憲法はどこまで変えられるか ―― 憲法「改正」と立憲主義

2005 年 5 月 07 日 (土)

講演者: 浦部法穂 (名古屋大学大学院法学研究科教授)


【「改憲」という用語の乱用〜「憲法改正」なのか「新憲法制定」なのか?】

ご紹介いただきました、浦部と申します。現在、名古屋大学で法科大学院の担当をしておりますけれども、この法科大学院というのが、非常に問題の多いもので、ロースクールならぬハイスクール並みなんですね。この間も講義で検閲の問題を取り上げて学生にいろいろと質問をしてみたんですけれども、最高裁の検閲概念をそのままオウム返しにするだけで、最高裁の検閲概念に何か問題がないのかと言ってもだれも答えないというようなレベルです。
あるいは、三菱樹脂事件を素材にした講義でも、最高裁は企業には雇用の自由があると言っているからこうだというように、最高裁判例をそのまま受け入れて、その範囲でしか物事を考えられないんですね。ことほどさように世の中、批判能力を失ってきている、体制側の動きに対して、それを疑問に思うということが非常に少なくなってきているなという印象を強く持っております。
要するに、勝ち組だとか負け組だとかというようなおかしな言葉がはやっておりますけれども、反体制では絶対勝ち組にはなれないわけで、勝ち組になるためには体制側につかなければ、という、そういう意識が、自覚的にかあるいは無自覚的にか、働いているんじゃないかという気がします。
それはともかく、憲法をめぐる問題も、マスコミの世論調査では、その手法自体にも問題はあるとは思うんですけれども、改正容認派が多数を占めるようになってきているといったようなことが伝えられています。他方で、憲法学者はいろいろ批判はしているんですけれども、そういう声はほとんどマスコミで取り上げられないというのが現状です。したがって、私がここでしゃべることも、どれだけ世の中に浸透するのかどうかわかりませんが、とにかく言うべきことは言わなければならないと思って、あちこちで同じようなことを何回も繰り返ししゃべっております。
今日は「憲法はどこまで変えられるか〜憲法「改正」と立憲主義〜」と題して、この間の「憲法改正」、かっこつきの「改正」ですけれども、この「改正」をめぐる動きに含まれる問題点を、理論的なことも含めてお話してみたいと思います。後ほど、皆さん方のほうから忌憚のないご意見をお聞かせいただければというように考えております。
まず、最初に、「憲法改正」問題とか「改憲」問題とかというふうに言われているわけですけれども、理論的にみてみますと、この「改憲」とか「改正」という言葉がまったく乱用されていると言わざるをえません。しばしば、日本国憲法は60年間一度も改正されていない、そのような憲法というのは世界にも余り例がないといったようなことが言われます。改正要件が厳し過ぎるせいだといったような議論もなされているわけであります。
確かに、諸外国の例で見れば、憲法の改正ということはそれほど稀ではなく行われている国も多いわけであります。ただ、日本の「改憲」論というのは、今の議論もそうですけれども、50年代の改憲論もやはりそうであったように、常に、今の憲法を廃止して新しい憲法をつくろうという議論ですよね。つまり、「憲法改正論」というよりも「新憲法制定論」というのが、日本の「改憲」論の常であったということが言えます。今の議論もやはり、例えば自民党は「新憲法起草委員会」というのを党内につくっているわけで、はっきりと「新憲法制定」ということをうたっております。それから、民主党のいわゆる「創憲論」というふうに彼らが呼んでいるものも、やはり新しい憲法をつくるということを目指しているものです。そういうものを憲法「改正」と呼ぶのは、「改正」という言葉の乱用だと言わざるを得ないわけであります。
「世界に例を見ない」というようなことが言われるんですが、しかし、世界を見渡してみても、平時に、何もないときに、新憲法の制定が行われた例はほとんどないはずです。もちろん、私もすべての国の憲法のことを知っているわけではありませんので、100%断言はできませんが、例えば、フランスを例にとってみますと、フランスでは、歴史上何度も新憲法の制定ということが行われてきております。その歴史をたどってみますと、まず、フランス革命があってそのさなかの1791年に、最初の憲法が制定されます。この革命の期間は、統治体制が安定しない状態ですので、さらに1793年や1795年に新しい憲法が作られています。これは革命の動乱期ですから、短い間に何回も新しい憲法がつくられるということがあったわけですが、その後、ナポレオンの帝政と王政復古を経て、1848年の2月革命によって、新憲法、いわゆる第二共和制憲法というものが制定される。さらにその後、再びナポレオン3世の帝政、その帝政が普仏戦争の敗北とそれに伴う民衆反乱によって倒れて、1875年に新憲法、第三共和制憲法が制定される、という歴史をたどってきています。さらに時代を上って、第二次大戦中のナチス占領によって第三共和制が事実上崩壊する。そして、1945年に連合国の勝利によって占領から解放され、1946年に第四共和制憲法が制定されます。
というように、いずれも、政治体制の大変動に伴って新憲法の制定ということが行われてきたわけであります。現在のフランス憲法は、1958年に制定されたいわゆる第五共和制憲法でありますけれども、この1958年憲法というのも、何もなくて新憲法がつくられたわけじゃなくて、アルジェリア独立戦争を契機とする内戦状態ともいえるような政治的混乱に終止符を打ってドゴール政権の新たな政治体制が確立され、それに伴って、それまでの第四共和制憲法を廃止して新たな第五共和制憲法がつくられたわけです。つまり、新憲法の制定というものは、そういうように、革命とか戦争とか内戦などによって政治体制が大きく変わる、そういう事件、出来事があったときに行われるというのが、普通の形であるわけです。
さらに、このフランスの例で言えば、1958年の第五共和制憲法の制定は、新憲法をつくるという明確な意識のもとに、それにふさわしい手続きを経て制定されております。まず国民議会が、新憲法草案を作成して国民投票に付す権限を政府に与えるという議決をし、その権限に基づいて政府が新しい憲法草案を作成しました。そのうえで、これを国民投票に付し、その国民投票では、実に投票率84.9%、うち賛成が78.2%という圧倒的多数、つまり全投票権者の3分の2の賛成を得て、新憲法が制定されているのです。つまり、新憲法の制定ということを明確に意識したうえで、それにふさわしい手続きを踏み、全国民の3分の2近くが実際に賛成したという、そういう裏づけを持って新憲法が制定されているのです。
いまの日本の議論のように、「改正」だといって新憲法を制定するといったようなことは、理論的に考えてもおかしな話でして、新憲法を制定するというのであれば、「改正」だと言うんじゃなくて新憲法をつくるんだということを明確に意識したうえで、「改正」手続によるのではなく、新憲法制定にふさわしい手続きをきちんと踏むということでなくてはならないはずです。

【憲法96条と99条〜国会の発議権の限界】

日本国憲法に即していいますと、日本国憲法は憲法自身を廃止して新憲法を制定するための手続きというものは用意しておりません。憲法96条はあくまでも改正についての手続きを定めているものでありまして、新憲法を制定する手続きというものは、日本国憲法には規定されていないということです。
さらに、憲法96条は、憲法改正について、国民投票の過半数の賛成を経て成立したときには、天皇が「この憲法と一体をなすものとして」公布すると定めています。「この憲法と一体をなすものとして」公布するということは、要するに、もとの憲法が残っているということを前提にしているわけでありまして、一体になるはずのもとの憲法を全部廃止してしまったのでは、一体をなすものとして公布するというようなことは不可能です。ですから、日本国憲法はいわゆる部分改正のみを予定していると解されるわけで、憲法全部を全面改訂するといったようなことは、日本国憲法は「改正」として予定していないというふうに見なければならないということになります。
この点、スイス憲法の場合には、全面改正と部分改正という両方を憲法自身が規定しておりまして、それぞれについて異なった手続きを定めているということのようであります。スイス憲法については、愛知大学の小林武さんが専門ですが、小林さんの論文(「スイスの憲法改正とわが国改憲論議」法律時報増刊『憲法改正問題』)によりますと、まず部分改正につきましては、発案権は有権者10万人以上の署名もしくは連邦議会の議決により、有権者発案の場合には発案された草案について、議会がそれを同意するかどうかということを決定し、もし議会が同意しなかったときには、まず改正すること自体の当否について国民投票が行われることになります。その国民投票において、国民が改正するべきであるとした場合には、議会が改正案を作り、そのうえで、国民投票及び各連邦を構成する州の過半数によって採択される、という手続きになります。
これに対して、全面改正の場合は、これも発案権はやはり有権者10万人以上の署名もしくは連邦議会の議決によりますが、部分改正の場合と違って、そこで先決投票というものが行われます。つまり、そのような全面改正をすること自体の当否について国民投票が行われるということです。その先決投票で全面改正自体について全国民が承認した場合には、全面改正に着手するための新議会を構成する、つまり選挙を行うことになります。その新たに組織された議会で全面改正草案がつくられて、この草案について国民投票及び各州の過半数の賛成があれば全面改正が成立する、という手続きが定めているということであります。
このように、スイス憲法の場合には、部分改正、つまり憲法の一部を改正するという場合と、全面的に改正する、つまり新憲法をつくるという場合では、その違いは明確に区別されているわけでありまして、それぞれに違った手続きが、憲法上用意されているというわけであります。
日本国憲法の場合には、スイス憲法と違って、先ほど言いましたように、「全面改正」のための手続きというものは用意されていないわけですから、もし今の憲法を全面改定するということであるならば、それは現行憲法の枠内ではできない行為だということになります。つまり、超憲法的にしかなし得ない行為だということです。したがって、もし全面改定をやるとするならば、96条の定める改正手続きによってそれを行うことはできないはずであって、いわば、憲法の外で、憲法を超えたところで、新憲法の制定にふさわしい手続きをつくり出して、それによって行うということしかないことになるはずであります。
この点は、日本国憲法の場合、憲法改正についての発案権を国会に与えているということに照らし合わせてみても、憲法の枠内で新憲法を制定できないということは、理論的当然のこととなります。というのは、国会を構成する国会議員は、憲法99条によって憲法尊重擁護義務を負っているわけであります。憲法尊重擁護義務を負っている国会議員で構成される国会が、現憲法を廃止して新しい憲法を作るというような、つまり憲法を否定するような発案をなし得ると考えることはできないからです。
衆参両院の憲法調査会でも、憲法尊重擁護義務を負う国会議員が改正について議論できるのかといったようなことが、一つの問題としては意識されていたようで、つい最近出された報告書の中にもそれに関する記述があるわけですけれども、憲法改正について国会議員が議論できるというのは、ある意味で当然のことです。国会に発案権があるわけですから、改正について国会議員が議論するということは、何ら問題がない。しかし、国会で憲法を廃止する議論をして議決するということができるかとなると、これは話がまったく別であります。改正について議論するということと、憲法の廃止を議論するというのは、まったく性質が違うわけであります。憲法96条が国会に発案権を与えているのは、あくまでも改正についてであって、新憲法の制定について発案権を与えているわけではない。むしろ、国会議員の憲法尊重擁護義務ということからすれば、国会には新憲法制定の発案権はないというのが、当然の解釈になります。
そういう意味で、憲法の枠内で新憲法の制定を行うということは不可能なことだといわなければなりません。もちろん、本当に国民の大多数が、今の憲法ではだめだ、新しい憲法が必要だ、と考えるのであれば、「憲法が認めてないからそんなことはできない」とは言えないはずでありまして、その場合には、新憲法の制定ということもなし得ると考えざるをえないわけですが、しかし、それは超憲法的行為、いわば一種の革命行為というふうにみなければならないものなのです。
ですから、新憲法制定ということがもしあるとするならば、そういう超憲法的なところで、理論的に新憲法制定を正当化できるような手続きを踏んで行うということが求められるということになります。理論的に新憲法制定を正当化できるような手続きというのはどんなものか、ということですけれども、少なくとも最低限必要とされる要件は、国民が憲法の制定権者であるということ、つまり国民の憲法制定権力というものを前提にする限りは、全国民の過半数が今の憲法を廃止して新しい憲法を制定することに賛成する、ということです。もちろん、その場合に、技術的な問題としては、投票権者の範囲をどこまでにするか、たとえば、国政選挙の有権者と同じでいいのか、あるいは年齢枠をもっと下げるべきなのかといったような、いろいろな問題はあります。しかし、少なくとも、投票権者として定められた範囲の国民全体の過半数が賛成してはじめて、今の憲法を廃止して新憲法を制定するという行為が、正当化されることになるはずであります。
さらにいえば、先ほど言ったように、国会には新憲法制定の発案権はないと解すべきですから、96条の手続きを借りて新憲法の制定を行うこと、つまり、国会が新憲法の制定を発議して、それを国民投票に付すというような手続きで新憲法制定を行うことはできません。この場合には、国会とは別個に新憲法草案の起草にあたる「憲法制定議会」というものを構成して、そこで草案を作成し、それを国民投票に付して、先ほど言ったように、全投票権者の過半数の賛成を要件とするということが、少なくとも要求されるだろうと思われます。
全投票権者の過半数というと、棄権もあるだろうしハードルが高すぎて非現実的な数字だと思われるかも知れませんが、先ほどのフランスの例では、58年憲法は全有権者の3分の2の賛成を得ております。全投票権者の過半数という数字は、たとえば投票率70%で72%の賛成があれば過半数になります。今の憲法を廃止して新憲法をつくろうというからには、少なくとも7割くらいの人が関心を持って投票をし、そのうちの7割強の人が賛成するというぐらいのコンセンサスは必要不可欠だと思われます。そういう意味でいうと、70%投票率で72%の賛成というのは決して非現実的な数字ではない。それくらいの要件を課したとしても、何ら不当ではないはずです。逆に、「改正」の場合と同様に有効投票の過半数でいいということにしたら、たとえば投票率50%くらいでぎりぎり過半数の賛成ということだったら、全国民(投票権者)の25%程度の賛成で憲法の全面改定が成立することになります。25%程度の国民の賛成でもって、今の憲法を廃止して新憲法を制定するといったようなことがあったのでは、憲法自体をめぐって大きな国内的な分裂を引き起こすということにもなってしまいます。
もちろん、何を変えるかという中身の問題が大きいわけですけれども、日本の問題に即していえば、まさに国論を二分するような問題というのが、いわゆる「改憲」論の争点となっているわけです。それについて、25%ぐらいの賛成でもって変えちゃうといったようなことが行われるとすれば、それは新しい憲法自体の実効性ということも怪しいものになってくるわけですから、そのような事態は絶対に避けなければならないと思います。そういう実際的な観点からいっても、やはり、新憲法の制定というからには、少なくとも国民の全体の過半数の賛成が必要と考えるべきでしょう。

【立憲主義をひっくり返す新憲法制定論】

そこで、自由民主党がなぜ憲法全部を変えるというような提案をしているのかということをみてみますと、もちろん9条をめぐる問題というのが一番の大きな問題としてあるわけですれども、理論的な観点から言いますと、その提案は、実は憲法というものの性格自体を根本的に変えるという提案でありますから、それは「改正」でできる話ではありません。その意味で、自由民主党が新憲法制定を唱えるのは、ある意味で当然のことで、憲法全部を変えない限りは、彼らが考えるような「憲法」というものはつくれません。
その一番のポイントは、要するに、立憲主義の根本である「国民の権利を守るために国家権力を制限する規範としての憲法」という観念自体をひっくり返そうという議論がなされている点です。たとえば、自民党が昨年の6月にまとめた党の憲法調査会の論点整理の中で、このように言っております。もう御承知かとも思いますけれども、一応紹介しておきます。
「これまでは、ともすれば憲法とは国家権力を制限するために国民が突きつけた規範であるということのみを強調する論調が目立っていたように思われるが、今後憲法改正を進めるに当たっては、憲法が、そのような権力制限規範にとどまるものではなく、国民の利益、ひいては国益を守り増進するために、公私の役割分担を定め、国家と国民とが協力し合いながら、共生社会をつくることを定めたルールとしての側面を持つものであることを、アピールしていくことが重要である」と。
つまり、国家権力を制限するために国民が突きつけた規範だという憲法のとらえ方はだめだ、今後は、憲法というものは、国家と国民とが協力し合いながら共生社会をつくることを定めたルールなのだということをアピールしていく必要がある、というわけですね。つまり、国民の権利を守るために国家権力を制限するための規範という憲法の性格づけをひっくり返して、国家と国民との共同のためのルールとして憲法を位置づけるという発想です。
それから、民主党の場合も、言い回しは違っていますけれども、実は似たような発想に立っておりまして、昨年の6月に民主党の憲法調査会が中間報告という形で発表した文書の中に、やはり次のようなことが書かれております。
「この憲法の名宛人は、どこなのか、だれなのか、従来は国家とされてきたが、今日では国民統合の価値を体現するという意味を込めて、国民一人一人へのメッセージであるとともに、広く世界に向けて日本が発信する宣言でもあることが期待される。新しいタイプの憲法は、何よりもまず日本国民の意思を世界に表明し、世界に対して国のあり方を示す一種の宣言としての意味合いを、強く持つものでなければならない。そのことを通じて、これを国民と国家の強い規範として、国民一人一人がどのような価値を基盤に行動をとるべきなのかを、示すものであることが望ましいと考える」。
ここでもやはり、憲法というものは、要するに、国民一人一人へのメッセージであり、国民と国家との間の規範であって、国民の行動の価値基準になるべきものだ、というとらえ方がなされております。
自民党が、「国家と国民の共生」と言い、民主党が「国民と国家の間の規範」という場合、ではそこで言う「国家」とは何なのか。実はこれがよくわかりません。ここでは、国家というものは国民とは別個の存在として想定されているわけですね。そうでなければ、共生だとか、その間の規範であるといったような言葉は出てくるはずがありません。要するに、国民と国家というものは別個の存在というふうに見る見方が前提にあるということになります。
ですから、自民党も民主党も国民に対置するものとして国家を置いているわけですけれども、では、国民に対置されるものとしての国家とは一体何なのか。そもそも、国家を構成するのは国民であるわけですから、国民とは別個に国家が存在するということは、論理的にありえないはずです。にもかかわらず、それを別個の存在ととらえているということは、結局、そこで「国家」といわれているものは、実は権力担当者のことだと、そう読まないかぎり、日本語的に理解不能なことになります。
そういうふうに読んでみますと、自民党や民主党の「憲法観」というものが明確になってきます。つまり、国家権力を担当する者が国民に対して示すものが憲法だという、いわば絶対主義的憲法観が前提になっていると言わざるを得ません。民主党は、「新しいタイプの憲法」は国民一人一人へのメッセージだと言っているわけですけれども、では、そのメッセージを発する主体はだれなのか。それは国家、つまり権力の座にある者だ、というわけです。つまり、権力の座にある者が国民に対して発するものとしての憲法というとらえ方がなされているわけです。それから、自民党が言う「国家と国民との協力、共生」というのは、権力の座にある者と国民の協力、共生ということにならざるを得ないわけでありまして、したがってその意味するところは、国民は権力の座にある者に対して対立的にならずに協調すべきだ、ということにならざるを得ません。
要するに、自民党も民主党も、国民よりも権力の座にある者を一段上に置いて、その一段上にある者が下の国民に対して指し示す規範が憲法だ、という発想に立っているというように言わざるを得ないわけであります。これは、論理構造、思考様式としては、大日本帝国憲法、旧憲法と同じであります。旧憲法の場合には、天皇が制定して臣下の民に対して発した憲法であるわけですね。したがって、旧憲法には、天皇の言葉として、公務員のみならず臣民たちはこの憲法をよく守りなさいということが書かれているわけです。自民党や民主党の「憲法観」というものは、権力者から国民に対して向けられた規範としての憲法という意味では、この旧憲法と発想はまったく同じで、それはまさしく絶対主義的憲法観と言わざるを得ないわけであります。
もちろん、自民党も民主党も、旧憲法のような、いわゆる欽定憲法の復活を唱えているわけではありません。欽定憲法復活論ならば、それはそれとして、論理としてはすっきり通るわけですけれども、欽定憲法復活論ではなく、なおかつ、国民の上に立つ者が国民に対して指し示す憲法というのは、非常に矛盾に満ちた憲法観だと言わざるを得ません。欽定憲法でないとすれば、一体、彼らが想定する憲法をつくる主体、つまり憲法制定権力の所在はどこに求められるのか、ということです。
日本国憲法の場合には、「国民の憲法制定権力」というものを前提にしているわけでありまして、この日本国憲法の前提、つまり「国民の憲法制定権力」という、この前提を覆すという議論は、自民党も民主党もしていません。では、「国民の憲法制定権力」というこの前提を維持したままで、なおかつ国民より一段上に立つ者が国民に対して発する憲法というものを構想することが、果たして論理的に可能なのかどうか。この点が、理論的には大きな矛盾として、いまの「改憲」論議にはあります。
この点、自民党や民主党の人たちがどう考えているのかということを憶測するとすれば、両党ともにそれぞれその改憲論というものは、現行憲法の改正手続きによることを念頭に置いているわけでありまして、彼らが考えようとしている改憲案というのは、国会が発議する改正案の、いわば原案という意味合いをもって、当然提示されるはずであります。
この国会による発議という場面で主導的な役割を果たすのは、もちろん両院の議員であるわけで、両院の議員が発案して、それを国会で議論して、最終的には国会としての改正案をまとめるということになるわけでありますから、国会の発議の場面では、当然議員たちが主導的な役割を果たすということになります。したがって、彼らは、憲法をつくる主体は自分たち国会議員だというふうに、どうも思い込んでいる節があります。つまり、憲法とは自分たちが国民に対して示すものだと、こういうわけですね。
こういうふうに読み解けば、自民党や民主党の改憲論の思考様式というものが、一応少なくとも整理はできます。つまり、国民の代表である自分たちが憲法をつくり国民をそれに従わせるんだ、という思考様式です。しかも、彼らは、そのことに、何の疑問も持っていないようです。

【「立憲主義」への無理解〜700人の「ルイ14世」たち?】

こういうふうに見てみますと、自民党や民主党の言う「国家」、先ほど紹介した言葉の中にあらわれている「国家」というのは、一般的に権力、あるいは権力担当者を指しているというよりも、むしろより具体的に自分たち国会議員を意味していることになります。要するに、自分たちこそ国家なり、というわけですから、いわば「ルイ14世」が700人いるということです。
ただし、この700人の「ルイ14世」たちは、「ルイ14世」そのものではないわけで、やはり国民の代表だという意識はもちろん持っています。「朕は国家なり」と思っているんですけれど、「ルイ14世」だとは思っていない。国民の代表だと思っている。だから、国会議員たちにしてみれば、自分たちは国民の代表なんだから、自分たちが憲法をつくる主体だというのは、国民の憲法制定権力という建て前からしても当然のことだと、こういうふうに多分思っているんだろうと思います。つまり、「国家の主人公は国民」という国民主権の論理から、だから国民の代表である自分たちは国家の主人公だ、というように直結しているんだろうと思います。自民党や民主党の国会議員たちが、そういう論理を表だって明確に言っているわけではありませんが、要するに、国民の代表なんだから国民の名においてなんでもできるというのが、彼らの体質として染み込んでいるような気がします。ですから、先ほど言ったように絶対主義的憲法観だとか、700人のルイ14世だ、などと言ってみても、彼らには多分さっぱり理解できないだろうと思います。
問題は、「国家の主人公は国民である、したがって、国民の代表である議員は国家の主人公だ」という、その「したがって」という接続詞が実は間違っているということなんです。つまり、国民の代表というのは、あくまでも国民を代表するに過ぎないわけで、国民そのものではない。代表というのは国民によって信託・委任された範囲内で権限を持ち、行為できるに過ぎないものであるはずです。その国民の代表が何をなし得るか、どこまでのことをなし得るかということを規定しているのが、ほかならぬ憲法であるわけです。
だから、国民の代表は国民の名において何でもできるというわけでは決してなく、憲法が認めた範囲内のことしかなし得ないわけです。だからこそ、国民の代表者が決定した法律も憲法に違反すれば無効になる。つまり、あくまでも憲法の範囲内でしか権限は持たないし、行為できないのです。だから、国民の代表だから何でもできるということはあり得ないわけですね。
もちろん、日本国憲法は、基本的には、その前文にあるように、「日本国民は国会における代表者を通じて行動する」として、多くの部分を代表者に委ねています。だから、代表者は多くの部分において国民の名において行動できるわけです。しかし、憲法改正に関する限りは、代表者のみには決定を委ねていないわけで、国民みずからが決定するということで、最終的な憲法改正についての決定権は国民自身が留保しています。それは、憲法制定権というのはあくまでも国民にあるんだという原則を確認するという意味を持っているわけであります。
ですから、国民の代表は国民の名において憲法制定権を持つという論理は、憲法制定権者である国民の意思として、明示的に否定されているわけであります。そういう意味で、自民党や民主党の人たちが当然のように思っている論理、自分たちは国民の代表なんだから憲法をつくる権力があるんだといったような考え方は、実は、国民の憲法制定権力というものを非合法的に簒奪する行為にほかならないということになります。つまり、国会議員たちが、自分たちが憲法をつくる主体だというふうに位置づけて、そういう内容の憲法に変えようとすることは、国民代表による国民の憲法制定権力の簒奪であり、クーデターの論理にほかならないということになります。
そういう意味で、彼らの考えているような「憲法」にしようとするなら、それは日本国憲法の「改正」では済まない話になるということは、ある意味では当然のことです。憲法制定権力の所在自体を動かそうというわけですから。だからこそ、彼らは、新憲法の制定ということを掲げなければならないという、そういう論理構造になっているわけです。

【憲法改正の限界〜「憲法改正」と「新憲法の制定」】

「改正」なのかそれとも「新憲法の制定」なのかという問題は、従来の憲法学では、憲法改正の限界論という形で議論されてきました。私は、前々から、これを改正の限界論というふうに呼ぶのは適切ではないだろうと考えておりました。要するに、これは、「改正」概念をどう用いるかという問題であって、そのかぎりでは言葉の用い方の問題ですが、しかし、単に言葉の問題ではなくて、憲法の正当性というものをどうとらえるかという問題と密接にかかわる問題なのです。憲法のある条項を変更できるかできないかという問題ではない、ということを、まず確認しておく必要があると思います。
この点は、実は学会でも今まで十分議論が整理されてこなかった。そのために、改正限界論に対して、「国民の99%が賛成しても変えられないのか」といった類の俗論的な批判が、一定の説得力をもつことになってしまうわけです。国民の99%が賛成しているのに、それでも改正の限界を超えるから改正できないなんていう議論はおかしいじゃないか、というわけですね。これは、「改正の限界」ということで、「改正」できるかできないかという議論をしてきたこれまでの憲法学にも、一定の責任があるように思います。
ここでの問題は、要するに「改正」という言葉でもって何を意味するかということであって、国民の99%が賛成するのなら、それは「改正の限界」を超えていても新憲法の制定という形でできるということになるのです。「改正」できるかできないか=変更できるかできないか、ではなく、「改正」という言葉をどう使うかという話なんです。
改正無限界説、つまり改正には限界はないという説は、要するに、憲法所定の改正手続きによる憲法の変更というものは、内容がどうであれそれは全て改正なんだというふうに、「改正」概念をとらえているのです。要するに、この改正無限界説というのは、憲法変更の手続面だけに着目しているわけです。だから、改正手続によらずに、例えば革命やクーデターによって新憲法がつくられたら、それは「改正」ではない。しかし、現憲法の定める改正手続に従ってつくられたら、全然内容の違う憲法であっても、それも「改正」というふうに言う、という話です。
これに対して、改正限界説というのは、憲法の内容上の同一性を損なわない限りで、かつ憲法の定める改正手続によってなされる変更を、「改正」と呼ぶ。内容上の同一性を損なうような変更は、たとえ改正手続に従ったとしても、それはもはや「改正」ではなく「新憲法の制定」とみなすべきだ、というのが改正限界説です。だから、この両説のちがいは、結局のところは、「改正」という言葉をどう使うかのちがい、つまり、内容上の同一性ということをも「改正」という用語の中に含めるか含めないかの違いに過ぎない、ということになります。
そのかぎりでは、それは言葉の問題に過ぎないわけですけれども、しかし、この問題の背後には、実は憲法の正当性という問題があります。私は、改正無限界説がいうように、改正手続によりさえすればたとえ内容上の同一性がなくなって、全く違った内容のものになったとしても、憲法の「改正」として正当化されるというのは、憲法の正当性という点から考えて問題があるのではないかと思っています。
憲法の正当性というのは、単に手続的な「合法性」ということだけで獲得されるものではなく、その中身において憲法制定権者の意思というものがきちんと反映されてつくられているということによってのみ、初めて憲法というものが正当性を持つことになります。たとえば、何もない白紙の状態で新たに憲法をつくるというときに、その憲法がなぜ憲法として効力を持つのかといえば、それは、憲法制定権力をもつ者がそれを正当なものとして受け入れることによって、初めて憲法として効力を持つわけです。たとえば、私が勝手に憲法をつくって、これが憲法だよと言ってみても、それは憲法になりません。それは、私が憲法制定権者ではないからです。正当性という問題は、憲法にとっては非常に重要な問題なのです。
改正無限界説というのは、前の憲法が正当なものとして妥当してきた、その「正当性」を、前の憲法の改正手続を媒介にして継承するというわけですが、内容上の同一性がないにもかかわらず、新しい憲法が前の憲法の正当性を継承するとするのは、憲法の正当性という観点からいうと、やはり問題があるというふうに私は考えます。ですから、憲法の同一性という問題は、やはり、「改正」か「新憲法の制定」かということの判断において重要な意味を持つと考えなければならないと思います。これは「改正」か「新憲法の制定」かということの実質的な基準です。
もう一つ、「改正」なのか「新憲法の制定」なのかを分かつ形式的な問題があります。それは、憲法の全部を改めるのか、一部を改めるのかということです。憲法の全部を改めるのは、たとえ内容的に多くの部分を引き継いでいたとしても、それは新憲法の制定と見なければなりません。一部の条項を改めるというのは、形式的な観点から言えば「改正」と見ていい。もちろん、この場合にも、形式的な基準と実質的な基準の両方を見なければなりませんから、一部の改正であっても、実質的に見て同一性を損なうような変更であれば、それはもはや「改正」と言うべきではない、ということになります。
ちなみに、先ほど紹介しましたスイスでは、憲法の規定上全面改正と部分改正というのが規定されていて、手続きが違っているわけで、したがってある改正が部分改正なのか全面改正なのかというのは、常に問題になり得るわけです。スイスの議論では、学説上は、やはり形式説と実質説があるようであります。形式説でいけば、全部は変えるという場合だけが全面改正の手続きになる。一部の条項を変えるという場合には、たとえそれが内容的に大きな変更であったとしても、それは部分改正の手続きになるということになります。一方、実質説によると、実質的に内容を大きく変更するというような場合には、たとえ一部の条項の改正であっても、それは全面改正の手続きによるべきだということになります。小林さんの紹介によりますと、スイスでは形式説が多数説のようです。
ただし、部分改正については、スイスでは単一性原則というものが厳格に貫かれる。つまり、複数の条項を改正しようとするときには、関連しない条項をまとめて一括して手続きにのせることは許されない。あくまでも個々の改正条項ごとに、もちろん関連する条項はまとめてもいいけれども、個々の条項ごとに改正手続きにのせなければならない。部分改正の場合には、そういう原則があるとされています。したがって、関連しないものを一括して手続にのせるというのは、これは全面改正の手続に乗せるしかないということになるわけです。
この点も、実は日本の改憲論議の中では全くむちゃくちゃな議論がなされているんですね。国民投票法案というのが、そのうち多分出てくるだろうと思いますけれども、そこで、国会が複数の条項を改正発議したときに、国民投票で一括して賛否を問うのか、それとも個々の条項ごとに賛否を問うのかということが、問題になると思います。この点について、どうも自民党でも民主党でも、それは国会による発議の形式に委ねられるという議論が横行してる、そういう方向でやっちゃおうという空気があるんですね。つまり、国会が発議するときに、これは一括だという形で発議すれば一括投票、個別にやるというふうに国会が発議すれば個別投票というように、国会の判断に委ねられるというようなことが言われているのです。この点をが、手続の問題としては、一つの大きな問題としてあります。
スイスの議論にもあるように、一括だったらそれは新憲法の制定というふうに見なければならない。部分改正ならば、個別の条項ごとに賛否を問うということにしなければならないはずです。これは現実的な問題としてこれから重要性を持ってくると思います。いま言われているように、たとえば環境権だの知る権利だのとあわせて9条を「改正」するというような場合に、それを全部一括して賛否を問うなんていうのは、とんでもない話であるわけで、その辺のところも理論的にきちんとこれから整備していかなければならない問題だと思います。

【憲法9条はどこまで変えられるのか】

さて、時間もかなり費やしてしまいましたので、最後の問題に入りたいと思います。「改憲」論の一番のターゲットが9条だということは、今も昔も変わりません。その9条はどこまで変えられるのか、という問題です。この「どこまで変えられるのか」という言い方が、先ほど言ったようにおかしな議論を招くことにもなるわけで、9条をどう変えたら、それはもはや「改正」ではなく「新憲法の制定」だということになるのか、というふうに言い換えたほうがいいかと思います。
これは、先ほど言ったいわゆる形式的基準だけで言えば、9条だけを変えるんだったら、どういうふうに変えようと部分改正だという話になります。しかし、実質的基準で考えたときにはどうなのか、となると、実は今までの憲法学の学説もどうも軸足が定まっていないんですね。9条1項の戦争放棄条項を、戦争をやるというふうに変えたら、それはもう「改正」ではないというのは、いわゆる「改正限界説」の学説としても一致しているのですが、2項の戦力条項について、たとえばこれをなくして戦力を持てるようにするというような「改正」は、果たして許されるのかどうかということについては、従来の有力な学説の中でも説が分かれています。しかも、「護憲派」といわれる代表的な先生たちのなかにも、1項は改正できないけれども2項は改正できる、と言う人がいるんですね。というように、2項については改正できるという説が案外多かったのです。
だから、9条2項に関して、改正できるかできないか、あるいは改正の限界を超えるか超えないか、という議論をしても、あまり勝ち目がといいますか、「学説もこんなことを言っているではないか」と言われると、確かにそのとおりなわけで、そこでの勝負というのはなかなか難しいところがあります。
ただ、私自身の考えで言えば、9条1項さえ維持されれば日本国憲法の平和主義というものの同一性は維持されるのかといったら、決してそんなことはないと思います。9条1項の戦争放棄条項というのは、歴史的に見ても、比較憲法的にみても、こうした戦争放棄条項をもつ憲法はいくらでもあって、日本国憲法だけにあるわけではない。にもかかわらず、世界は戦争を繰り返してきています。戦争放棄だといいながら戦争をやってきているわけです。
たとえば、1791年のフランス憲法にも戦争放棄は規定されていました。フランスは、他国民の自由を侵害する手段として、あるいは他国民を征服するような戦争をしないということを、91年憲法はうたっていたわけです。しかし、その舌の根も乾かぬうちに、ナポレオンがあのヨーロッパ征服戦争をやっているわけです。それから1928年のいわゆる不戦条約で、国際的な合意として、戦争に訴えることは非とする、国家の政策の手段としての戦争は放棄するということが定められたわけですが、それにもかかわらず、世界は、第2次世界大戦に突入しました。
要するに、戦争放棄条項だけだったら、それは別に世界に冠たる平和憲法でも何でもないわけで、日本国憲法の場合には、戦争放棄を確実に担保するために、日本は絶対に戦争をしないということを確実に担保するために、戦力を持たないというふうに規定したわけで、そこまでやって初めて、日本国憲法は世界に冠たる平和憲法だということが言えたわけですから、これを変えちゃうというのは、日本国憲法の平和主義を否定することにほかならないというべきです。ですから、9条1項だけでなく2項を変えることも、憲法の同一性を否定することになるというふうに、私は考えます。
ただ、さっきも言ったように、これまでの憲法学の学説の中では、必ずしもそうは考えてこなかったというところがありますし、最近では、戦争放棄、戦力不保持という9条は、近代立憲主義の観点からすれば例外的なものだ、というようなことを言う憲法学者も出てきています。そういう意味でいうと、9条に関して「どこまで変えられるか」という、そこのところでの勝負というのは、かなり難しいという感じがしております。9条の問題というのは、「どこまで変えられるか」ではなくて、そういうふうに変えるのが本当にいいのか、という実質的なところでの議論が重要で、そこのところでの勝負しかないのではないかという気がしております。
とりとめもない話になったかも知れませんが、一応、これで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。 (拍手)