どうなる? 大阪の教育
〜橋下・教育『改革』を考える〜

2012年5月12日(土)

講演者: 池田知隆 (ジャーナリスト)


司会者挨拶 | 講演内容 | 質疑応答


司会者挨拶

藤原弁護士 (司会; 自由人権協会大阪・兵庫支部事務局)

それでは、自由人権協会大阪・兵庫支部総会記念講演を開催したいと思います。本日は、司会を務めさしていただきます藤原と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
本年4月1日から大阪府教育行政基本条例と府立学校条例が施行されまして、いわゆる「日の丸」、「君が代」条例も施行される中で、不起立のため処分される教員も出てきています。橋下さんという方、市長がいろいろ教育の分野に対して『改革』と銘打っていろんなことをしようとしてきておりますけども、果たしてそういう教育『改革』によって本当に子ども自身の学ぶ権利というのが保障されるのか、こういった点をジャーナリストであり大阪市の教育委員長を2期2年務めておられました池田知隆さんに、本日お越しいただきまして講演いただきたいと思います。
それでは池田さん、よろしくお願いします。(拍 手)

池田氏講演内容

大阪から提起された自由と人権問題

皆さんこんにちは。お招きいただきありがとうございます。私、長く毎日新聞社で教育関係の取材をしていたこともあって、2007年から大阪市の教育委員をやりました。一応、去年2月に教育委員の仕事は終わりましたが、その後、大阪維新の会の教育基本条例が出てきました。その内容は、とんでもない、と大阪府の教育委員の皆さんが「このまま通れば、総辞職する」という反対の声をあげました。私も「これは助太刀しなければ」と急きょこの問題について『どうなる! 大阪の教育』(フォーラム・A)という本を書きました。
それからこの問題について発言を続けていますが、いつの間にか後ろを見たらだれもいなくなっちゃったという感じもしないわけではありません。大阪府の教育委員長さんは先日、お辞めになりましたが、いつしか私がこの反対運動の真ん中に立たされてしまい、今年1月には『朝まで生テレビ!』で橋下さんと向き合うような形になりました。
今は毎日新聞ではなく、毎日放送と橋下さんが激しいバトルをやっております。皆さんご存じかと思いますけど、5月8日の大阪市役所で、橋下さんに毎日放送の女性記者が「日の丸・君が代」問題で大阪の和泉高校の校長先生が「口元チェック」したことについて、府立高校の校長のアンケート調査をめぐって質問しました。大半の校長が、無理やり強制的に歌わせるというのはちょっとやり過ぎと受け止めているような結果が出たので、君が代起立斉唱条例の発端となった橋下さんにコメントをとろうとしたのです。ところが、延々と30分近くにわたって「あなたは勉強不足だ」と逆質問を繰り返すやりとりが「You Tube」に流れました。私が見たときは「300ビュー」でしたが、翌日夜には「50万」を数え(その後、200万を超えた)、その広がりが凄い。「まるで見ている私がDVを受けているような感じでたまらない」という感想をもらす女性もいました。しかし、ネット上では「あの女性記者は一体何者だ」「写真が見たい」「在日朝鮮人じゃないか」「日本をでていけ」、さらには「自殺しろ」といった書き込みが続き、ネットが「炎上」しました。
橋下さんは法律家ですし、弁は立つので、法律論の土俵に強引にもちこんでいましたが、法律家の傲慢さを見せつけ、あれはまさに諸刃の剣ではないかと思いました。橋下さんは、「君が代」問題については非常にナーバスになり、激しく反応していましたが、橋下さん自身は、この問題は「思想信条の問題ではなく、あくまでも服務規律の問題だ」という論理を展開しています。法律家というのは合理的なものを突き詰めていけばいくほど、やっぱり非合理な世界というか、傲慢な世界にいくことを、改めて市民に見せつけたという気がします。
今、自由や人権をめぐって大阪から大きな問題提起をなされています。大阪の「人権博物館」は、「ピース大阪」と統廃合され、近現代史をテーマにした展示施設が検討されています。「新しい歴史教科書をつくる会」などの助言を取り入れて、日本の近現代史を見つめ直そうというのです。いろんな意味で、自由とか人権とかついて橋下さんは果敢に問題提起をしていますが、では、私たちがこの問題に対してどのように対応していくのか、考えさせられております。

「学力低下」ではなく、「学ぶ意欲の低下」が課題

今日は、大阪の教育の問題に絞ってお話ししますが、教育は一番わかりやすい選挙の争点になりやすい問題です。市民それぞれの人生の中で、学校の先生に対する恨み辛みもあるでしょうし、学校に対する不満もあり、だれもが教育については一言語りたいものがあります。しかし、選挙の争点にしても、教育を改革したという効果はすぐには見えてきません。さらに、コロコロと学校の制度をいじってもらったら、子どもも戸惑い、困ります。そうはいいながらも、橋下さんを支持していた人たちの中には、大阪の教育に問題があると切実に感じている人も少なくないでなく、教育の現状をなんとか改善しなればならないのは否定できません。
全国学力テストで大阪は45番目と低迷しています。この学力の低さを何とかしなくちゃいけないと橋下さんが声をあげ、大きな関心を集めてきました。この現実をどう見たらいいのでしょうか。ずっと昔の学力テストでは、大阪は全国で6番目(1964年、小学校6年国語)でしたが、40年経った現在は45番目です。結局、東京とか京都とかはそんなに変動はなく、いずれもベスト10に入っています。
これは、東京、京都の先生に比べて、大阪の先生はサボって、ちゃんと子どもたちを教えなかった結果、そうなったのでしょうか。橋下さんは、とにかく教師の問題だといって、教師たちを管理強化して、学校に競争意識をもたせていこうとしているわけです。
以前の学力テスト結果を見ると、都市圏の成績が上位にあり、地方は低く、教育にお金を注ぐことができる都市圏の子どもたちの学力が高いといわれていました。ところが、近年の結果では、がらりと様相が変わり、東北とか北陸3県の子どもたちがいい成績をあげています。
お示ししたデータでは、大阪は45位で、北海道が46位、沖縄が47位になっています。この結果は、離婚率との関連があるのではないか、と指摘する教育社会学者がいます。全国一の離婚率が高いのは沖縄ですし、全国2位が大阪で、3位の北海道です。親が離婚すると、子ども取り巻く生活環境が厳しくなり、ゆっくり子どもが自宅で勉強する余裕がなくなるという問題がその背景にあるようです。さらに北陸3県や東北の学力か高いことと、持ち家率の高さとの関連もあげられます。3世代同居で、持ち家率が高ければ、地域とのかかわりも深く、子どもの生活環境が安定しているというのです。これらの指摘も無視はできません。
大阪の子どもたちの学力が低いといわれていますが、大阪全体の大学進学者の数から見てみれば、これは全国でやっぱり上位に入ります。トップ層は変わらないけど、下位層の落ち込みが激しいといえます。ある意味では、これは日本全体の教育の傾向を反映しています。OECD(経済協力開発機構)の国際学習理解度調査(PISA)への関心が高まっていますが、かつて日本がトップクラスでした。しかし、2000年以降、フィンランドが1位になり、日本は徐々に低下し、それは「ゆとり教育」のせいだといわれました。
しかし、その調査を見てみますと、日本の子どもたちの上位層はほとんど変わらず、いわゆる成績下位層の落ち込みが激しいため、平均点が低くなっているのです。学ばない子が非常に増え、学力の2極分化しているのです。つまり、「学力低下」の問題ではなく、子どもたちが学ぶことから逃走する子どもたちが増え、「学ぶ意欲の低下」という現象とみたほうがいいと思います。
大阪で特に問題なのは、無回答で出す子どもの比率が高いことです。もういいや、って白紙で出してしまうわけですね。挑戦しようとする意欲がありません。一時、「下流志向」という言葉が広がりましたが、下位層の子どもたちが学ぶ意欲が失われ、とにかく笑い飛ばして何とか生きていけばいいやという形で過ごしていく子どもたちが増えています。そんな傾向が大阪の子どもたちに端的に出てきているようです。そういう意味では大阪の教育の現状は、日本の教育の姿を先取りし、その一つの縮図だといえます。
日本の子どもたちの文化状況にどう向き合っていけるのか。いくら子どもを叱咤激励し、先生たちにきちんと教えろと言っても、なかなかうまくいきません。ですから、問題の本質は「学力低下」ではなく、「学ぶ意欲の低下」にどう取り組んでいくかという難しい課題に直面しているのです。

勤続疲労状態の教師たち

それから、大阪では、先生の休職率が全国平均の2倍です。疾病別に見ると、精神疾患が全国平均の3倍です。大阪の先生は「勤続疲労」状態にあるといえます。大阪のお母さんたちは、ざっくばらんで、学校の対しどんどん要求してくるという。生活環境が厳しいだけに、「うちの子どもにもうちょっと親切に向き合ってほしい」と訴えの内容もストレートです。
このことを私は「朝まで生テレビ!」でとりあげたのですが、橋下さんはこれについては直接答えずに、議論の方向が橋下さんは今後、東京の政界にどのように向き合っていくのかに向かっていきました。しかし数日後、橋下さんが大阪市職員の休職申請制度の見直すと新聞記事がでました。大阪では全国の2倍もの先生が休み、精神疾患の比率も3倍というのは、大阪市が休職の申請の審査が甘かったからだ、と受けとめたようです。もっと休職の申請について厳しく精査し、どんな医師が、どんな診断書をだして休職させているのか厳しくチェックしようというのです。大阪の先生は、税金をもらってさぼって、休んでいると受けとめて、管理を強化させています。
今年の大阪市の教員採用試験で合格者のうち13%が他府県に流れ、辞退しています。合格が内定した教職員志望者がそれだけ大阪を去っていったわけですね。それを先生の頑張りが足らない、とみていては、大阪の学校は窮屈になっていくばかりです。財政難から正規採用じゃなく、臨時講師の比率が高くなっていますが、教育資源についての投資は続けなくてなりません。昔の日本帝国陸軍みたいに、前線に食糧、物資や応援部隊を送らず、ただただ敢闘精神を強調しても、無理です。

新自由主義教育の限界

学校現場に競争の原理を持ち込もうとしている考え方のモデルは、イギリスやアメリカの教育改革です。全国一斉のテストを実施し、その結果を学校別に公開して、学校に競争意識をもたせながら、父母の厳しい審判を仰ぎ、教師が切磋琢磨していけば、改善されるというのです。また、学力テストの成績の下位にある沖縄、北海道、大分とか福岡とかは、日教組の活動が比較的活発だとされ、学力は低いのは日教組が既得権にあぐらをかき、さぼっているためだと攻撃されています。逆に言えば、この学力テストが低いとされているところは、人権意識が高く、困難な課題を多く抱えている地域だといえなくもありません。教職員が横のつながりをしっかり持っていないと、学校で起きている問題が解決しない面もあるともいえます。
成績の上位層の子どもたちは、自分で自分の道を切り開き、向上心を持って学校を選択していきます。しかし、成績下位層の子どもたちの学力をあげるのに一番大事なのは、子どもたちの横のつながりです。大阪大学の志水宏吉教授が指摘していますが、そういうつながりみたいなものをどう保障していくかということが大きな課題です。大阪は、人権教育とか外国人教育とかに比較的熱心な先生が多い。しかし、そういう特色を一切無視し、競争原理だけでやっていけばいいとなれば、大阪の教育は崩壊していきます。
私が大阪の教育を取材し始めたのは1979年です。大学入試で共通一次試験が導入されると同時に、養護学校の義務化が行われ、日本の教育制度というのはいちおう完成したといわれました。日本の高校進学率は98%になっている地域の多く、子どもたちの数学の学力テストは世界でトップでした。
それに比べてアメリカの高校進学率が70%台でした。イギリスでは、労働組合が強く、社会改革が進まず、「英国病」といわれていました。そこで、日本に見習って学力を引き上げようと、教育改革を必死になって進めたのです。
しかし、日本の場合は80年に予備校生が金属バットで両親を殺害する事件がありました。川崎の新興住宅地にある高学歴の豊かな家庭で悲惨な事件が起きました。それについて当初、「理想」的と思えるような家庭でどうしてこんな事件が起きたのか、と考えましたが、そうではなかったのです。そんな「理想」的と見える家庭だからこそ、その中では別の抑圧感が高まり、居場所を見つけられない予備校生の暴発を招いたのでした。それは、戦後の教育事件の大きな節目だったと思います。
完成された教育制度の中で、能力主義的にどうしても自分の居場所をみつけることができない子どもたちは、どこに不満を持っていったらいいのか。成績によって管理された学校で安住できない子どもたちは、暴発していかざるを得ない。その後、学校の校内暴力が多発していきます。とにかく校内暴力を何とか封じ込めなくては、と必死になっていくうちに、暴力は抑えこんでいくうちに、次にいじめの問題が表面化してきました。その後、不登校や子どもたちの無関心といった新しい病理が出てきました。
90年代になると、日本の子どもたちは学びから逃走し、世界の中で一番、家庭で学習しなくなりました。世界の中で最も長生きして、それなりに暮らしは豊かで、かつてはそんなに階級的な格差も少ない中で、どう生きていいのかわからない。自分の親の学歴を乗り越えるのは困難だ。そこで、あぐらをかき、引きこもり、不登校になっていく。見方を変えれば、世界の人類史におけるフロントランナーとして日本の子どもたちは走り、大阪の子どもたちはその最先端にいるといえなくもないのです。
イギリスのサッチャー改革で全国一斉の学力テストを実施し、学校別の成績を公表した結果、何が起きたかといえば、地域格差が拡大したのです。いい学校とされる学校には裕福な生徒が集まり、いったん学校の評価が下がれば、それを回復させるのは極めて困難です。次のブレア首相は、地域の改善が進まない地域に重点的に教育資金を投入しましたが、それもうまくいっていないといわれています。学力面では、小学校4年生ぐらいの算数の力は若干伸びましたが、中学校での効果は見られませんでした。いわゆる反復練習の成果は一時的にテストに反映されますが、その後、すぐ消えてしまったというのです。
大阪の教育もまさにそうです。大阪でも小学生の算数は45位から今は37位ぐらいに上がりました。小学校で百マス計算とか反復練習をすれば、それなりに成績の効果は上がるようです。しかし、中学校での変動はありません。
それから、アメリカでは2002年から「落ちこぼれゼロ法」が実施されました。「9.11」で愛国法をつくってテロ防止に取り組みながら、子どもたちの学力を向上させようとしたのです。その内容は、大阪の教育基本条例とよく似ています。年度ごとに目標を掲げて、それを達成して、学校の成績を上げた学校にはそれなりの報奨金を与え、効果を上がることができなかった学校は統廃合されていったのです。また学校の成績を上げることのできない高校に対して、生徒たちの個人情報をアメリカ軍に提供することを求めています。成績の伸びない子どもたちは、軍隊で教育を引き受け、そこから新しい人生を築いていくようにすればいいじゃないかというのです。そういう形で社会の階層化を進めているのです。
しかしながら、住民の民意を反映していく面では、もっともなことが盛り込まれています。学校は保護者に対して情報公開を求める一方、保護者にはどんなことでも学校に情報公開を迫りましょうと呼びかけています。しかし、そこで何が起きたかといったら、学校側が父母に対する過剰な説明責任を負わされ、疲れ切ってしまったのです。5年間で新任の先生の半分ぐらいが辞めた都市もあるそうです。結果的に先生がどんどん辞めていったため、教育環境は逆に低下したといわれています。
先日、毎日放送の「VOICE」という番組で2回にわたり、ニューヨークとワシントンの例を報告していました。「10年経ってみてみると、失敗だった」と「落ちこぼれゼロ法」をつくった教育学者自身が認めているのです。何が起きたのかといえば、英語と国語と数学と理科だけを重視し、子どもたちは芸術系の科目を勉強しなくなった。学校の先生が非常に疲れ切り、学校に対して不信感も高まり、学校と地域社会の間もずたずたになったそうです。このような失敗だとされるイギリスやアメリカの教育改革の後追いを、大阪があえてやろうとしているのです。
皆さんに語るのは、「釈迦に説法」みたいな気がします。教育基本条例のおかしさについては、みなさなさんが詳しいし、深くここで触れるつもりはありません。ただ欧米と日本では、学校の文化の違いを感じます。欧米では個人主義的で、どんなキャリアを積み上げていくかという学歴主義への関心が強い。日本の場合、集団づくりとか仲間づくりとか、地域の中でこの学校をどうつくり上げていくかという住民の感覚があります。コミュニティーの核として学校があります。そういう日本の学校文化は、グローバル時代にはもはや重視しなくてもいいのでしょうか。欧米のように個人主義と学歴主義で、学校を運営していけばいいのでしょうか。そんな問いかけが学校選択制の問題と重なってきます。
学校選択制は現在、だいたい15%ぐらいの地域で行われています。1990年代の終わり、不登校やいじめの問題があり、文科省は「校区外の学校に行っても構わない」と校区のしばりを緩めました。それ以降、親の希望に添うような形の学校づくりを進めるとして学校選択制が東京を中心に広がりました。
私が教育委員会の中にいる間は、「学校選択制はとんでもない」という空気がありました。大阪ではかつての越境入学問題の反省から「そういうことはやめて、地域の学校をみんなでよくしていこう」と思いが強かったといえます。しかし、いまでは橋下さんが「学校選択制は必要だ」と教育委員会に要求して、各区で導入に向け、スケジュールに乗った形でタウンミーティングが行われています。各区長の判断で決めるとされていますが、その区長は公募で橋下さんのめがねにかなった人が選ばれます。橋下さんの意向を無視して区長の独自判断は難しいでしょう。
この問題についていろんな見方、意見があります。学校の自分の子どもが通う学校をどこにするかは、親の権利であり、子どもの権利だといい、それも当然といえば当然です、しかし、本当にそうなのか。学校はいまや、消費者サイド、消費者主権を重視すべきだといわれます。いわゆる子どもとか保護者という教育のサービスを受ける側に選択するの当然の権利があり、親と子どもの要望に基づいた教育を提供すべきだというのです。「メーカーの論理」じゃなくて、「ユーザーの論理」で社会を変えていかなくてはならないといいます。
しかし、そんな消費者主権だけで教育を考えていいのかといえば、必ずしも、そうとは言い切れません。教育を受ける一番の当事者は子どもですから、子どもの要望というのは受け入れるのは当然です。しかし義務教育段階では、子どもの意見よりも、親が代弁する形で出されるわけですが、その親の意見には、自らの子どものことだけではなく、他の子どもたちや地域社会、公共性の視点がどこまで含まれているのかが問われてきます。
教育基本条例の要は、民意を学校の現場に反映させることで、学校協議会の存在も大きく位置づけられています。かつて新聞記者になりたてのころ、ふらっと学校を訪ねて話題を拾って新聞記事にしたものですが、そういうとき、保護者やPTAの集まりでは、「私たちはこの学校をどうしたらいい学校にできるのか」といった思いで語られていました。それが30年経つと、もうガラッと雰囲気が変わり、「学校は自分の子どもにとって決していいところではないかもしれない」「学校は自分の子どもに対して加害者になっている」という意見が相次いでいました。学校は必ずしも自分の子どもにとってプラスになるとはいえない、と「学校信仰」みたいなものが失われてきたのです。
そういう中で、学校協議会で運営していこうとすれば、どうなるのでしょうか。父母の意見を学校が取り上げるのは当たり前ですが、その実態はどうなるかといえば、「あの先生はどうも教え方が下手で、自分の子どもはちゃんと理解してないようだ」というような風評で、先生を排除していく方向にならないか心配です。親の要望が学校にストレートに出されていく中で、学校協議会を運営していく知恵が試されます。
また、教育基本条例の原案には、学校協議会の委員が教科書を推薦する権利があるとされていました。それは最終的に削除されましたが、各学校で自分の子どもにはこの歴史教科書を使ってくれという形で親が要求したとき、その学校は意見が錯綜し、その対応に苦慮することになりかねません。民意の反映が民意の圧力にすりかわる恐れもあります。それは地域の民主主義、学校運営の民主主義の課題としての乗り越えなくちゃいけません。
地域住民が賢い大人として円滑な運営をしていけるのか。その力量はどうやってつけていくのか。学校選択制と学校協議会を実施したとき、地域格差が露骨に反映されると思われます。豊かな生活環境の裕福な家庭が多い地域では、保護者が学校協議会にもゆとりをもって参加できるでしょうが、生活環境の厳しい地域では、要求だけはするけど協議会の会議には出席できない人が多くなります。そんな運営の格差、地域格差をどう克服していくか。住民としての力量も問われてきます。
いま、学校選択制をめぐって大きな揺り戻しが起きています。東京の江東区や杉並区が学校選択制の見直ししていますが、その理由のひとつに防災上の問題があります。地元の学校に通う子どもたちを地域で目配りできるようにしていこうという思いが広がっているためです。あそこの子どもはあっちの学校へ行っているし、そこの子どももっと遠い学校に通っているということでは、地域で子どもを守ることができないというのです。
学校選択制をやれば、地域と学校の関係が切れ、それはそれで仕方がないではないか、と言ってしまえば、それまでです。しかし、本当にそれでいいんでしょうか。特に義務教育段階では、地域全体で子どもを育てて、地域のコミュニティーの核として学校の役割を考えなおす必要があります。子どもたちの学力を上げるのも大切ですし、子どもたちの生活環境に目配りして、そこから支援していく姿勢をもっと重視していかなくてはなりません。
学校選択制の導入や高校の学区撤廃によって、学校間の格差が広がり、生徒が集まらない学校は統廃合されていくでしょう。しかし、そこの学校しか行けない子どもたちはたくさんいます。日本の高校で「困難校」といえば、ある意味では青少年非行防止機能を果たしています。日本の青少年の非行が世界的に少ないのは、青少年を社会にほっぽり出すのではなく、「とにかく学校に来いよ」と教師が学校に囲い込むようにかかわっているからだといわれます。底辺層の子どもたちにも学校という居場所と与えるという社会的な機能をもっているのです。
そういう学校は税金の無駄遣いとつぶしてしまったら、社会に放り出された子どもたちはどうなるのでしょうか。またそういう子どもたちに向けた同じような学校施設とかをつくらなくちゃいけません。セーフティーネットを張らないで、生徒の集まらない学校は統廃合すればいいと考えるのは余りにも乱暴です。
いわゆる「9.11」から「3.11」へと、日本の社会は大震災を経験し、多くの人たちが暮らしの見つめ直そうとしています。2年ほど前、無縁社会という言葉がはやり、もうちょっと社会というつながりというのを大事にすべきじゃないかという動きもありました。いま、消費者主義、個人主義を超える「新しい公共性」みたいなものを獲得し、本当の意味で暮らしやすい社会をどうつくっていくかが問われているのです。そう考えると、橋下さんの政治感覚は時代に逆行しているのではないか、と思えてきます。
あとは自由に、率直に皆さんの意見をお聞かせていただいて、私もちょっと勉強させいただきたいと思います。ひとまず私はこの辺で私の話は終わります。どうもご清聴ありがとうございました。(拍 手)

質疑応答

司会

池田さん、貴重なお話をどうもありがとうございました。さて、池田さんに対して何かご質問などがございましたら挙手していただけますでしょうか。

大槻弁護士

どうもありがとうございました。弁護士の大槻と申します。きょうはちょっと遅れて入って聞かせていただいたんですが、非常に勉強になりました。それで、特にきょうの表題は「橋下教育改革を考える」ということで、橋下さんがやられているいろんな政策なんですが、この橋下氏のことを考える場合に、やっぱり彼自身のある種のキャラクターといいますか、これを抜きにも必ずしもできないんじゃないかなというふうに、実は私は考えてまして、ちょっと人物批評的なことというか、どの程度橋下さんをお知りかわからないんですが、遠くからでもいいんですけども、橋下さんっていう人をどういうふうにとらえたらいいだろうか。そこら辺、何か先生のお考えはございますでしょうか。

池田知隆氏

橋下さんと対面して話したのは「朝まで生テレビ!」が初めてです。橋下さんを政治の世界に引っ張り出して、堺屋太一さんに会わせたというW弁護士に聞きましたが、W弁護士は
「私には製造物責任がある。橋下さんの背後にあるのは“恨み”です」と語っておられました。橋下さん自身は、教育に対してもいいイメージを持っていないようです。友だちとの出会いで感動したり、学校生活を楽しんだりしたとかいうところは感じられません。選挙戦の間に報道されたように彼は、生活環境は厳しいなかで育ち、1979年に東京から新大阪近くの同和地区に移り、進学高の北野高校に入っています。
彼の著書「どうして君は友だちがいないのか(14歳の世渡り術)」の中で「友だちは要らない」といっています。社会の中でいじめられないで生きていくには、漫画「ドラえもん」の中のジャイアンにくっついているスネオ的な存在として、強いものにへばりついて、しのいで生きていくことだというのです。早稲田大学に進学後、革ジャンの取引をめぐってだまされたことから弁護士を目指したそうですが、「もうおれはだまされない」というのが人生観の柱にあるようです。
弁護士活動も、借金の取り立て側の仕事でかなりの収入を得て、テレビのタレント弁護士として名を売りましたが、それまでは政治的な関心はあまりなかったようです。堺屋さんとの出会いで、新しい自分の生き方を見つけ、その後、政治面での猛勉強を重ねたようです。おれはとにかく生きぬいてきたのだから、みんなもやれないことはないというマッチョ的な感覚が濃厚にあります。
人間関係をめぐって「私は決して親分にはなれない。人望は全部、松井一郎さん(大阪府知事)が引き受けて、私はただ新しいことを言うだけ」と言っていましたが、自分の周りには人は寄りつかないと認識しているようです。他人と協調して何かをともにつくり上げていく感覚もあまりないのではないか。
教育というのは、人々の出会いを通して豊かな世界をつくりあげていくものですから、個人主義的な視点から語ると、ちょっと違うなと思います。教育は、法律や経済の世界ではすくい取れないものがあります。とにかく、橋下さんは時代が生んだモンスターと思います。いろんな人の欲望を吸収し、膨れ上がっています。

大槻弁護士

ありがとうございます。もう1点だけいいですか。橋下さんのイメージというか、だんだんお聞きして何となく私なりに感じたんですが、一方で橋下さんを今おっしゃったモンスターに仕立ててしまったのは、橋下さん1人ではなくて、橋下さんに拍手を贈る人が非常に多くて、特に大阪でも7割か8割が橋下さん支持と言われていて、一体この人たちがどういう経路で橋下さんに引き寄せられていってるのか、橋下さんに対して何を期待しているか、そこら辺何かお考えがありましたら、お聞かせいただけますでしょうか。

池田知隆氏

橋下支持率と経済的な格差とか、各区の分布のめぐるデータがあります。橋下支持率が一番高いのは、結局西区とか天王寺区なんですね。西成区っていうのは最低でした。大阪市内の全区で50%以上の支持率があるのですが。つまり橋下さんの強い支持層は、いわゆる中間層で、このままじゃ大阪はどうしようもないという焦りを非常に感じている人たちです。大阪の現状を打破してくれる突破力への期待感を吸収しました。橋下さん以外にその現状を改革する案が示されていないと多くの人に受け止められています。
大阪の教育の問題については、先生たちの頑張りに期待するだけでは解決しません。それなのに先生たちを攻撃して、責任を押しつけることで、親の不満を解消しようとしています。

大槻弁護士

ありがとうございました。

司会

ほかにご質問などございましたら、挙手をお願いしたいと思います。

黒田氏

どうもありがとうございました。私は日の丸・君が代強制反対ホットライン大阪の黒田と申します。
全国の署名を集めたり、抗議集会をやったり、議会傍聴をしたりいろいろやっているんですが、6,688の請願署名を出して、この5月25日本会議で、教育2条例とともに採決に付すという状況になってるわけです。5月8日も集会を開いたんですが、2つちょっと話をしたいと思ってるんですが、橋下さんのいわゆる大衆迎合のポピュリズムと申しますけど、非常にVOICEの問題でも気にしてるわけですね。
連日、夕方、ときには朝、淀屋橋でビラをまいておりますと、5月7日に労働組合関係者から聞いたのですが、橋下市長が直接日本共産党のほうに行きまして、あのビラ何とかしてくれんかと言って、泣き言を言ってきたということです。非常に大衆の気持ちというのはそういう形で気にはしている。
例えば、4月25日の文教経済委員会において、彼が入ってきて冒頭言ったことは、このMBSのVOICEや朝日新聞は、何事だと、私は点数至上主義は言うてないと。ウィスコンシン州まで行ってるんですが、行ってああいうことをやるのは、税金、出張費の無駄遣いだというようなことで言い始めるわけですね。それが入ってきて冒頭に言うわけですね。そういうような形で、ある程度ジャーナリズムが木鐸として権力を批判するということに非常に気にしてると状況が、一方ではあるというふうには思うんですね。
だけども、今言われたように西成などは失業率が高く、生活保護が多いというところは橋下支持が少ないわけですね。そういうふうな形で、やはり不満層を吸収してやってきたということですが、やはり与えられるものがああいう削減削減という形では、何も残っていかないわけですね。というような状況の中で、揺り返しが来るんじゃないかというような見通しを持つ人がいます。池田さんはどのようにお考えなのかということをまず第1点です。
後でよろしいか、次の問題は。

池田知隆氏

橋下さんには人権感覚がないことや、これまでの虚像がはがれつつあります。ツイッターを自分のメディアとして活用していますが、マスコミについてはものすごく敏感ですね。テレビを活用するのは上手ですが、テレビは人間をありのまま映しだしますので、諸刃の剣にもなります。橋下さんはさまざまな事業の削減を打ち出していますが、今後、住民の不満が高まってきます。
橋下さんは、大阪府政の課題を解決していくための要にあるのは、大阪市の問題だとして、大阪市に乗り込んできて、今度はどうも大阪市だけで解決できないから、国政に進出しなくてはいけないと、争点をずらしているように見えます。

黒田氏

ありがとうございました。

司会

もう1点。

黒田氏

資料、本会議及び文教経済委員会等を傍聴しておりますと、いろんなことが出てくるんですが、例えば学校選択制の問題も学校教育振興計画は、教育委員会の仕事で、保護者の意見を聞いて学校を指定するのは教育委員会の仕事であると書いてあるわけですね。だけども、理論的にはそうだが、実際は区長がやって、結局越権行為をやっているということだと思うんですね。だけども、教育委員会はそれに対して非常に抵抗していないんですね。永井教育長も、口では最終的には教育委員会が決めますというように言うんですが、押されてるんですね。
そういうような状況の中で、例えば学校選択制の問題も、あれは4月26日でしたか、熟議という会議開かれました。そうすると、都島区から出た保護者が、地域との連携を壊すので私は反対だという立場で、やるかやらないかから議論してくれというように言ったところ、それはだめだと。これはやった場合にどういう問題が起こるかという、そのこと議論するのであって、やるかやらないかは検討しないんだというんですね。一方的な形でやっている。区長代表が2人出てたと言ってましたけど、あえて越権的な行為をあえてやっていく。
例えば、教師の相対評価を絶対評価にいたしましたけれども、維新の会の議員は市負担の幼稚園や市立高校の先生や、各学校でも市負担と府負担がある。市負担だけは相対評価にせよと。教員1人当たり小学校42歳で500万400円の給料であると。そして50万1,000円ぐらいの勤勉手当をもらっている。その50万1,000円を10人分集めて校長が自由に配分するようにしたら、校長権限は高まると。だから相対評価をして、賞与配分権まで校長に与えよということに関して、永井教育長は学校が混乱するのでそういうことはできませんというて、一応は抵抗するわけですね。だけど、まだまだ条例案について、4月25日段階ではだめなので、議会筋に聞くと公明と自民と維新の会がすり合わせをして、何らかの修正案が出るんではないかというような方向性が今出ているというふうに承っているわけですね。すなわち、問題は教育委員会がどこまで抵抗できるのか、ご経験から少し意見があればお伺いいたしたい。

池田知隆氏

私はどちらかといえば、教育委員会の運営の改革を訴えてきました。教育委員会の決定をそれまでの全会一致から多数決で行うように主張し、情報公開を進めたいと訴えてきましたが、もっと市民に対して開かれた運営をすべきです。
学校選択制の問題では、市長が導入への意向が強く、各区の「タウンミーティング」で、実施を前提にスケジュール説明が行われています。導入の是非をめぐって、教育委員会は主体的な姿勢を維持しなくてはならないと思います。

黒田氏

ありがとうございました。

司会

まだ時間的に余裕がありますので、ご質問ございます方は挙手をお願いします。

七堂弁護士

ちょっと質問も兼ねて少し報告なんですが、こういう教育改革ということで、その条例を制定されているとともに、今、橋下市長は大阪市の公務員に対して、労働組合に対してもかなりの攻撃を加えているという状態があります。先ほど入れ墨調査の話もありました。手法としては、とにかく調査をしたり、何らかの不祥事的なことが一つでもあれば、それを大きくマスコミなどに乗せていって、そして全体に対してアンケート調査にしましても、また組合全体に対して攻撃というか、圧力を加えていくという手法をとられていて、それで今非常に労働組合も大変な状態になってますし、職員も非常に萎縮して働きづらい状況があると思います。
それで、具体的には2月にあった労働組合の特定の政治活動に関するアンケートを強制という形でやったり、また労働組合の事務所をずうっと長年使ってきたものを出ていけと言ったり、また組合のチェックオフを廃止したりとか、さらにメールを調査したり、その入れ墨の調査もそうですし、そのような手法をとっていきながら、私たちは公務員の労働組合の立場でそういうことに対して労働委員会に申し立てをしたり、あるいは裁判を起こしたりということもやっておりますが、そういうこの教育改革の問題と、橋下さんがやはり両輪のようにやっている職員基本条例というのも制定しましたし、職員やまた労働組合に対する攻撃、これらはどういう関係にあるのかというか、何か実際大阪都構想とが言ってましたけれども、実際にやっていることは教育条例を制定したこと、そして職員条例を制定したこと、そしてこの職員労働組合を攻撃することをやっているわけですよね、彼は。ですので、それらが彼の政治手法というか、その中ですごく重視をしていると思うんですけども、そこからの意味合いというか、そのあたりについて池田さんのご見解を。

池田知隆氏

公務員や生活がいくぶん守られている人たちに対して、生活が不安な人たちの不満をぶっつけ、いわばその鬱屈した感情を吸収して支持を広げようとしています。人権侵害であろうと、個人攻撃であろうと、どんどん花火を打ち上げ、それがどうなろうととにかく上げたことで満足してしまっていることもある。大きなことをふっかけて、批判されたらそれを下げちゃう。花火を上げていけばいくほど、世間の関心を自分のほうに集めることができますから。
彼の主張の柱になっているのは、支配と服従ではないでしょうか。彼の言葉で言えば、「ルールの徹底」と言い換えていますが。その後に何があるのかといえば、何もない。どんどん破壊していくだけです。「わたしにも賞味期限がある」という言いかたで、破壊者としての機能を果たすことが自分の役割だと思っています。

七堂弁護士

その冒頭のお話とも関連するんですが、MBSの女性記者に対する激しい非難をしてましたけれども、それをネットの中では支持するような書き込みとかもあると。むしろその女性記者を非難……。

池田知隆氏

そっちのほうが圧倒的に多かったですね、ネット上ではね。

七堂弁護士

それを聞いてると、本当に嘆かわしいという気持ちになるんですけれども、そういう橋下さんの手法がやはり若い層にはやっぱり支持をされているんだろう。そしたら、その破壊者ということ自体もやっぱり支持を受けているんだろうかと思っちゃうんですけど。

池田知隆氏

メディアの問題がありますね。いわゆるツイッターだとかフェースブックは、短い言葉で単発的な攻撃をするだけで、その後の建設的な議論にはならないわけです。橋下さんと学者との討論で、橋下さんの弁論術に学者のほうはぼろくそにいわれ、負けたとされています。しかし、往復書簡みたいな形で展開すれば、勝敗はわかりません。橋下さんの短い言葉をどんどんと投げかけ、その破壊力のすさまじさは、いまのメディアの状況にうまくフィットしています。しかし、そこから何を創造していくかという課題が残されています。

七堂弁護士

ありがとうございました。

池田知隆氏

どうしたらいいんでしょうね。対橋下戦略をどう組み立てていったらいいのか。それは皆さんに本当に教えていただきたいなと思いますけど。

司会

私も、大阪市の労働組合の側で弁護団の一員をさせていただいているのですが、本年2月にねつ造リストの問題が新聞で取りざたされました。捏造リストの問題とは、去年の11月の市長選の際、大阪交通労働組合の事務所の内部に配布・回収チェックリストがあったということで、それを根拠にして橋下市長を含め維新の会は、大阪市の労働組合を批判したのですけれども、結局そのリストは大阪市の嘱託の職員がねつ造をしたものだという事実が明らかになりました。
ねつ造されたリストに基づいて組合の責任を追及したにもかかわらず、橋下市長は何ら、組合に対しては謝罪しないと、謝罪する問題ではないと発言しました。これに対し、記者が橋下市長に対して、ねつ造リストが真正であることを前提として組合を批判したその発言内容は、組合に対する名誉棄損じゃないかというような話をしたときに、橋下市長は議論をすりかえて、光市の事件に関する橋下市長の発言が名誉棄損であるということで裁判になったときに、一審では名誉毀損が認められたかもしれないが、結局は最高裁でひっくり返ったじゃないかと。
あのときに、橋下市長がその発言をしたときに、朝日新聞には橋下はバッチを返上すべきだという社説が載り、そもそもそれが橋下市長に対する名誉棄損じゃないかとか、もういろんなことを論点をすりかえて、記者に逆質問をして、記者はずっと黙ったままという状態になっていました。このような状態になっている現場の記者が橋下さんに対して抱いている印象というのはどうなんですかね。

池田知隆氏

メディアの側が萎縮している面もあります。マスコミの個別の取材には応じないという立場を示し、新聞の取材に応じるときにはそれなりの大きな紙面を要求し、テレビでも比較的長い時間も確保するように求めてくるそうです。その一方、自分の言いたいことはツイッターで発信していますし、メディアの使い方がうまいですね。

菅弁護士

弁護士の菅と申します。どうもありがとうございました。その先生さっきおっしゃったメディアがうまく対応できてないとおっしゃるんですけど、これは私一々細かくチェックしてるわけじゃないんですが、やっぱりメディアは僕は随分橋下さんに迎合してるような印象を全体としては受けるんですよ。なぜここまで、彼がこう言った、ああ言ったということを取り上げるのか。それはやっぱりそういうふうに取り上げることによって、新聞がよく売れるから取り上げるのか、テレビの視聴率が上がるからそうなのか。結構くだらないことでも、朝日なんかでも小さなコラムに橋下氏がこう言った、ああ言ったって結構載るでしょう。
今まで恐らくそういう目新しいことを言わなかったんでしょうけど、今までの市長とか府知事とかがそれほどマスコミに登場するということはなかったと思うんですね。これは僕はマスコミ全体としても、橋下氏に対する関心を非常に高く持っているのか。もちろん批判的な論調も出てきますけど、しかし総じてとにかく何か目立つようにメディアが協力しているようにしか思えないですけど、そのあたりいかがでしょうか。

池田知隆氏

おっしゃるとおりだと思います。特にテレビのメディアがそうですが、橋下さんをフォローするにも、次から次へ話題が飛んで行き、それを追いかけるのに精いっぱいです。論評を書くにも、橋下さんはその先を走っていますし、彼のスピードにメディアが翻弄されているのが現状です。
橋下さんの支持率が約7割ということで、メディアの側の警戒感も強い。ネット上でも、MBSの大阪市長への取材をめぐって「MBSは大阪市民を相手に戦うのか」という攻撃がなされているます。メディアがそれに腰が引けてしまいがちです。それじゃだめなんですけどね。

黒田氏

ごめんください。ちょっとメディアの話が出たのでお話したいんですけども、共同通信が1年間かかって橋下のこのファシズムと言われる状況に対して、批判的な記事を3人のチームをつくって取材をして展開したいと。1年間の計画だと。まず初めに切り口として、日の丸・君が代強制の問題をやりたいということで、私も協力を求められたんですけど、なかなかまだ発信できてないんですね。
そういうこと考えていきますと、例えばNHKだとか、いろんな集会に取材に来られますけど、報道番組ができないんだと。上で切られちゃうんだと。そこで、学芸的な教養番組として、この7月から8月ごろに放送するため3月や2月ごろの事件を再構成するということで、TBSも来ました。だけどTBSも同じことを言うんですね。上で切られていると言うわけですよ。
私は、やはり安上がりの報道をつくるということで、ニュースではバラエティー化してますね、お笑いタレントを入れて、わあわあと笑ったりして、笑いの対象としていろいろ出てくる。今朝もいま言われたMBSの記者のあの問題、27分の橋下の映像を送ってますが、あれはハイヒールりんごが司会となって、朝バラとか何とかいうのでバラエティー化してやっていってるんですね。あらゆるものが、芸人が言う意見が、イコール庶民の意見のような感が出てきている。非常に錯覚があるんじゃないか。
例えば、公募校長であるかとか、公募区長といったって公選じゃないんですね。結果、これは独裁を明らかにしていくための気に入った者を入れるんですから、独裁制の一つなんですね。というようなことを、何か公募したら民主主義的なものだというような錯覚は与えていっているという状況がある。私は、メディアのこの反権力性というものは命だと思いますけど、私は基本的にはそういうお笑い、バラエティー化と安上がり、経費削減ですね、というような形で上がやっぱり操作してるんじゃないか。それは大きな国策的な方向として出るんじゃないかと思ってるんですけどね。経験者としてはいかがでしょうか。

池田知隆氏

橋下の組織力とはなんなのか、考えさせられます。地方議員100人を率いて、約2000人の塾生を集めています。彼の顧問団にコンサルタント会社のマッキンゼーが深くかかわっていますが、これからアメリカや海外のいろんな思惑の持った人たちも入り込んできているようです。維新八策の中でTPP参加を打ち出し、彼はこんな政治観、社会観を持っていたの、と驚かされることが少なくありません。いまは安倍元首相グループが接近しているようです。

司会

もうそろそろ時間です。最後にもしご質問ありましたら挙手を御願いいたします。ないようですので、そうしましたら、これで終了とさせていただきます。今日は、本当に貴重なお話を2時間にわたってお聞かせいただき、本当にありがとうございました。もう一度大きな拍手をお願いします。(拍 手)

池田知隆氏

どうもありがとうございました。(拍 手)