくれたら、我々個人でもできるということになっちゃうでしょう。私はボランティアで一生懸命翻訳しようと思ったんですが、そんなばかなことはやめた。これは運動して、「日本政府に出させたらできるんだ」ということになったわけですよ。それを言ってもなかなか信じないですね、皆さん。それで、今言って歩いているんです。

兵庫で、このこういう私も協力してつくった団体がありまして、この団体ではやっとそれを理解してくださって、これは兵庫の特権ですね。猪又先生が講演してくださった。もう 1 カ所講演してくださったのが、兵庫の弁護士会です。今に兵庫の弁護士会でも、こういう決議をしてくださると思うんですが、これを私は今、日弁連の国際人権問題委員会の委員に私的に提供しました。要するに国連ウェブサイトがお金さえ出せば日本語になるというんです。

私は「ジュネーブ関係情報を入れてくれ」と言っているんです。ジュネーブの人権情報が入らないと、ニューヨークのだけじゃちょっと足りないですよ。安保理事会とか何とかっていうのは全部入りますけど、「ジュネーブの人権高等弁務官のウェブサイトも日本語にしてくれ」というんです。ドイツ語の方はウェブサイトの見方、必要だったら後でお教えしますけど、そういう運動をしたらいいんじゃなかろうかと。これは兵庫で私は学んだことです。国際人権法を、私の友人に押し売りするとかというのはちょっとだめだということです。

「そのかわり、何をやったらいいか」といったら、これをやると。これが実現すると今までみたいに、私なんかこういうところで講演する必要はなくなってくるんですね。皆さんに直接情報が全部入ったら。それでちょっと、もう専門家でもなんでもなくなっちゃうものだから、価値がなくなっちゃうんですけど、「価値がなくなってもいい」と思います。ただ、運動する人たちは私たちみたいに少数じゃなく、今度は多数になりますよね。その方がいいでしょう。ドイツ語の方はもうドイツ語でインターネットでどんどん庶民が書いて国連に送っているというんですよ。それも翻訳されたりしてるというんですね。これがはじまると変わると思うんですね。

インターネットのアクセスは、世界中でどうかというのを猪又先生が調整されて、アメリカの次が日本だとわかったそうです。日本人がインターネットから一番メリットを受けるらしいのです。ただ英語じゃわからない。日本語になればわかる。私たちは、その日本語にならなかった英語の部分を、さらに探していろいろごちゃごちゃ細かいことを言うというようなことになってくるんだろうなという気がします。

それでお願いは、「この運動をぜひやっていただけないか」ということなんですね。ある程度先生方は本気になって弁護士会とか、自由人権協会でやってくだされば、これは確実に予算は出る。1 億 3,000 万じゃできないと思いますけど、3 億とかあれば確実にニューヨークとジュネーブと両方の情報の主なものは日本語になる。それも即座になる。今だって、物すごく大事なものも仮訳で、早くても 2 週間、3 週間。国会議員が外務省に要求しても、訳があっても出しません。そういう状況なんですよね。これ外務省は嫌がると思う。だけどほかの省庁はもう大喜びするのではないでしょうか。

そうすると、「大多数対外務省という図式で押し切れる」という気がするんですね。しかし予算を出すのは外務省になってくるんですね。嫌がっている人に、予算を出させるわけですから、ある程度の運動は必要だと思います。でも「結局私は外務省のためにもなる」と言ってるんですよ。なぜかというと、「翻訳とかそんなところでですね、余計な精力を使わなくていいじゃないか」と、「本当の外交ができる」と。だってアメリカだって国務省があるし、イギリスだって外務省があるんですよ。その人たちみんな英語でやってるけど、役割はなくならないんですから。だから、外務省は今まで情報操作みたいなことだけでやろうとしていたのが、「まともな外交をやれるようになるんじゃないか」ということです。だから結局は外務省のためにもいいというのが私の説なんです。

それで最後に、「そういったようなことをみんな含めて、第二次の国連人権教育の 10 年というのを推進したらどうでしょうか」というのを、最後のテーマにして、大幅に時間を使っちゃって申しわけございませんでした。