ヴァイマル憲法がなぜナチズム支配を生んだのか?
――歴史はくりかえさない、だが、いま私たちは・・・

2013年11月16日(土)

講演者: 池田浩士氏 (京都大学名誉教授; 京都精華大学元教授)


司会者挨拶 | 講演内容 | 質疑応答 | 資料


司会者挨拶

藤原弁護士 (司会)

それでは、定刻になりましたので、自由人権協会関西合同例会の記念講演を開始させていただきたいと思います。皆さん休日にお越しいただき、まことにありがとうございます。司会は自由人権協会兵庫・大阪支部の事務局次長の藤原がさせていただきたいと思います。
記念講演会は、池田先生に京都大学名誉教授、京都精華大学元教授の池田先生にお越しいただき、ヴァイマル憲法がなぜナチズム支配を生んだのか?―歴史はくりかえさない、だが、いま私たちはという題でご講演いただきたいと思っております。ご講演を1時間半ほどしていただきまして、あとの残り30分は質疑応答をさせていただきまして、4時半には終了の目安とさせていただきたいと思います。
それでは、早速池田先生どうぞよろしくお願いします。

池田氏講演内容

はじめに――歴史と歴史認識を考える

こんにちは、池田浩士と申します。立ってるとかえって目ざわりだと思いますので、座って話をさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。皆様のお手元にA3の紙が2枚、1枚目はいわゆるレジュメで、これから話をさせていただく内容をそのポイントみたいなものを並べてあるわけですが、それからもう1枚のほうはその話の中で具体的な数値とか事実とか、そういうものを見ながらご一緒に考えたいと思いましたので、資料というものを1枚つけさせていただきました。
資料の最初にAとして用語メモというのがありますが、これは後で必要があればここに目を向けていただきたいと思いますが、差し当たりはBの資料のほうがいわゆるデータになっておりますので、話の途中で「@をごらんください」というふうに申し上げるかもしれませんが、そのときはお気が向きましたらこちらを見ていただければありがたいと思います。
この数カ月というより、むしろもう何十年もと言ってもいいわけですけれども、一番最初に私自身が意識して考えたいと思ったのは、1982年ごろでした。日本の教科書が文部省の検定によって、あの大東亜戦争を侵略戦争と記述した教科書があったのを、検閲官が「侵略」という言葉を「進出」に書きかえさせた。それで、アジアのさまざまな国々から日本は自分たちの歴史をいわば糊塗し隠蔽しようとしているという批判が一斉に寄せられた、たしか1982年だったと思います。「教科書問題」というふうに言われたことがありましたが、そのことによって、日本の国家の運営者たち、政権担当政党である自民党を始めとする、そしてその彼らをしっかりと支えている高級官僚たちが、歴史認識をねじ曲げようとしているんだということが、全世界に明らかになったわけです。
そのとき以来、ずっと日本という国家が、とりわけ日本国家が名づけた大東亜戦争という支那事変以後の敗戦に至るまでの戦争で害を与えたという言葉では済まないようなことをしてきた、あの戦争というのを侵略戦争ではなかったというふうに言いくるめる、それがアジアの国々からの批判にもかかわらず本心では全く変わっていない。現在の社民党になるわけですが、村山政権というのができたときに初めて村山首相がそれをアジアの諸国に対して詫びたわけですけれども、いまの総理大臣も村山談話を踏襲していると言いながら、実はやってることは全く正反対のことをやっているという現実に私たちはいま生きているわけですね。
皆様がたが恐らくいま最も焦眉の関心と危機意識をお持ちの「特定秘密保護法」というものも、私自身はその脈絡の上できっちりと進められているというふうに思わざるを得ないわけですが、きょうの私なりの問題提起をさせていただくとすれば、そういう現実の中に生きる私たち――私たちというのはおこがましいので、私に対する自問、自分に対する問いとして話をまずさせていただきたいと思います。
じつは、私自身は大学では、まったく何の役にも立たないドイツ文学というものを専攻したわけですが、60年安保闘争が始まった年の1959年に大学へ入ったので、戦後民主主義はまだ生きていた。60年安保闘争のときも、戦後民主主義を守れというそういうふうな共通の思いがあったわけです。
ドイツの歴史に関しましても、戦後の東ドイツはちょっといま棚上げするとして、日本と同じ資本主義国の西ドイツでは、ヒトラー時代は間違っていた、戦後の民主主義ドイツを守っていかなければいけないという、あの右翼にほかならないアデナウアーというふうな首相でさえ、やはり戦後民主主義は守るという、そういうふうな共通の思いが、同じ敗戦国であり、同じファシズムを体験した歴史を持っているドイツでも日本でも、共通のこれは思いであったと思うんです。
私自身は、そういう状況の中で、何ということか、初めからもう悪ということ、悪いことが確定していると考えられていたナチス時代のドイツの文化や文学の勉強を、大学時代に始めました。それがいま、まったく役に立たないものだったはずの、過去の文字どおり間違った、100%間違ったどころか、マイナスの価値しか持っていないナチス時代のことを、いま皆様と一緒に取り上げて考える時代が来るとは、じつは、まったく夢にも思っていませんでした。わずか、わずかというと若いかたに笑われますけども、わずか半世紀でそういうふうに変わってしまったというのは、非常に恐ろしいことだと思っています。レジュメの「はじめに」というところに、「歴史と歴史認識を考える」というタイトルを書かせていただきましたが、この歴史認識という言葉は、現在は中国や韓国から日本の歴史認識を問われるときに使われていますので、その韓国や中国がどういう思いで言っているかは私自身は責任を持ってお話しすることはできないので、私自身なりにこの歴史認識という言葉について考えるところから、まず始めていきたいと思います。
歴史というのがありますね。英語でヒストリー(history)と言いますけども、ご存じのとおりストーリー(story)、物語というのと関連した言葉ですよね。ドイツ語ではゲシヒテ(Geschichte)と言いますが、ゲシヒテというのも物語という意味です。ドイツ語だともっとはっきりするんですが、ゲシヒテというのはこれは名詞形なんですけども、このゲシヒテという言葉は動詞から生まれた派生語です。言葉には動詞から生まれた形容詞とか、動詞から生まれた名詞とか、逆に名詞から生まれた動詞とかさまざまな単語があるわけですけども、ドイツ語のゲシヒテというのは物語であり歴史であるんですけども、もともと動詞のゲシェーエン(geschehen)、起こるとか生じる、出来事が起こることですね、そういう意味のゲシェーエンという動詞から生まれた名詞なんですね。したがって、ゲシヒテという言葉には、基本的には出来事という意味があります。それから物語という意味があります。それから、歴史という意味があります。いま申し上げた順番で人間の歴史の中で意味が確立してきた、だから最初は出来事のことです。それを、きのうなこんなことがあったんだよと人に語って聞かせると物語になりますよね。それから、さらにそれがずっと時間系列の中で定着させられていって共有されるようになると、今度は歴史になっていくわけですね。
私たちは、現実に日常生活を生きている中で、自分の行為も含めてさまざまな出来事を体験しながら生きているわけですね。これがいまの瞬間はまだ歴史になっていませんけれども、自分が体験した例えば3年前のことはもう歴史的な過去になり得るわけですよね。つまり、自分が体験して、私はつむぐという言葉が余り好きではないのでつくり出してきたといいますか、自分が共犯者の一人としてつくり出してしまった既成事実というか、そういうものが歴史となって、これは要するに体験によって生み出されたものが時間系列の中で過去へとずっと遠のいていく中で歴史になっていくわけです。したがって、私たちは自分が生きている中で否でも応でも歴史をつくりだしながら生きているわけですね。ですから、しばしば「体験しないとわからないよ」という言葉がすごく大きな重みをもって説教されることがあるんですが、私はそうではないと思うんですね。体験したものには、自分が体験した現実というものが見えているとは限らないどころか、見えない場合が非常に多いというふうに思っています。
私自身は、もう案内チラシにも書いていただいているので隠すことも何もないんですが、1940年生まれです。紀元2600年、つまりその年1940年より2600前に神武天皇なる人物が大和橿原に大和朝廷を開いた、2月11日に、というのが紀元の1年ですけども、したがって2599年前に大和朝廷が開かれて、2600年目が日本では1940年で、紀元2600年と言われたんですね。国家的な奉祝行事が1年間を通じてさまざまに行なわれたわけですけども、じつはこの紀元2600年というのは、ちょっと脱線しますと現在に至るまで日本という国家、大日本帝国という名前になったこともありますが、その日本という国家というものがまだ国家ということを人々が意識する以前からずっと見てみても、いわゆる国力、国の力というのが一番頂点に達した時期だったんですね、紀元2600年、つまり1940年。
したがってその翌年はその余勢をかってアメリカとやっても勝てるというので戦争に、対米英戦に踏み切っていくわけですけども、じつはそのころの、つまり1940年の時点での日本のエネルギーというのはもちろん原子力ではありませんよね。石油でもありませんね。石炭です。ほとんど唯一石炭です。ようやく1905年の日露戦争以後、オイルを燃料とする軍艦が日本でも開発され始めますが、まだ石炭船というのはいっぱいあったし、列車はご存じのとおり石炭エネルギーで走る蒸気機関車に引っ張られていたわけです。あらゆる工業、そして戦争もまた石炭がなければできない時代だったんですね、1940年というのは。
ところが、統計資料を調べてみますと、日本の内地、内地というのは日本列島です、植民地を別とした。内地における石炭生産量は1940年の5,631万トンというこれが歴史上最高です。戦後復興の中でも炭鉱が最終的に消滅するまで二度とこの5,631万トンという年間採炭量は回復できませんでした。このことが何を意味しているかというと、1941年からは石炭の生産が下降をたどっていくんです。それなのに戦争を始めてしまったんですよね。だから、最初から、始めた時点から日本は負けることは確定していたというふうに、エネルギーの面からみると言うことができますが、とにかくそういう年だったんです、1940年というのは。
それで、私は1940年にこれは偶然、私の責任ではないので偶然なんですが生まれたんですけども、戦後は1947年の4月に小学校に入学しました。私ごとなんですけれども、歴史体験のことですのでお許しください。1947年4月に小学校に入学するということは何を意味しているかというと、1年前に入学した人が墨塗りをさせられて古い教科書をそうやって墨塗りによって、不都合なところを塗りつぶして使ったのに、47年の1年生からは新しい戦後民主主義の教科書を4月から使ったという世代です。もう皆さんは若いかたもここにはおられますので、昔話みたいに思われても仕方がないんですけども、古い世代の方はご記憶がおありでしょうが、戦後民主主義教育までの1904年以後四十数年間、日本は国定教科書でした。つまり、国が決めた、ただ一つの教科書を、例えば小学校でいうと、全国のあらゆる小学校の同じ学年のすべての生徒が使わされたということです。国定教科書、国が決めた教科書、それをいま自民党がやりたいということですけども、特に最初にまず「道徳」でそれをやろうというわけですけれども、そういう国定教科書だったので、おとなになってからも、小学校1年の国語の第1課はどういう言葉で国語を習い始めたかということを言うと、あっ、それは私より幾つ上ですねとか、私と同じ世代ですねということがわかったんですね。戦時下では、兵隊とか鉄砲とかいうところから始まったのもあるわけです。
ところが、私の場合はこれをはっきり覚えているんですが、小学校の国語の1年生の教科書で何を習ったかはまったく記憶にないのです。まだそのころ国定教科書です。したがって、全国一斉に使ったわけですけど、まったく記憶がなかったんですね。何だろう、親から言われても年上の先輩から言われても、おまえ小学校でどういうところから習ったと言われても全然覚えてないんです。小学校の教科書。私の3つ下の連れあいは「しろこいしろこい」だったと、犬です。というふうに覚えているんです。私は全然覚えてないんです。
ところが、あるとき長野県の松本の松本城の後ろに開智学校という古い1876年に、つまり明治維新から9年目につくられた小学校が、松本城の後ろにそのまま移築されて静態保存されてるんですが、それが教育資料館になっているんです。そこの2階にずっと歴代の国定教科書が展示してあるんですね。私は覚えてないので、そうだ、この機会に絶対思い出そうと思って行きましたら、愕然としたんですね。物すごくよく知っているものだったんです。「おはなをかざるみんないいこ」という歌として覚えてるんです。そのことが、ちゃんとそこの説明に書いてあるんです。戦後民主主義の第1回生は、国語の第1課を歌で習いました、と展示されたその教科書の説明が書いてあるんですよ。私自身は国語の教科書の第1課の文章だという意識が全くなくて、歌としてはこれ、3番まで歌えるんですが、覚えてるんですね。
その3番が問題で、北村小夜さんという元教員の女性、私より年上のおばあさんから私は教えていただいたんですが、なぜ3番が問題か。最初が「おはなをかざるみんないいこ」、2番は「なかよしこよしみんないいこ」。単元の名前は「みんないいこ」なんですが、3番目が「きれいなことばみんないいこ」なんです。北村小夜さんというその私よりも先輩の女性のかたは、「戦後民主主義は出発点から間違っていた」と、この教科書から言われるんです。ついきのうまで、例えば沖縄で「方言札」を子どもたちにぶら下げさせて、「正しい日本語を覚えろ」、「きれいな言葉を話せ」といって、沖縄の言葉は「きたない言葉だ」といって、沖縄のネイティヴの言葉を奪ってきたんです。それを忘れて、「きれいなことば」とはなにごとか、と北村小夜さんは言われました。
私もずっといろんな小説を読んでいて感じることですけれども、朝鮮半島を支配していた日本人が、日本から捨てられて朝鮮に移民に行って、ようやくそこで生きる道を見出した日本人が、朝鮮人を見下しながらどういうふうなことを日常的に言っていたか。日本人からして朝鮮人に対する一番の褒め言葉は、例えば朝鮮人の友達がいますね、あるいは子どもがいる、「君はきれいな日本語ですね」というんです。これが、日本人が朝鮮人を褒めるときの最大のほめ言葉だったんです。こういうのは、当時の日本人が書いた小説やエッセイにいっぱい出てきます。したがって、北村さんが言われるように、戦後民主主義の1回生が習った国語、歌で習った国語の教科書というのは、「きれいなことばみんないいこ」という、その「きれいなことば」というのがどういう歴史を持っているか、まったく歴史に対する反省がないということですね。そういうふうなことを教えていただきました。
これが、じつは私は歴史認識の一つの具体例だと思います。北村小夜さんは私よりも15ぐらい年上ですから、その教科書を私が小学1年で使ったころはもう既に成人だったし、直接その教科書を使った体験者ではありません。妹や弟がいて、その教科書を見たことがあるかもしれないとしても、自分が実体験としてその教科書を使ったわけではない。それから彼女は教員になりましたから、その自分の仕事との関連で戦後教育の教科書のことを、あとから調べられたのだと思います。そして、その「きれいなことばみんないいこ」というのが、いかに自分たちの歴史に対する責任をないがしろにしているか、つまり歴史認識がいかに欠如しているかということに気づかれたんだと思うんですね、多分。自分自身が直接その現場で体験したわけではない。でも、その後ずっと戦後の歴史を生きていくなかで北村小夜さんは、あの戦後民主主義の国語の教科書の第1課は文字どおりの歴史認識の欠如、これは北村さんがそういう言葉を言われたんじゃないんですが、歴史認識の欠如だということに気づかれた。これがつまり北村さんの歴史認識だと思うんです。
つまり、現場で体験している人が現場をしっかりと見ることができているというふうなことは言えないわけです。あとの時代がその現場の意味を発見していく、再発見とさえ言わない、新しく発見していく、これが歴史認識ですね。そうすると歴史というのは2度生きられることになります。歴史認識によって。つまり、じかの歴史を体験した現場で生きた人が見過ごしたり、無意識であったり、犯してしまった過ちであったりというものを、後から来たものが発見していくことによって、歴史はあらためて体験され、それによって歴史の意味が新しく変わっていくわけですよね。生きるということは、今の現実を生きると同時に過去の歴史的現実を生きなおすことでもあるわけですね。それをやはり私たちは今この現場を生きながらしなければならない。
私には何の責任もありません、あの大東亜戦争といわれた戦争に。私は敗戦のときに満5つでした。5つのガキに、おまえは日本人だからあの戦争に責任があったと言われたら、私は断固拒否したいと思います。そういう意味では、敗戦当時数え年でも13歳であった明仁にも、私はその時点で戦争責任はなかったと思います。ただし、明仁の場合ちょっと問題がありまして、日本の皇族は男であれば18歳になると自動的に軍隊の将校になることになっていました。特に皇太子の場合は満10歳でそうなります。つまり、将校というのは、海軍では士官と呼ばれましたが、百姓や工場労働者が徴兵されていっても一生なることがなることができない、よっぽど例外がないかぎり、雲の上の人です、軍隊では。それなのに10歳の男のガキが、例えば明仁の場合は大日本帝国海軍少尉であり、陸軍少尉であったんです。普通の人間は、普通の人間というのはこの人間、名字(みょうじ)のある普通の人間は、海軍か陸軍かどちらかに突っ込まれるわけですね。ところが、明仁の場合は海軍少尉であると同時に陸軍少尉でした。こんなことは普通の人間ではあり得ないことです。
したがって、彼は社会的責任が既にあったんですが、これはだけど、お父ちゃん僕も軍人になりたい、軍人にしてと彼が言ったんではないわけですから、私は敗戦当時12歳の少年に責任を問うのは酷だと思うんです。彼があそこに生まれてしまった、これは雅子とか美智子とか紀子とかいう女性とは全然違います。彼女たちは自分で決断して皇族になったわけです。もちろん、とてつもない強圧に屈してかもしれませんが、とにかく成人に達してから皇族になったわけです。しかし、明仁は生まれてしまったんです、そこに。ですから、明仁の責任を私は問うことはできないと思います。にもかかわらず、その後、明仁は全く無意識のうちに生きてしまった12年に何倍もするぐらいの、いまや7倍近くするくらいの年月をその後生きたわけです。だから、彼はしっかりと、自分が体験したもう過ぎ去ってしまった歴史に対する認識を、きっちりと獲得しなければならなかった。したがって、13歳の彼に戦争責任があると言えなくてもその後の彼には戦後責任があるし、戦後責任は戦争責任を新たに発見し追体験することにほかならない。だから、明仁にも私にも戦争責任はあるというふうに思っています
つまり、歴史認識というのはそういうことではないかと思うんですね。だから、私は体験しなかったから言う権利はない、資格がない、じゃなくて体験しなかった者こそ言う義務と責任があるというふうに私は考えるべきだろうと思っています。

第1部

1. なんという時代に私たちは投げ込まれたのだろう!

それにしても、歴史認識と言えばすぐに皆さんが思い浮かべられる麻生という人を別にしても、すぐに多分思い浮かべられる人物があります。特に大阪では切実ですよね。橋下という、「ハシシタ」と私は言うんですけども、「ハシゲ」というふうに呼ぶ人もいるけれども、私は社会的な地位と権力をもった人には悪口を言ってもいいと思っていますので、私はハシシタと言いますけれども、ハシシタと私が言いたい橋下という人物にせよ、そして天皇に直訴状を渡すなんてことを本気で考えたんですかね、そういうことをやって、そこまではお愛きょうだとしても、「陛下にお詫びするために毎日二重橋の前に行って頭を下げてます」というふうな政治家が、私たちのこの国家社会を運営する一員として存在している時代です。
きょう、多分私に話をしろということが出てきた直接のきっかけであったのは、恐らく麻生の発言だと思いますが、そういうふうな政治家が私たちのこの国家社会を運営して、そこから多大な利権を吸い取っているという現実の中に今私たちは生きているわけで、このひどい現実は皆がこれがひどいこれがひどいと言い始めればきょう中に終わらないくらいなので、省略して先に進みたいと思うんですけども、私は言いたいんですね、こんな現実は私の責任ではないと。もちろん、私は立派な年をしたじいさんですので、責任がないとは言わないんですが、しかしそれでも、私の責任ではないと言いたい――それはなぜかというと、お手元の資料の@をごらんになってください。
2013年7月21日に行なわれた、ついこの前の国政選挙、参議院議員選挙ですけども、、ほかの党には申しわけないんですが、政府与党の責任をまず追及したいと思うので、自民党と公明党だけの得票率を見てみました。まず、投票率が52.61%ですね。こんな投票率で有効な選挙と言えるのかと思いますが、これはちょっと置いておいて、自民党と公明党を見てみますと、比例区では自民党は得票率34.68%でした。つまり投票総数のうちのですね。そして、獲得した議席は比例区に割り当てられている48議席のうちの18、つまり48分の18を獲得しました。公明党は比例区で14.22%の票を獲得して、議席数は48のうちの7議席を獲得しました。一方、小選挙区では自民党は小選挙区のために投じられた票のうちの42.74%を獲得して、議席はこの小選挙区に割り当てられた73議席のうちの47議席を獲得しました。公明党は小選挙区の票を5.13%獲得して、73議席のうちの11議席を獲得しました。
ちょっとこまかいことを言いますが、自民党が比例区で34.68%の得票率でを獲得した48分の18議席というのは、その議席中の何%かというと37.5%です。公明党が獲得した7議席は、48議席のうちで14.6%です。したがって、得票率と獲得議席数はほぼ見合っています、比例区では。自民党はちょっと得してるんですが、これは大きいほうが得するので、自民党は34.68%の票を獲得して37.5%の議席を得た。公明党は14.22%の得票を得て14.6%の議席、これはほとんどぴったりですよね。比例区ではこうでした。では小選挙区ではどうか。自民党の小選挙区での得票率は42.74%ですが、73議席中47議席を獲得したということは、議席の64.4%を獲得したのです。なんと得票率の1.5倍ですね。公明党に至っては5.13%の票を獲得していながら議席では15.1%、つまり3倍ですよ、得票率の。こういう選挙制度の中で、私がいくら一生懸命投票しても私の票はすべて死に票になるわけですから、私には責任はありませんと言いたいわけです。
まさに、こういう制度をつくってきたのは自民長期政権ですね。そして、その使い走りをすることによって権力と利権のおこぼれにあずかっている公明党です。ここに創価学会もしくは池田会長派の日蓮正宗の方がおられたら、政治の話ですからお許しください。こういうふうな選挙制度がある限り、私の意思は反映されない、全く。したがって、私にはこの国の政治がこんなふうになっている、このことに全く責任はありません。しかも、大阪の人々が好きこのんで選んだ橋下とか松井とかいう人に対する責任も、私には一切ありませんとこう言いたいわけですね。
これは、いま自分が生きている現時点での歴史をつくりだしているという観点だけから歴史を見たとき、私はそれに加担していないというだけのことです。しかし、今まで私が生きてくる中で、私はこういうふうな今の日本の現実が生まれてしまうことを許してきたわけですね。例えば、自民党の長期政権がこういう選挙制度の改悪をたび重ねてやり続けてきたのを私は阻止することをしなかったわけです。したがって、私が生きてきた過去の歴史というのをもう一度見つめ直すときに、私には責任が生まれてくるというふうに思わざるを得ないわけです。
そういうことを考えるにつけても、やはりこういう今のような現実、これは私はそのときいなかったけれども、何か自分が知っている範囲ではあったよなということを、やはり私は考えざるを得ません。それは、このところ多くの人が指摘しておられるとおり、かつて80年も昔にドイツで生まれてしまった現実と非常に似ている、あれを思い起こさせるということから、やはり目を転じることができないわけです。逆に言えば、そういう過去の歴史をしっかり見つめてこなかった結果として、あるいは「よそごと」としてきたために、自分自身を見つめることもできぬまま、今の現実があるのではないかということです。

2. 歴史はくりかえさない、だがこれは、いつかどこかにあった現実だ!

歴史はくりかえさない、これは歴史がくりかえすという言葉が先なんですよね。歴史はくりかえすという格言があったのに対して、いやいや歴史はくりかえさないと言われて、私もずうっとそんなもの歴史がくりかえすわけはないというふうに言いたいので、歴史はくりかえさないというふうに言いたいわけですけども、本当に歴史はくりかえさないのか、あるいは歴史はくりかえさないと私たちが言うことができるとしたら、どういう条件が要るのかということも、きょうは考えていきたいと思いますので、差し当たりくりかしているのかどうかは別として、どこかで見たような既視感といいますか、デジャヴュといいますか、既に見たことがある光景、そういうものとしてナチス時代の入り口あたりのことを振り返ってみたいと思います。
ナチス時代というのは、1933年の1月30日に始まりました。ヒトラー内閣が成立して、ナチスが言うところの「第三帝国」が始まったのが1933年1月30日ですから、ちょうど今年が80周年になるわけですね。
さて、それに先立つ時代を歴史の中では世界共通でと言ってもいいんでしょう、ヴァイマル共和国時代とかヴァイマル時代というふうに呼んでいます。日本ではワイマールと伸ばされる表記がずっと続いてきましたが、これは伸ばしません。ドイツ語では長音と短音、長い音と短い音は区別しないと誤解が生まれるので長音短音は割と厳密なのですが、最後の ‐r (エル)というのは、英語でfather、mother、brother、sisterというのは皆erで終わるのにアーと流しますよね。それと同じようにドイツ語でもだんだんだらしがなくなって「ヴァイマハ」とのどの奥で言うようになって、「ハ」、さらには「ア」になってしまったんで伸ばしてるように聞こえるんですが、実はヴァイマル、ヴァイマハ、ヴァイマアというふうに短いんですね。それはどうでもいいんですけども。
その「ヴァイマル時代」という言葉を聞いたことがおありの方は、セットとして「ヴァイマル憲法」という言葉も聞いたことがおありかもしれません。つまり、ヴァイマル時代というのが歴史に残る時代として記憶されているのは、ヴァイマル憲法という憲法を持っていて、その憲法が画期的なものだったからですね。さっき言いましたヒトラーが権力をとったのは1933年1月30日で、この日をもって事実上ヴァイマル時代は終わるわけですが、では、ヴァイマル時代が始まったのはいつかと言えば、正式には1919年の8月11日です。これが、ヴァイマル憲法が施行された日です。憲法が制定され施行された日が19年の8月なんですけども、実はその前年、1918年の11月、きょうから95年前の先週、ちょうど一週間前の1918年11月9日、そのとき土曜日だかどうだか私は覚えてませんが、きょうは11月16日ですから、要するに95年前の先週のきょう、ドイツ革命が起こって皇帝一族が列車でオランダへ亡命しました。ドイツ革命によって、事実上帝政が打倒された。軍部は敗戦交渉に移ります。したがって、これが事実上敗戦の日なんですね。だから、ヴァイマル共和国を考えるときこの日から始まったというふうに言ってもいいと思うんです。ドイツ革命によって新しい時代が始まった。
それまでは、「ドイツ帝国」です。カイザーつまり皇帝がいたわけです。ご年配の方でももうほとんどご存じないでしょうが、カイゼル髭というものが昔あったんですね。カイザーというふうにさっきのヴァイマルと同じですが、カイザーというふうに流してしまわないで昔はカイゼルと言ったんですね。そのカイゼル髭というのがあって、こういうふうに鼻の下の髭の左右の両端が大きく上へはね上がった口髭です。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世はこういう髭を生やしてるんですね。そういうカイゼル、皇帝が一家とともにオランダへ亡命してドイツ帝国が崩壊しました。ここから新しい時代が始まるわけです。
さて、このヴァイマル時代の誕生から、後にナチ党、つまり「国民社会主義ドイツ労働者党」という党を率いたアードルフ・ヒトラーという政治家が政権を獲得して、事実上ヴァイマル共和体制に終止符を打つまでの間に、国会議員選挙が9回ありました。総選挙です。日本でいうと衆議院議員選挙です。この国会選挙の9回のうちで、ナチ党が国政に登場してから後の選挙が、この資料のAのとおり、6回ありました。それ以前の3回は、敗戦の翌年の、1919年1月19日に最初に行われた選挙と、翌年20年6月6日に第2回。それから、24年5月4日に第3回です。
この第3回までは、ナチ党は存在していなかったかもしくは南ドイツのミュンヒェンの地方政党にすぎなかった。つまり、維新の会と同じなんです。地方政党にすぎなかった。したがって、ミュンヒェンを中心とするバイエルン州、バイエルンビールのバイエルンですね。バイエルン州の州議会ではナチ党は議席を獲得していたのですが、国会選挙には出られなかった。詳しい経緯は省略しますが、1924年の12月7日の選挙から、つまりもう敗戦後のヴァイマル体制ができてから5年以上あとになってから、ナチ党が国会に乗り出してきます。
資料Aのとおり、24年12月7日の選挙の投票率は78.8%、議席総数493のうちナチ党は14議席を獲得しました。投票総数の中で占める得票率は、3.0%でした。社会民主党、これは現在の社民党の手本ですけど、社会民主党が131議席、得票率が26.0%。共産党は45議席、8.9%の得票率。27、28年、30年と、どの選挙でも、その投票率は、日本の選挙が一体有効なのかどうかと思わざるを得ないぐらい、高い投票率ですよね。70%代後半から80%代、最後にはもう90%近い投票率です。
次に、議席総数というのがあります。これちょっと見ていただいたらわかるとおり、選挙ごとに議席総数が違います。これ日本では考えられないことですね。日本では、衆議院の定数は幾つでというふうに、初めからもう選挙が始まる前から決まっているんですが、ヴァイマル時代のドイツでは選挙ごとに開票が終わるまでわかりません。議席総数が変動します。なぜかというと、これが物すごく大事なことなのですね、ヴァイマル共和制にとって。
ヴァイマル共和国時代の選挙は政党単位で投票します。したがって、現在の日本の比例区と同じです。しかも全国単一、全国が一選挙区で、すべて比例のみです。政党ごとに投票します。細かいことを言いますと、政党に番号をつけます。今回の選挙は共産党1番、ナチ党2番、社会民主党3番、それから中央党4番とかですね。そういうふうにヴァイマル時代はいわゆる小政党がたくさんあって、20ぐらいの政党が国会選挙に出ました。したがって、その政党に全部番号が割り振られて、この番号は選挙ごとにローテーションで違ってくるようになります。今回共産党が1番だったら、次は共産党は19番とか、それはどうでもいいんですが、要するにそうやって、投票者は全部数字で、番号で投票します。そして、したがって今回9番が共産党だとすると、開票するときに9番が何票入っているかで得票数が決まっていくんですが、6万票を一つの政党が獲得するごとに、その政党に1議席が割り振られます。したがって、12万票になったら2議席になるというふうに6の倍数です。したがって、投票総数とそれから6万票を獲得し得た政党が幾つあるかで数が選挙のたびごとにに変わってきますよね。1回ごとにだんだん人口が増えたり、投票率に変動があったりしますから、こうやって1924年の総選挙では議席総数が493だったのが、最後の1933年には647議席になっていったわけですね。
さて、これほど公平な選挙は私はちょっとないんじゃないかなと思います。全国が単一の比例代表制で、一つの政党が6万票を獲得すれば1議席であると。したがって私はヴァイマル時代には民意が恐らく考えられる限り、最大限反映されていたということができると思います。しかも、この投票率ですから。こういうふうな文字どおり初歩的なといってもいい議会制民主主義のルールの中で、ナチ党はついに第1党になり政権与党になっていったわけです。
先ほど言いましたように、1933年の1月30日午前11時15分なんですけども、大統領によってヒトラーは首相に任命されたので、33年1月30日をもってヴァイマル時代は終わりました。したがって、この最後の選挙、1933年3月5日の選挙はナチス時代になってからですが、全て今までのルールで行なわれた選挙です。したがって、ヴァイマル時代のルールに従って行なわれた選挙です。あの物議をかもした麻生発言の言うとおり、「ヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って出てきた」、「ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ」というのはまったくそのとおりであるわけです。では、具体的には、その「多数を握って」というのはどういうことだったのか。資料Aに示した投票率やナチ党の得票率やあるいは獲得議席数を見ていただければわかるとおり、1932年11月6日が、ヒトラーが首相になる前の最後の選挙です。1933年1月30日ががヒトラーが首相になった日ですから。その最後の選挙でナチ党は総数584のうち196議席をとって得票率は33.1%です。
ということは、投票者のちょうど3分の1がナチスに投票したということです。したがって、過半数の議席ではないし、得票率も過半数ではありません。有権者の中から8割が投票したこの選挙で、3分の1の投票者がナチ党に票を投じたわけです。自分を入れて11人の内閣の構成員のうち、ヒトラー内閣は首相であるヒトラーを別とすれば、2人の大臣しか占めることができなかった。だから、少数与党であるどころか少数の内閣、ナチ党が圧倒的に少数の内閣でした。
ただし、ここには法律関係、法曹関係の方がたくさんおられると思いますが、自分以外の2人の閣僚をヒトラーはしっかりと選びました。1人は無任所相つまり遊撃手ショートですね。無任所相、つまり特定の担当を持たない大臣を1人つくりました。この人は、プロイセン州、首都ベルリンを含むプロイセン州の首相、日本で言えば知事ですが、ドイツは地方の州が首相を持ってますので、そのプロイセン州首相のゲーリングという空軍大将、ヒトラーの右腕だった人を無任所相として、つまりこれから重要な課題が浮上してくるに違いないから、そのときこれを充てるために特定の担当を持たない大臣として、大臣ポストを1つとった。
もう1人は内務大臣。内務大臣というのは、若い方は外務大臣と違って国内のことを担当するのかと思われるかもしれませんが、文字どおり特定秘密保護法の担当者になるやつです。国家の治安担当の大臣で、日本でも「内務官僚」といいますが、昔の特高警察を仕切っていた内務官僚を手下に持つ一番トップのやつが、要するに内務大臣なんですね。つまり、治安体制をしっかりと把握する、これをナチ党からとりました。したがって、治安関係はもうこれでナチ党が握ったようなものですね。こうやって少数与党内閣として出発したヒトラーは、これではしかし前途多難だということで、すぐに議会を解散しました。そして、今度こそ過半数をとるぞという意気込みのもとに2カ月後の1933年、政権を獲得してから2カ月後の33年3月5日に国会選挙を行ないました。
今度は、選挙制度そのものはヴァイマル共和国の、間接民主主義としてはもう考えられる限り民主主義的な議会制民主主義のルールにのっとった選挙だったとしても、すでに治安関係を握ってますし、突撃隊とか親衛隊というナチ党の暴力装置を持っていますから、それこそそういう威嚇のもとに選挙をやったわけですね。それなのにナチ党は過半数をとれなかった。43.9%の得票しかとれませんでした。

3. なぜ有権者はナチスに票を投じたのか

さあ、ここでどういうことを考えなければいけないのだろう? 選挙制度は極めて民主主義的であった。でも、その選挙制度の中でヒトラーのナチ党が選ばれた。しかし、それは過半数の国民の支持を得たものではなかった。政権獲得時には、投票者の3分の1しか支持していなかった。にもかかわらず、この後の12年間のナチス支配体制の中では、ナチ党は、後で改めてお話しますがぐんぐんと支持率を高めていきました。したがって、ドイツ国民としては、何でもっと早くからヒトラーのナチスに投票しておかなかったのだろう、おれはバカだったなと思う人はいっぱいいたでしょうね、恐らく。いただろうけども、たった3分の1しかとってない首相がと言って不平をならす人は、圧倒的少数にすぎなかった。
私たちが戦後民主主義の中で、ドイツでも日本でも、ナチ党独裁の時代であり恐怖の時代であったと聞いてきたナチス時代の12年半の間に、歴然たる政治犯、つまりヒトラーの暗殺とかナチ体制の転覆とかというものを意図したというふうに認定されて、そういう政治犯のための特別の「民族裁判所」という、日本のかつての「大審院」での「大逆罪」裁判と同じ1回限りの裁判で刑が確定して、死刑の判決がおりたらそのままギロチンに直行という、そういう死刑制度があったわけです。いわゆる国事犯、国の治安を脅かす政治犯を裁くこの裁判所で死刑を宣告され処刑された人は、1934年にそれが設置されてからドイツの敗戦までに、約5,200人でした。そのうち半数はドイツによる占領地域などの抵抗者で、ドイツ人の処刑者は約2,500人です。これを私は少ないと言っているんじゃないですよ。多いと言ってるんでもないんです。一人でも処刑されてはいけないというのが基本です。しかし、ドイツの人口は当初6,400万人。オーストリアを1938年に併合した後に8,500万人ぐらいになります。8,500万人の国民の中で歴然たる政治犯という名目で処刑、ギロチンによって――それから例外的に絞首刑になった人もいますが――「正規の裁判」を経て処刑されたドイツ人は2,500人です。何%でしょうか。つまり、そのくらいしか反対の声を自分の命をかけて挙げる人はいなかったんですね。一人でも殺されてはいけないということは原則です、これは。
ヒトラーとナチスに対する支持は、政権獲得後、時を経るにつれてどんどん高まっていきました。それどころか、さらに驚くべきことに、実は戦後――戦後の「東ドイツ」は置いておきます。東ドイツはひところまでの日本共産党と同じで、初めから戦争に反対して一貫して闘ったのは共産党だけだった、自分たちだけがナチスに抵抗してきたという神話をふりまきますから、戦後はソ連の傘のもとにかつての共産党は社会主義統一党の中核になったわけですが、その東ドイツはちょっと別として、日本と同じ資本主義の道を戦後に歩んできた西ドイツだけに限ると――戦後のドイツでは、学校の教科書にも「ナチス時代にはドイツの国家はこんな悪いことをした、ユダヤ人に対しても許せないことをやった」と書いてあって、学校の教育現場でもきちんと過去の罪を教えている、と日本でも伝えられてきましたね。
ところが、私が、えっ!と思ったのは、1970年代に日本の赤軍、連合赤軍、その他の今ではもうこんな言葉はほとんどないんですが、「過激派」の若者たち、年寄りもいましたが、過激派が活躍というと語弊がありますね、活動を盛んにしていたころ、西ドイツでも同じように過激派、新左翼と呼ばれたグループから出てきた過激派の人たち、これを西ドイツ政府は「テロリスト」という極めて名誉ある名前を戦後社会で初めてこの若者たちに冠したわけですが、そのテロリストと呼ばれた若者たちの一人が書いたものを読んで、私はびっくり仰天したんですね。私とちょうど同じぐらいのかつての若者テロリストが、自分はなぜ西ドイツ赤軍に入ったのかということを書いています。「それは、父親たちの世代があのナチス時代の犯罪の責任をとってこなかったからだ。だから息子である私たちがその責任をとらなければならないと考えて、西ドイツ赤軍に入った」とちゃんとしっかりと書いています。つまり、戦後ドイツが賠償責任を果たしたのは、シオニズムのイスラエルと結びついているユダヤ人たちに対してです。
例えば、シンティ・ロマ、つまり日本でも「ジプシー」と呼ばれる少数民族に対しても、50万人以上殺しておきながら何一つ賠償責任を果たしていません、ドイツは。つまり、ドイツでも、「悪かったのはナチスの一派である、ドイツ国民はだまされたんだ」ということになりました。日本と同じです。軍部と大資本が悪かったんだ。それに気がついたのは共産党だけだった。ほとんどの国民はだまされていた、という歴史観がしっかりとこの両方の国で定着しました。こういう歴史認識だったわけですね。
ところが、1970年代に日本より数年先立って情報公開法がドイツでも、当時での西ドイツでも制定されました。若い歴史研究者が、さまざまな地方の自治体が保存していた公文書を閲覧できるようになりました。私も一生懸命勉強していたはずなのに、そういうものの存在は知らなかったんですが、戦後ドイツでは各地の地方自治体がナチス時代の体験者に聞き取り調査を何度もくりかえし行なっていたんですね。あの時代についてどう思うか。こういうことは一切公表されなかった。だから、みんな一部の悪人たちにだまされていた。悪かったのはナチスだ、あの狂気集団――差別用語ですが、狂気集団のナチスの責任だという歴史観が定着したんですが、私よりも十ぐらい年下の50年代初頭生まれぐらいの世代の歴史学者たちが、1970年代末にそれら一連のアンケート調査の資料を発見しました。
何と、聞き取り調査での体験者たちの意見は、戦後すぐの1940年代の終わりから一貫して、あの時代はよかったというのが多数意見。多数の回想だった。何でよかったのか?――まず、恐ろしい失業がなくなって食うに困らなくなった。これは、あとでもうちょっと詳しくお話しますので簡単に言いますが、その他とにかくいい体験が思い出として生きていたわけです。
実は、日本でもそういう記憶を発掘した人たちのグループがありました。「女たちの現在(いま)を問う会」という女性史研究者のグループが、1977年から85年にかけて『銃後史ノート』という雑誌を出して、銃後というのは、前線で男の兵士が戦っているときその銃後である生活の場では女性がそれを支えたわけですよね。かつてその銃後を支えた戦中世代の女性たち、要するにおばあちゃんたちの聞き取り調査をやったんですね。1940年代生まれ50年代生まれぐらいの女性史研究者たちが行なったその調査でも、やっぱり戦中の女性たちがすごくはつらつとして生きていたということがわかります。ドイツでも、ヒトラーの時代は戦後に生きる私たちが思っているのと体験した当事者たちが思っているのとでは全然イメージが違ったということが、70年代後半からようやく少しずつわかるようになってきたわけです。
じゃ、そのよかったという理由は何だったか。さっきちょっと言い始めたことですが、まずとてつもない失業状況を公約どおりヒトラーはなくしてくれた。それから、それを自信を持って約束して、思いきってどんどんと独裁と言われようが何しようが実行した強いリーダーだった。その強いリーダーが失業を解消してくれたし、経済を再建してくれたし、ドイツを取りもどしてくれた。レジュメには「もどす」という字を漢字ではなく平仮名で書きましたが、これは個人の趣味です。「戻す」という漢字が何となく形が嫌いなので、自民党のポスターと同じように「取り戻す」と漢字で書かなかった、それだけのことです。自民党のポスターには漢字で書いてあります。「日本を取り戻す!」――「にほん」と言っちゃいけないですね。このごろNHKでもアナウンサーが「にほん」というと怒られるそうですね。「ニッポンを取り戻す」と言わないといけないんですが、「ドイツを取りもどす!」と言ったんですよ、ナチスは。つまりヴァイマル共和制がドイツをだめにした。だから、輝かしい歴史を持ち高い文化を持つ誇りあるドイツを取りもどす。国民がドイツ人である誇りを取りもどすことができるようにする。これがヒトラーのナチ党の一番基本にあった公約です。これを実現してくれる強いリーダーが国民の心を引きつけました。
これは、ヴァイマル民主主義時代を生きてきた人にとってはすごく説得力があったんです。これは、私たちの問題でもあるんですが、ヴァイマル憲法のもとでの民主主義は、なかなかものが決まらなかった。議会がねじれ現象どころか、政党そのものがたくさんありましたし、ヴァイマル民主派といわれている勢力が3分の1ぐらい、3分の1ぐらいは共産党と社会民主党のいわゆる左翼勢力、これは多いときには社会民主党が過半数をとったんですが、それから、右翼民族派はどんなに頑張ってもここに見るとおり3分の1だったんですね。だから、国会でも容易に物事が決まらなかった。「ねじれ」が解消したらよく決まるじゃないですか。だから、ナチス時代になって人々は、やっとあの辛気臭いヴァイマルとかというものが終わった、これからは強いドイツだ。ドイツにけちをつけるフランスとイギリスとソ連、そんなもの、今度はまず基地をたたくことから始めようとか、、そういうふうにして戦争ができる国づくり、どころか戦争をする国がちゃんと実現できるようになった。
その結果、ドイツ国民であることの誇りが取りもどされます。第一次世界大戦で負けたドイツは、これは本当に人間として私は犯罪的と呼んでもいいと思うぐらいの過酷な賠償責任を押しつけられました。戦勝国から。とりわけフランスとイギリスです。とてつもない賠償を押しつけられて、これは1,000年たっても払いきれないとかいう冗談があったんですね。。私は賠償というのは具体的にどう支払われたのか、その細部については不勉強で知らなかったのですが、あるときある小説を読んでいて、うわっと思ったんです。お金、石炭はわかります。ルール地方というドイツの北の西にある、鉱工業地帯のルール地方で石炭がたくさん生産されるのですが、そのころ唯一のエネルギー源であったその石炭はほとんど全部と言ってもいいくらいフランスにとられてしまいました。このように石炭が戦勝国に奪われていくことは想定の範囲内でしょうが、私が小説から知って驚いたのは、電柱、電信柱が賠償品目として大量に戦勝国に送り出されたということです。これは恐ろしいことで、そのためにドイツの豊かな森林が荒廃するのですね。
最も主要な賠償品目である石炭について言うと、1923年の春、テロリスト、右翼テロリストが、フランスへ賠償品として石炭を運ぶ鉄道線路を爆破して、フランス軍によって銃殺刑に処せられました。それを合図にしたかのように、地方政党だったナチ党は1923年の11月9日、つまり敗戦5周年を期してクーデターを起こしました。これが、「ミュンヒェン一揆」とか「ミュンヒェン・クーデター」といわれているものですが、そういうふうに敗戦で押しつけられた非常に苦しい現状に対して何とかしてそこから逃れたいと思う国民の潜在的な感情を、むしろ右翼の愛国者たちが代弁していたんですね。ヒトラーは、まんまとその銃殺刑になったシュラーゲターという青年ですが、彼の爆弾闘争に呼応して、同じ年、1923年の11月の8日の深夜に決起して、11月9日に政権獲得の宣言をしたんです。もちろん1日で鎮圧されましたが。こういうふうにして、先ほどの資料Aにあるとおり1924年12月の国会選挙でナチ党が国政選挙に躍り出てくるのは、それまで地方政党だったけれども、そういう「愛国」、「救国」ののろしを上げて全国から注目を引くことができたからでした。だから、いかに第一次大戦の敗戦がドイツの国民にとって重荷であったか。これから脱して何とかドイツ人としての誇りを持ちたいという気持ちがあったわけですね。生活苦にも増して、恐らくドイツ人としての誇りという、私には日本人としての誇りが全然ないので気持ちがよくわからないんですけども、そういうふうな思いがあった。
さて、ちょっとここで一つだけコメントしておきますと、強いリーダーのところで言うべきったんですが、橋下という政治家に対して、彼のやり方を「ハシズム」という言葉でうまく言いあらわした政治学者がいるようですけども、ヒトラーと比べるとヒトラーに気の毒ですね、橋下は。橋下という人は私は本当にあきれてあいた口がふさがらないとしか言えないぐらいあきれてるんですが、彼は、国政選挙に打って出るのかと、あの参議院議員の選挙の前に記者から問われたときに、いやいや大阪都構想というまだやり残した私の命をかけてやるような仕事が残っているから、国政に出るのはそれをやり遂げるまでは出ないと言いました。それから失言をくりかえして、責任をとるのかと問われたら、いやいや都構想をやり通すまではそれが責任であるとか言いいましたね。で、この前、びっくりしたんですけども、今度は記者から、どうも都構想は通りそうもないですね、大阪府都構想がつぶれてしまったら橋本さんやめるんですかと問われると、いやいややめる気はないと言ってましたね。一体何のために彼はやってるんでしょうね。ヒトラーはそういうことは一切ありませんでした。私は、ヒトラーに共感してるわけじゃないですよ、全く共感してるわけではないんですけどれも、福澤諭吉に共感するのと同じぐらいはヒトラーにも共感してるんですが、つまりきちんと批判しきらなくてはいけない敵としてですが、ヒトラーという人は非常に信念のある人でした。そんなこと言ったら犯罪になると思うことでも、自分がやりたいこと、やるべきだと信じていることは、しっかりとやる信念です。
例えば、ナチ党の綱領にははっきりとドイツの政治を担う国家構成員はドイツ民族、純然たるドイツ民族以外にはだめだと書いてあります。この時点ですでにユダヤ人を排斥するということはナチ党の綱領、マニフェストですね、これにちゃんと書いてあるんです。だから、彼は差別主義者とか何とかいっても、あらゆる非難を受けてもそれは撤回しなかった。そして、実行したわけです。それがいいか悪いかは別です。ただ、そういう信念は持っていた。
一つだけ信念を曲げたことがあります。物すごく重要なことです。1933年1月にヒトラーが政権をとったときに、3年後の1936年の冬季オリンピックと夏季オリンピックはドイツで開催するということが、国際オリンピック委員会で既に決定済みでした。当時は冬季と夏季とが同じ国で開催されたのですね。ヒトラーが政権をとったとき、国際オリンピック委員会はびっくり仰天したわけです。ヒトラーのナチズムはユダヤ人は排除すると言ってるんでしょう。特にアメリカの選手、ユダヤ人がいるじゃないですか、黒人がいるじゃないですか。黒人はユダヤ人やシンティ・ロマと同様に「劣等民族」「劣等人種」としてナチスの抹殺対象でした。それから頭の黒い人種もです。日本人もです。これは、ナチスが抹殺する対象としてはっきりと、『我が闘争』というヒトラーの著書にちゃんと書いてある。だから、日本はそのころ同盟国だったけど、もしナチス・ドイツと日本が戦争に勝っていたら次は日本人が絶滅させられたんですね。頭の毛の黒い民族は全部絶滅させなければならないと明言しているわけです、ヒトラーは。
さて、そしたらアメリカなどはオリンピックの選手を送れないじゃないですか。ユダヤ人、黒人、髪の毛の黒い民族。それで、ドイツにオリンピックを返上させようと働きかけたんですね。ところが、ヒトラーは考えたわけです。それで、ただ一つ信念を曲げたんです。ユダヤ人及び黒人の入国を阻止しない、オリンピック期間中は人種差別キャンペーンを中止すると、36年のオリンピックのためにこれを世界に向かって宣言したんです。そして、このオリンピックによってナチの権力の確固たる力強さが全世界に宣伝されて、おまけにあの『民族の祭典』と『美の祭典』とか、そういうすばらしい映画までできたわけじゃないですか。御用映画監督の女性、レーニ・リーフェンシュタールによって。だから、36年のあの冬と夏のオリンピック、とりわけ夏のベルリン・オリンピックは、ヒトラーとナチ党にとっては万々歳の結果になった。すでに始まっており、その後本格的に展開されるあのホロコースト、大虐殺の道を、国際オリンピック委員会やその下働きたちは、オリンピックのために見て見ぬふりをし、それを容認したのです。さて、オリンピックというのはそういうものなんですね。私が言いたいことはわかってくださると思いますが。
ヒトラーでさえもオリンピック招致のためには彼の信念を曲げ、公約、つまりユダヤ人を絶滅するという公約ですよ、これを曲げたんです。それを先延ばしにしたわけです。だから、安倍が原発のウソを公言してオリンピック招致に、差別用語を使いますが、狂奔するなんてのは当然のことです。つまり、オリンピックというのはそういう意味があるわけですね。私は、このあと福島を始めとする原発が破局的な状態であることが全世界に知れ渡って、7年後といわれているオリンピックはないというふうに私は思いますが、それどころか、破局に頼るのではなく自分たちでなくさなければならないと思いますが、つまりオリンピックに関してだけヒトラーは信念を曲げました。
さて、そういう強いリーダーがドイツの誇りを取りもどしてくれた、ドイツ国民であるという誇りを取りもどしてくれたんですが、もっと実生活の中での体験でよかったというのは、「生きがいのある社会ができた」ということなんです。まず、社会的現実に参加することの充実感を体験したという思い、これが最大の思いです。生きていてよかった、この国に。何かしら勝手にボートでだかヨットで太平洋とか乗り出して遭難して、自衛隊に助けてもらったら「この国の国民であってよかった」と言ったバカがいましたよね。つまり、皆がそう思ったわけです。一部のバカだけではなくて。私がバカというのは、私もバカなので同病相哀れんで言ってるわけですけども、そういうふうにこの国に生きてこのドイツの国民でよかったと皆思ったんですね。
まず、一番わかりやすいところから見ていきましょう。ナチスにとって最大の敵だった共産党、社会民主党は、労働者階級の代表をもって自負している階級政党でした。これは歴然たる事実です。ところが、ナチズムというのはレジュメの用語メモに書いたとおり、Nationalsozialismus(ナツィオナールゾツィアリスムス、ナショナルソシアリズム)、国民社会主義なんです。社会主義です。日本で「ナチ」と表記されるNazi(ナーツィ)というのは、国民社会主義の体現者である国民社会主義者(ナツィオナールゾツィアリスト)の略語がナーツィ、その複数形がナーツィース、ナチスなんですね。ナチ党の正式の名称は国民社会主義ドイツ労働者党、社会主義であり労働者の党なんです。ただし、ソ連を初めとするインターナショナル、国際連帯の国際主義の社会主義ではないんです。ドイツ民族、ドイツ国民の社会主義。だから、社会主義の労働者党であることはソ連のあるいは日本のでもいいですが、同じなんですけども「国民社会主義」なんですね。こういうふうにやっぱり労働者の利益を体現している政党なんです、ナチ党というのは。
ところが、政権をとった33年1月30日のわずか3カ月後に5月1日がやってきました。これは、国際共産主義運動、国際社会主義運動が万国共通にメーデー、労働者の祭典としている日ですね。さあ、ナチスは困ったんですね。だって、自分のところも労働者党じゃないですか。でも、メーデーは「赤」のものじゃないですか。文字通り仮想敵国のソ連のものです。そこでナチスは5月1日を「国民的労働の日」というふうに変えたんです。「国民社会主義」にふさわしく「国民的労働の日」として祝日にしました。
この最初のナチ版メーデー、国民的労働の日、この従来のメーデーをなくすわけにいかなかったんですね。共産党、社会民主党を支持してきた労働者は過半数じゃないですか。だから、この国民的労働の日にナチスは何をやるか、皆は多分意地悪く見てたんでしょうね。そうしたら、さまざまな都市で、皆さんはもうこういう年齢の方はおられないでしょうが、「花電車」というのはご存じですか。花電車をご存じの方はもうここではおられないですか。まだ路面電車が華やかだったころ、例えば何にしましょう、御堂筋パレードでもいい、そういう祝祭のときに路面電車、市電を花で飾るんです。花電車として。もちろんただで、あるいは記念切符を発売して乗せてくれるし、場合によってはその中でビールなんか飲んでもいいっていう花電車というのがあったんです。世界各地で路面電車の時代にお祭りのために電車を動員して実施されたイヴェントです。
その花電車のかわりにナチスは「花トラック」をつくったんです。つまり、大型トラックの荷台を花で飾って、そのトラックの荷台の真ん中に1つテーブルをぽんと置いたんです。積み込んだビア樽から生ビールをじゃーっと注いで、ジョッキで住民の代表が飲んで、乾杯し合う、その代表は二通り、一人はブルーカラーの労働者、ブルーカラーの労働者ていうのをご存じでしょうか。青服労働者、これは工場労働者を始めとする肉体労働者、現場労働者がブルーカラーと言われてたんですね。昔は菜っ葉服と言いましたけども、青系統の色の作業着を着てたんです。ブルーカラーというのはこのカラー、襟ですけども、要するに汚れてもいいように白い襟のついたシャツは着ないわけですね。もう一人はホワイトカラー。ホワイトカラーというのは、文字どおり白い襟の労働者、昔はクリーニング代が高かったのでワイシャツの襟を取り外しできるようになっていて、襟とカフス、ここの部分も取り外しができるようになっていて、ホワイトカラーの事務職の労働者たちは自分のうちでこの襟と袖だけを洗濯した。だから、シャツの本体は長いこと洗わないでもよかったんです。洗濯の手間と代金が節約できた。
さて、ドイツでは、日本でも私の子どものころそうだったのと全く同じように、ブルーカラーの工場労働者、肉体労働者と事務系のホワイトカラーの労働者では、人間と人間ではない部類というくらいの差別があったんです。私の子どものころに、私は大津で生まれて小学校の5年まで大津にいたんですけども、細い通りで向こうから中折れ帽、ソフト帽をかぶり、革のカバン、いまの時代でいうアタッシュケースを持って、背広を着てネクタイを締めている会社員がやってきて、すれ違えないような路地で、こっちから腰に弁当をぶら下げて、腰弁と言ったんですが、腰に弁当をぶら下げてこの辺にタオルでも巻いて、職人さんや工場労働者がやってきて、どちらかがよけなければすれ違えない。そうすると、まず100%、職人さんや工場労働者が体を細くして路地の端にぺたっと塀にくっつくんですね。そうすると、何の挨拶もしないで事務系の背広ネクタイのホワイトカラーはその前を通っていく。それまでずっと腰をかがめて待っていて、相手が通り過ぎたあと職人さんや工場労働者は通っていきました。私の子どものころそれは極めて普通の光景でした。
ドイツではもっとひどかったんですね。ビアホール、皆さんの中にはそんなふしだらな人はいないでしょうけども、ビアホールや飲み屋へ行くと常連の席をいつも占めてるような、そういうお得意さんがいた時代がありました。今でもあるでしょうか、大阪に。ドイツではビアホールに必ずお得意さんの専用の定席があるんですね。たとえば、この弁護士会館の人たちはこの席にいつも坐る、それは幾ら混んでいても、空けておかなくてはならない。あっ、まだ高瀬弁護士さんの一団が来ない。それならこの席は空いたままなわけです。弁護士さんであろうが工場労働者であろうが、そういう常連の席があるんですが、その両者のテーブルは離れたところにあるというふうに、決して席を同じくすることはないんですね。ところが、ナチスが始めた「国民的労働の日」の花トラックでは、同じテーブルで同じビア樽から汲んだ生ビールを、ホワイトカラーとブルーカラーが乾杯をして、こうやって飲むでしょう(腕を絡ませて飲む)。こうやって飲んで見せるんです。そうしながら町を走るわけです。えーっ、もう市民たちはびっくり仰天。あっ、こっちのほうが本当じゃないか、労働者の党は。
肉体を使うとき頭脳を使うのは当たり前だ、当たり前なのに頭脳労働者と肉体労働者という言い方が全世界でまかりとおっていました。ドイツでは両者の差別はきわめてひどかった。それをナチ党はなくすわけです。肉体労働者を「こぶしの労働者」、いわゆる頭脳労働者を「ひたいの労働者」というふうに言い変えたんです。握りこぶしと額、おでこですね。そして両者は平等であると宣言したわけです。これは、共産党にもできなかったことです。それを、ナチ党はやったわけです。これは、戦後になってもいい思い出であるのは当たり前じゃないですか。これが実はナチス時代の歴史の本当に見逃してはいけない明るい面であったわけです。
ドイツ人は強制収容所は見ないでも生きられた。だけども、頭脳労働者と言って威張ってるやつらに人間扱いされない肉体労働者の無念さと怒りは、毎日自分で抱えて生きなければならなかったという現実がありますよね。先ほどの話にもどりますと、体験者にわからないこと、見えないことがあるということが、ここにもやっぱり現われているわけです。みんな知ってたんですよ、強制収容所、絶滅収容所でユダヤ人が殺されているということは。そこへ運んで行かれる貨車から手が出て、子どもにお乳がありません、恵んでやってくださいとユダヤ人が手を差し伸べるのを、ちゃんと受け取って牛乳を入れてやったドイツ人もいるわけです。だから、皆知ってたわけです。これから強制収容所に行く。毎日くさい煙がもくもくと絶滅収容所から上がってるわけですから。でもそれは見ないでも生きることができた。だけども、差別の現実、しかも自分が差別をされている当事者であればそれを見ないで生きることはできなかったということですね。
充実感のもう一つは、やる気があれば「出世」できたということです。ナチスは社会主義政党ですから、あらゆる社会構成員を組織化して運動体の一員にしていきます。ヒトラーユーゲント、ヒトラー青少年団についてはご存じだと思います。10歳になると男の子は「ユングフォルク」、つまり「若い民衆」あるいは「若い民族」を意味する団体に入り、女の子は「ユングメーデル」、つまり「若い女子」という団体に入ります。それが15歳になると、男子は「ヒトラーユーゲント」つまり「ヒトラー青年団」になり、女子は「ブント・ドイチャー・メーデル」、つまり「ドイツ女子同盟」になって、18歳までそこに属します。そのあと男子は「突撃隊」やさらに兵役へ、女子は婦人会などの成人組織に移行していくわけです。そして労働者は、拳であろうと額であろうと、すべて「ドイツ労働戦線」という単一の労使協調の組織の一員になります。このようにそしてあらゆる年齢層と職業のすべての「国民」が組織の一員として生きるわけですが、社会はあらゆる部分がこれらの団体構成員たちのボランティア活動によって担われるようになっていきます。実はナチ党が3分の1とはいえ民衆の支持を得ることができたのは、ヴァイマル時代の初期からずっと一貫してボランティア活動を組織してきたからでした。政権を掌握してからナチスはそのボランティア活動、「労働奉仕」と呼ぶのですが、それを法律によって制度化していきます。社会の隅々まで組織化された団体活動の中で、やる気のある者がどんどん取り上げられるし、それからボランティアを積極的にやっていくとそれがちゃんと見返りとして評価される。何かいまの日本の教育体制みたいですね。そういうのが、しっかりとナチ党によって築かれました。戦後になってよい思い出となったことの一つが、そういう意味での「生き甲斐のある社会」だったということなのです。

4. ナチズム支配はどこから出発しどこに行き着くのか?

第一次世界大戦の敗戦直後の失業状態の中ですでにナチスはボランティア活動に力を注いだのですが、それにもましてとてつもない失業状況がヴァイマル時代の末期にドイツを襲います。資料のBを見てください。資料のBにヴァイマル時代の後期の失業率があります。つまりこういう失業率の中での現実だったということを考えに入れると、ナチス時代には生きがいがあったという感想も、具体的に理解できると思います。1928年には、ドイツにおける完全失業率は、つまり何にも職がないという人は9.7%でした。これでも高いですよね。今の日本では5%を超えるか超えないかで行きつもどりつしていますが。短期労働だけある人、短期労働というのはこれは例えば派遣社員とかアルバイトとか一時的な出稼ぎとかですが、これは5.7%。完全就業者、つまり定職がある人、正社員、これは84.6%いたんですね。いまの日本よりずっと完全就業率が高かった。29年になってちょっと悪くなりましたが、完全失業が14.6%、短期労働7.5%、そしてまだ4分の3以上が完全就業だった。それが突然、30年31年32年と、どどどどどっとウナギ登りになっていきます。
これはどういうことかというと、1929年10月24日にニューヨーク株式市場で株価が突然大暴落した。あの世界恐慌の始まりが29年10月24日だったんですね。この直撃をもろに受けた3つの国がアメリカとドイツと日本でした。アメリカはすでにイギリスを追い落として資本主義の総本家になっていたので、当然です。ドイツはさっき言いましたように第一次大戦での敗戦で、物すごい賠償を科せられたのがようやく復興しはじめていたところに、とてつもない損害をこれでこうむることになります。日本は、外貨獲得の主要品目であった生糸が大暴落して大打撃を受けます。絹はぜいたく品でしたから、世界恐慌に見舞われて不景気になったアメリカやヨーロッパで日本の生糸を買ってくれなくなったんですね。だから、外貨が全く獲得できなくなったといっても過言ではないようなダメージを日本は受けました。ドイツではこれによってまず企業の倒産が相次ぎ解雇が相次いで、失業率がヒトラーが政権をとる半年前というか1年近く前の1932年2月には完全失業率、これ短期アルバイトも何もないということですよ、それが、44.4%になりました。完全就業はわずか33%、労働者の3人に1人です。
このデータは、実はここにわざわざ出典を記したのは、労働組合に加盟している労働者の失業率だからです。何だそうか、どうりでもう一つ下の資料Cのところの完全失業率は同じ1932年が29.9%じゃないか、44.4%というのは誇張じゃないのかと思われるかもしれません。今まで大体教科書的には、この下のCのデータが使われていました。これは、政府がとったデータです。この32年までのデータはヴァイマル共和国政府がとったデータです。
じゃ、政府のほうが正しいだろうということではないんです。ちょっと、事情を説明しないといけませんけども、ヴァイマル時代のドイツでは仕事が必要な人はすべて何らかの労働組合に入っていました。失業者もそうです。失業していても、職を探している最中でもそうです。会社の個別の労働組合じゃなくて、いわゆるユニオン労働組合というのかな、そういう組合が中心です。共産党系の労働組合、それから社会民主党系の労働組合、ヴァイマル民主派の労働組合、それから右翼の労働組合、カトリック政党の労働組合というふうにいくつかの組合がありましたが、それらの労働組合のどれかに入ってたんですね。したがって、現在失業しててもそれからしばらくは育児で休んでたけどまた働こうとする女性も、それから今のところパートをやめてるけどもまたやろうとするいわゆるシングルの女性も入っていた。政府のデータは例えば父親と長男ぐらいまでは労働人口に入れるんですが、どうしても家計を補うためにはパート労働をしないといけない母親であるとか、いわゆる未婚の女性であるとかは政府の労働人口に算入されない場合が多いんです。したがって、労働組合加入者の失業率のほうが客観的に正しいんです。44.4%という完全失業率が正しいと考えていいでしょう。
この途方もない大失業を失くすというのが、ヴァイマル時代末期のナチスの公約でした。それによって支持を獲得し、政権の座に就いたのです。そして、政権を取ると、本当に失業を失くしていきます。戦後になってもよい思い出として残った経済的安定がやってきたわけです。資料Cは、1933年以後はナチス政府によるデータです。ナチス政府は労働組合をなくしました。先ほど述べたように労使協調の「労働戦線」なるものをつくって、全労働者を単一に把握したので、これ以後のデータは客観的です。これを見ていただいたらわかるとおり、ヒトラー政権の最初の年に早くも44.4%の完全失業率は6割くらいにまで減ったんですね。それから、第2年目の34年には13.5%に減り、35年位は10.3%になります。こうしてついに38年には1.9%失業率、これはほとんど無失業社会ですね。翌年の1939年9月1日にナチス・ドイツはポーランドに侵攻して第二次世界大戦を開始しますから、この38年というのは戦争前の最後の年です。
さて、1938年の失業率1.9%、これは、ナチス政府にとっては実に困ったことです。だって、翌年戦争を開始するわけですから、失業率1.9%では戦争できないでしょう。つまり、兵隊になる人間がいないわけでしょう。というよりむしろ兵役年齢の人間が兵隊に行ってしまえば、働く人間がいなくなってしますわけです。現在働いているお兄さんやお父さんが、工場からあるいは炭鉱から農村から兵隊に行ってしまったら、失業率1.9%ではその後を埋める人間がいないですよ。さあ、どうしましょう。ここから、ヒトラー・ナチズムの本当の姿が現われてくるのです。
戦争開始に先立って、ドイツは隣国オーストリアを併合しました。日本の韓国併合と同じように、オーストリアを38年3月に併合したので、属国となったオーストリアから初めは「自由徴募」、ドイツへ行って働くと金になるよと言って、「自由意思」でドイツ本国へ出稼ぎに行く人を集めます。日本がこれを真似して朝鮮半島でやるわけですが、これを始めます。しかしやがて、ドイツへ行ったらひどいぞという真相がオーストリアにも伝わります。
そうすると、やがて次は強制連行ですよね。日本がこれをすべて学んで朝鮮でやりました。これが始まっていきます。こうして次に39年に戦争を始めて、まずポーランドを占領したら、ポーランドのユダヤ人ゲットーの中に工場をつくってユダヤ人を労働力として使い、さらにゲットーから強制収容所に移して強制収容所で強制労働をやらせます。強制収容所というのは強制労働のためのキャンプです。働けなくなった人間や初めから働けない人間を強制収容所に付属する、もしくは別個に設立された絶滅収容所で殺すわけです。だから、ユダヤ人も強制連行されて労働力として使い殺されたわけです。戦争が続くにつれて占領地域からは強制連行によって外国人を労働力としてドイツに送り、その結果として敗戦当時のドイツの全労働人口の4割ぐらいが外国人になります。こういうふうに、外国人労働力を使い殺さなければならなくなっていくわけです。だからいったい、失業がなくなって働くことに困らなくなったという戦後の回想は何だったんだろう? 失業がなくなった後に、あの文字どおり世界中の人が知っている強制労働と絶滅収容所がやって来なければならない道筋を歩んでいたのに、そういうことは体験者には意識されなかったわけですね。
さて、こういう中で「第三帝国」と称したナチス・ドイツは繁栄していきます。ヒトラーは最後に戦争で負けて自ら命を絶つまで、ドイツでの3回の暗殺計画が失敗したんですが、排除されることなく支配者であり続けました。そのヒトラーが政権をとってすぐに始めたのは戦争の準備でした、実は。これは、今では全部データ、資料が明らかになってますが、政権掌握後に直ちに官僚たちや資本家たちに「5年で戦争が可能になる体制をつくれ」という指令を出しました。5年でということは、1938年です。事実、38年、この失業率1.9%となった年にすべての戦争準備は整いました。それで、1939年9月1日にポーランド侵攻で第二次世界大戦をヒトラーは始めました。ここで、ようやく多くの国民たちがみずからの家族が戦争で殺されていくという、そういう時代を迎えることになっていきます。
ヒトラーが政権獲得後最初に着手した大規模プロジェクトは、「アウトバーン」と呼ばれる自動車専用高速道路の建設工事です。この大阪にもいっぱいあるあの高速自動車道です、日本が学んだ。ドイツではナチス時代に自動車専用の高速道路が全国に張りめぐらされたわけですが、これはもともとヴァイマル共和国の初期にヴァイマル共和派がわずか20キロほどつくって、結局資金がなくなって、不景気で中止しなければならなくなった計画があったんですね。それをヒトラーは政権獲得と同時に全国にアウトバーン、自動車専用高速道路の建築を始めます。
この工事を1933年の春から始めていきますが、実はそこには先ほどちょっと触れたまま深く言わなかったボランティアを投入していきます。つまり、失業者は職がないわけですから、このとてつもない10人に4人半の失業者は職がないので、それをこの工事に重点的に投入したわけです。すでにヴァイマル時代末期のあの大失業状況の中で、ナチの突撃隊員たちが、公園や路上でごろごろしている失業者を集めて、「おい、きょうの晩のビールとパンにだけはありつけるぞ、ボランティアに行こう」と言って、「労働奉仕」というんですが、労働奉仕に連れていって辛うじてその一日を生き延びることができるようにしてくれるというので、ナチスのそういうボランティア組織活動というのはとても人気があった。それを今度はヒトラーは自動車専用道路の建設に、全国の失業者をボランティアとして投入していきます。
ボランティアのチップ、謝金は正規の労働者、この場合は建設労働者ですが、正規の建設労働者の5分の1から7分の1のチップがもらえる。大体そういうのが相場でした。だから、例えば現在時間給1,000円のパート労働者であれば10時間働いて1万円ですよね。それが、ボランティアに行くと1,500円から2,000円ぐらいもらえるという感じでしょうか。多分、今に置きかえて言うと。
さて、こういうふうなボランティアによる社会建設が始まっていくんです。このボランティアは狭い意味での労働だけではありません。例えば、町をきれいにしましょう。パトロールをしましょう。さらには、兵士になっていくのもボランティアです。もともと、ボランティアという言葉は古代ローマで志願兵、義勇兵のことだったんですね。別に強制もされてないのに、自分が生きていくために兵隊しか道がないという人を雇ったわけです。アメリカ軍がいまそうですけれども。そういう志願兵、義勇兵のことをボランティアと言ったんですが、社会のあらゆるところにボランティアが組織されていったんです。これは悪口を決していうわけではないんですけれども、大震災の被災地へ行く、伊豆大島へわっと行く、やっぱりものすごく大切なことだと私は思います。ボランティアというのは。自分が持っている力をそれを必要としている人のために何とか役立てたい、これは社会的な生き物である人間にとってはとても大事なことだと思いますが、ボランティアというものがナチズムによってこういうふうに利用されてきたという歴史は、やはり押さえておきたい。やっぱりこれも日本国家が全部学びました。日本の労働問題専門の御用学者たちがナチス・ドイツの労働奉仕制度をきっちり研究し紹介して、国家がそれを日本の制度として実施したのです。日本では労働奉仕ではなく「勤労奉仕」と呼ばれました。労働というのは左翼の言葉だったんですね、天皇制の日本では。したがって、勤労、お勤めです、天皇陛下に対するお勤めです。勤労奉仕と言いました。小学生から大人まで勤労奉仕で炭鉱労働とかさまざまなことに動員されました。これみんな、ボランティア労働です。「労働奉仕」や「勤労奉仕」がカタカナ英語になれば「ボランティア」になるだけです。こういう制度化されたボランティアが戦争を支えたんですね。実は、ボランティアが戦争を支えたんです。義勇兵だけじゃなくて、銃後もボランティアが支えた。これがナチス時代ドイツの典型的な姿でした。当時の日本もそれを学び、それを制度化しました。
そして、このアウトバーン建設によって、セメントとか鉄骨とかさまざまな資材の需要が増え経済に活況かが生まれるだけではなくて、その工事をボランティア労働から始めていくことで建設企業や建築資材の企業は正規の労働賃金の5分の1なり7分の1なりの安い謝金、チップで労働力が使えるわけですから、大企業はいわば人件費分の利潤を蓄積することができる。こうして、正規の労働者を雇う余裕が企業にできてきます。アベノミクスが考えたこともそういうことなのかどうか知りませんが。こうして、失業率が減っていったんですね。そしてその結果として、さっき言いましたが失業率がなくなったあとの恐ろしい時代が来たということです。ところがそれだけではなかった。アウトバーンの工事が開始されたとき、工事の総責任者に任命されたナチ高官は、この道路が「有事のさい」に軍隊が最短時間で目的地に到達できるためのものであることを明言していたのです。つまり、それは軍事道路であり、戦争のための準備にほかならなかった。この事実も視野に入れるとき、ヒトラーによる失業状況の解消は、さらに戦慄すべき現実として浮かび上がってこざるを得ません。しかも、あの大失業状況の中で失業の解消を公約として叫んだヒトラーは、ドイツ人の労働を、それを不当に奪っている連中から奪い返す、と言う意味で叫んだのです。ナチ党に投票し、ヒトラー政権成立後の成果に驚喜した「国民」たちは、この成果が可能になった根拠と、この成果が行き着く結果とに対する責任を、問われざるを得ないと私は思います。そしてもちろん、これは私にとって他人事ではないわけです。

第2部

5. なぜ、これが「ヴァイマル憲法」のもとで可能だったのか?

私たちの常識の中では「悪」としてしか思い描けないといっても過言ではないヒトラー・ナチズムが、これまた私たちの常識では人類史上最も民主主義的な憲法であるとして思い描かれている「ヴァイマル憲法」のもとで、いったいなぜ「国民」の支持を獲得して政権の座に就いたのか、その「国民」の支持の根拠については概略をお話ししましたが、次にその「ヴァイマル憲法」そのものについて、その憲法とはどういうものであったのか、ごく簡単に見ておきたいと思います。
ヴァイマル憲法のもとでの選挙はさっき言いいましたように可能な限り客観的で公正な選挙だったんですけれども、その選挙制度以外についてヴァイマル憲法というのは一体どんなものだったんだろうかというと、これはもう法律の専門家でご存じの方ばかりのところでお話するようなことになるんですが、本当にさまざまな自由とそれから民主主義的な権利を保障した憲法でした。ヴァイマル憲法以前の憲法というのは、基本的に国家の中での権力の均衡、権力の配分を定めて、為政者の内部紛争が起こらないようにするためにもともとつくられたものなんですが、特にドイツでは中世以来の小国分立だったのでそうだったんですが、ヴァイマル憲法は初めてしっかりと国民の基本的な諸権利を保証し義務を明文化しました。たとえば司法における少数民族の言語、教育における少数民族の言語、これが保障されました。官憲による取り調べのときも、少数言語を使っている被疑者は自分の言語で取り調べることを要求することができました。小学校から全部、民族言語で教育を受けることができました。このほか基本的人権として私たちが知っているものはすべて保障されました。差別の撤廃が憲法の条文に明文化されました。
私が一番感動的だと思ったのが、資料Eの条項です。ヴァイマル憲法第109条(平等の原則、同等の権利・称号・勲章)というところで、「すべてのドイツ人は法の前に平等である。男女は原則的に同一の国民的権利および義務を有する。出自もしくは地位による公法上の特権もしくは不利益は廃止されねばならない。貴族の称号は、氏名の一部としてのみ認められるが、今後は授与されてはならない。」 これは、ヘルベルト・フォン・カラヤンとか、あるいは、リッター・フォン何々とかいう名字の人もいるんですが、そういう貴族の称号である「フォン」とか、「騎士」を意味する「リッター」とかいうのは、氏名の一部としてだけ認められる。そしてそういう貴族の呼称は今後は授与されてはならない。それから、「称号は、それが官職もしくは職業を表わす場合にのみ授与することが許される。大学における位階はこれに抵触しない。」 この称号というのは、ちょっといまの日本では少し意識しづらいんですが、昔、封建時代には、というか明治憲法下ではたとえば「枢密顧問官」というのがいたんですね。天皇の顧問、相談役になる人の称号です。この枢密顧問官はドイツにもあったんですが、これは一遍なると退職しても枢密顧問官という称号は変わらなかったんです。だから、職業名というわけではなかった。日本で似たような例を考えてみたんですが、例えば判事、これ判事補というのがありますよね。だから、判事というのは職業名じゃないですよね。職業名は裁判官でしょうか。称号と言うのは、日本では資格というのと重なっているんですね。司法書士とか、税理士とか、公認会計士とか、そういうものと。だから、ヴァイマル憲法ではそういう称号は職業や官職の表示としてだけ認められる。「大学における位階はこれに抵触しない」、これが問題ですね。こんなことを何で認めたんだ、というのが私の批判です。大学では教員というのは職業名ですが、いわゆる国公立には教育職などの呼び名があり、これは官職名です。ところが、教授、准教授、講師、これらは職業名じゃないんです。これは称号です。だけど、大学だけはよろしいよというのですね。だから、ドイツでもまだそういう差別があるわけです。何か自分が差別的な位置にいたくせに言うのは恥ずかしいですね。
次ですね、私が一番感動したのは。「勲章および栄誉賞は国家によって授与されてはならない。」 紫綬褒章とか文化勲章、金鵄勲章はもちろんですが、国民栄誉賞、そういうものを国が授与するのはだめだというのです。もっとすごいです。「いかなるドイツ人も外国政府から称号もしくは勲章を受けてはならない。」 これが、すべての国民は平等だということですよね。あいつは従三位だったけど、おれは従五位だったとか、叙勲を受けたじいさんが言ってるそうですけども。そういうことで人間は差別されない、国家は国民を差別してはならないし、国民は外国政府が行なう差別選別にも加担してはならない。これが究極のヴァイマル憲法の精神だと思います。その精神の上に立ったヴァイマル憲法がナチズムを生んだ。こう考えると、その問題の深刻さは一層深くなります。
この憲法の問題の第一は、「大統領緊急令」でした。資料Fの大統領緊急令条項(安寧秩序の破壊にさいしての処置)というのがヴァイマル憲法第48条にあったのです。この条項は長いので簡単に概略を言いますと、「ドイツ国において公共の安寧秩序が著しく妨げられもしくは破壊されたときには、大統領は武力を行使してそれに対応することができる。そのさい必要なら、基本的人権を保障する憲法の諸条項を一部または全部、停止することができる。」 これで、集会結社の自由も、通信の秘密も、思想信条の自由も、居住の自由も一時停止されることができた。つまり、事実上の戒厳令状態、国家権力による無法状態が可能になった。これが、憲法で認められていた。しばしばこれによって一番弾圧されたのはナチ党と共産党です。一番過激なところがこれで弾圧されました。
こういう例外条項があったので、本当の意味での民主主義的な権利は土壇場では保証されなくなる可能性があったということです。さらに、それに追い打ちをかけたのが、政権を掌握したヒトラーがついに憲法そのものに加えた致命的な打撃でした。過半数に満たないナチ党が政権をとって、解散して1933年3月5日に総選挙を行ない、多数党になろうと思ったのにそれでもなれなくて、最後の切り札として「全権委任法」という法律を上程し、3月23日にこれを国会で強行可決する、という歴史的な出来事が起こりました・
さてそこで、麻生発言がまったくのウソであることを物語る事態をヒトラーは現出させます。「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった」などというのは、全く事実無根のウソであり、麻生という人物の願望夢でしかないのです。現実には、すでに3月5日の選挙を前にして、国会議事堂の放火事件をでっち上げ、さきほど名前を挙げたゲーリングが仕組んだナチスの犯行だったのを共産党の仕業だといって、共産党を非合法化し、選挙に立候補していた共産党の候補者全員を指名手配しました。こうして、候補者が地上にあらわれると即時逮捕されますから地下でしかできなかった選挙戦で、共産党は何と12.3%、81議席を獲得したんです。しかし、この81人の新たに選ばれた国会議員は、一度も国会に登院することはできなかった。亡命するか地下活動をひそかに続けるか。社会民主党も120人を獲得しましたが、このうちのかなりの部分は指名手配中、いろんな口実を設けてという状態で、文字どおりテロリズム選挙をやったんですが、それでも過半数はとれなかったんですね。そこでヒトラーは、選挙後に召集された国会に、「全権委任法」という法律を上程します。それが1933年3月23日に強行採決される。重要議題なので、議席総数の3分の2の出席を定足数とし、出席議員の3分の2の賛成で可決となります。ところが、ナチ党は3分の2に足りない。そこで、出席できるはずがない共産党議員を議席総数から削除して定足数が足りるようにし、抗議して退席した野党の議員を出席者から外し、さらには国会議長でもあったゲーリングが議長席から双眼鏡で議場内の野党議員の顔つきやそぶりを監視して威嚇脅迫することまでやって、カトリック中央党などの野党を屈服させ、この「全権委任法」を強行成立させました。法律はすぐに翌日、3月24日に施行されました。
翌日効力を発したこの法律は、なんと、立法府としての国会の役割と権限をすべて剥奪し、ヒトラー政府に国家の全権を事実上掌握させるものだったのです。資料Gに記したとおり、要点を言えば、「法律は政府が制定する」、つまり文字通り立法府の役割を国会は放棄させられたわけですね。「国家予算の編成と執行は政府が行なう」、つまり国会の予算審議と決算チェックの権限を剥奪する。そしてさらに、「外国との条約は、政府が締結する」、つまり、国会での審議や議決を必要としなくなり、どの国にもある国会での条約「批准」ということもなくされたのです。そして、「政府によって決定される法律は、国会と州代表委員会の構成そのものを対象としないかぎり、憲法から逸脱ことができる」という条項。
法律の制定や、国家の予算の編成および執行や、外国との条約締結は政府によって行なわれ、国会での審議及び議決を要しない。だって、法律をつくるから国会は立法府なんですね。国家予算の審議とチェックが大切だから、日本の衆議院でも参議院でも予算委員会と決算委員会というのは物すごく重要な権限を持っていて、しばしばニュースをにぎわすわけです。外国との条約は国会の批准がなければ、双方ともに効力を発揮することができないというのは国際的な通則ですよね。それを政府だけでできるようにした。さらにもう一つ、決定的な追い打ち。もともと小国分立状態だったのがようやく1871年にプロイセンによって統一された新興国家であるドイツでは、バイエルンとかザクセンとかの旧独立国だった各州の権利が非常に強かったので、州代表委員会というのが国会とは別に政治機関としてあったんですが、国会とこれとの構成そのものを対象としない限り、政府によって決定される法律は憲法から逸脱することができる、ということにされました。これでは憲法は何のためにあるのか。憲法から逸脱する法律をつくることをあらかじめ許された政府なんです、ヒトラーの政府は。したがって、ユダヤ人差別のいわゆる「ニュルンベルク法」、正式名称によれば「ドイツ人の血と名誉を保護するための法律」ならびに「ドイツ国籍法」、ユダヤ人をドイツ国民とは認めないこれらの法律、強制収容所やガス室というのもこれらの法律に基づいて、これらの法律の帰結として、いわば合法的に行なわれたわけですが、これら人類史上最悪の法律も、国会でではなく、1935年9月のナチ党の全国党大会で、原案が読み上げられて、そこに参加した何十万人もの党員たちがろくろく聞こえもしなかったのに「ハイル・ヒトラー」と叫んだら、それで法律は可決されて、政府が施行することができた、こういう時代が始まっていきます。
つまり、「全権委任法」の強行成立によって、ヒトラー政府は憲法に反する法律を勝手に作ることができるようになった。ヴァイマル憲法は、かたちのうえではナチス・ドイツの崩壊まで存続したのですが、事実上ここで死んだわけです。このような大騒動の中で、ヒトラーの権力は確立されました。「ナチス憲法」なるものがヴァイマル憲法に代わって制定されたのではないというだけではなく、「だれも気づかないで変わった」などとはまったくとんでもないという点で、麻生発言はまったくのデマゴギーであるわけです。あの発言は、これから自分たちが、自民・公明の政府与党が、現在の憲法を改悪し、「戦争のできる国」からいよいよ「戦争をする国」へとこの国家社会を変えていくさいに、それが「国民」の大反対を呼び起こしてしまっては困る、だれも気づかないうちに変わったということにしたい、という麻生や安倍や菅(すが)や石破たちの思いを、正直に述べたものだと私は思います。
ナチス・イツでは、こうして国会が有名無実となり、機能を果たす必要がなくなったので、それ以後は国会選挙は行なわれませんでした。その代り、ヒトラーは政府が重要な決定を実行するごとに「国民投票」によって賛否を問い、政府に対する信認を確認するという手続きを行ないます。ナチス・イツの崩壊までに合計4回の国民投票が実施されましたが、その結果は資料Dに記したとおりです。それぞれの重要なチェックポイントで、このような国民投票が行なわれ、そのたびにヒトラーの政策実行は極めて高い支持率で支持されていったというのが、ナチス時代です。この数値は、先ほどお話しした「あの時代はよかった」という戦後になってからの体験者の回想と、ぴったり一致しているのですね。
こうした歴史の現実を振り返るにつけても、あの麻生発言をもう一度だけ思い起こさなければならないと思います。麻生は物議をかもしたあの発言、今年7月29日の東京都内でのシンポジウムでの発言の中で、こういうことを言っています、「そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって」、以下略します。
残念ながらと言うべきでしょうか、「憲法はよくても、そういうこと」、つまりナチズムの支配が生まれるということは、「ありうる」のです。いや、現実にありえたのです。そして、格言は昔から「歴史はくりかえす」と教えているのです。そうだとすれば、いったい憲法は、すくなくともヴァイマル憲法のように人間の権利、基本的人権を明確に定めた近代憲法は、いったいなんのためにあるのだろうか。これをあらためて問わないわけにいかないと私は思います。

6. では、憲法はなんのためにあるのか?――憲法学者ではない視線で

しばしば言われることですが、というより、いまの「日本国憲法」を守ろうとする人たちがしばしば指摘することですが、憲法とは政治権力つまり政府に「国民」の権利や福利や安全を守る義務を負わせるものだというのが、おそらく一般的な観念でしょうし、もちろん私も基本的にはこの見解に賛成です。憲法や法律については門外漢でも、政治権力の均衡や配分の協定にほかならない19世紀以前のヨーロッパの憲法と、現在の各国憲法とを比べて読めば、「国民」の権利、もちろん義務もですが、人間としての権利を明確に定め、それの保障と擁護を国家に義務付けるのが現代憲法の主旨であることは、明確だと思います。――では、「国民」の側にとって憲法とは何なんだろうか? 憲法は「国民」にどんな義務を課しているのだろうか? いやでも「国民」とされてしまっている「私」は、憲法に対してどのような位置にあり、どのような義務があるのだろうか? この義務というのは、親が子の教育の義務を負うとか、納税の義務が国民に課せられているとかいう意味での、憲法が定めるそういう直接的な義務のことではありません。私たち自身は憲法そのものに対してどんな義務と責任を負っているのか、ということです。
麻生発言が述べたように、ヴァイマル憲法というすぐれた憲法のもとで、あのナチスの支配が生まれました。ヒトラーの権力掌握を許したヴァイマル憲法には、さきほどお話ししたような弱点が明らかにあったわけですね。しかし、ヴァイマル憲法の弱点は「憲法」というものの限界なのかもしれない、と私は思うのです。どんなにすぐれたものであれ、憲法には限界があるということです。ここから、憲法に対する私たちの側の責任と義務が生じると私は思います。月次(つきなみ)な言い方になりますが、私たちこそが憲法を生かす主体です。憲法を生かす主体がだめなときは、憲法は限界をさらけ出すしかないわけです。そして、すぐれた憲法があるとして、その憲法を生かすのは、政府権力ではなく、私たちです。それなのに、憲法が危機にさらされると、私たちは「憲法を守れ!」と叫んできた。大切なことは、憲法を守ることではなく、また国家権力に憲法を守れと要求することではなく、あるいはそうすることにも増して、大切なのは憲法を「生かす」ことではないのか。「この平和憲法を世界に広げよう!」というスローガンがありましたが、私たち自身によって生かされていない憲法をどうして世界に広げるのか、そんな無責任なことがどうしてできるのか。安倍という政治屋は、自分のところの原発破局さえ制御できないのに、外国に原発を売りつけようという文字通りの死の商人を実行しています。私たちもそれと同じことをするのか。自分が生かしていない憲法を世界に広める。これはこの憲法に対する二重の裏切りではないのか。
私は、このたびの麻生発言、麻生妄言は、憲法を生かすことができてこなかった私たちへの痛烈な批判でもあると思います。麻生という政治屋は単に歴史に無知であり、歴史意識が欠如しているために、あのような世間の物笑いになるような発言をしたに過ぎないのですが、その発言の内容は私たちが真剣に私たち自身を省みる手がかりを与えてくれる、と私は思います。憲法はなんのためにあるのかという問題を考えるうえでも、あのめちゃくちゃな発言は笑って済ましてしまってはならないのではないか。
麻生発言は、「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」と述べて、歴史的な無知を嘲笑されました。この発言が現実に即していないことは、ここでも先ほどお話ししたとおりです。歴史の現実を知る人びとは、麻生発言を笑うと同時に、ヴァイマル憲法が事実上骨抜きにされていったんだということを噛みしめて、そのような歴史を繰り返してはならないと考えるでしょう。あのドイツの轍を踏んではいけないと自らを戒めるでしょう。では、あのドイツの轍を踏んではいけない、というのが、私たちの歴史認識なのだろうか。あれは、ヴァイマル・ドイツが生み出した歴史の悲劇なのか。――だって、日本国憲法のもとで自民党および現在は公明党も含めて、ずっとやってきたじゃないですか。第9条があり、それに先立つ前文があるのに、どうして日本には世界第3位の戦力といわれる国防軍があるんですか。つまり自衛隊があるんですか。「自衛隊法」があるからですね。
ナチスの場合は、まだ、政府がこの憲法に反する法律をつくることができると定めた「全権委任法」という法律を、曲がりなりにも国会で議決してるでしょう。日本ではしてないじゃないですか。憲法に反する法律をつくってもいいなんて議決を一遍もしてないのに、自衛隊があり、さらには、憲法の規定では言論の自由があり、思想信条の自由があり、報道の自由があるのに、あらゆる基本的人権があるのに、「特定秘密保護法」という憲法に真っ向から反する法律を、今の憲法のもとで、私たちの政府が、私たちと言うのもけったくそ悪いですが、私たちの政府はつくろうとしてるじゃないですか。ナチス・ドイツをなぜ私たちは批判したり笑ったりすることができるんだろうか。つまり私たちの歴史認識はこれをナチス・ドイツに向けるだけではなくて、日本の歴史に、それももちろん侵略戦争の歴史、戦争責任、植民地支配の歴史に向けなければならないけれども、それだけではなく、私たちの近い過去である歴史、いま生きている私たち自身が生きてきた歴史にも向けなければならないというふうに、私は思います。これが、私たちの憲法に対する責任であり、私たち自身が憲法を生かす第一歩なのではないだろうか。

7. 「戦争放棄」「戦力不保持」について、あらためて考えてみる

最後に、法律の専門家がたくさんおられるところで、法律の素人が、きょう本当に一番言いたかったことを私の個人的な思いとして、これから後の討論のための問題提起の一つとして、話させていただきたいと思います。
今の安倍政権と呼ばれる政権は、よく私たちがいうように「戦争のできる国家」をつくろうとしているんではなくて、「戦争をする国家」をつくろうとしている。いよいよ戦争をする国家をつくろうとしている段階だと思います。その中で生きる私たちが考えたいことがあります。戦争のことです。それは、ヴァイマル憲法のような憲法があったのに、初めから、政権獲得の当初から、戦争を、しかも侵略戦争を予定した政権がヒトラー政権として出発した、あのドイツの過去をもう一度念頭に置きながら考えたいことですが、端的に言うと「戦争というのは何だろうか」ということです。
まず言いたいことは、少なくとも19世紀の後期以来、あらゆる戦争は「平和」のために行なわれてきました。平和を実現するために、平和を保障するために、戦争をすると。「国連平和維持軍」の戦争行為、侵略行為がまさにそれですけれども、あらゆる宣戦布告の文章、大日本帝国の文章を読み直しても、天皇が常に言っているのは、「東亜永遠の平和のためにやむを得ず戦争をする」というんですね。つまり、平和のために戦争をするというのは、アメリカを始めあらゆる世界の政府が言うことです。
じゃ、戦争によって平和が実現できるのかというと、少なくとも私はそんなものはできるはずがないと思ってますが、いろんな説があるでしょう。じゃ、そもそも戦争というのは何なんだろうというので、非常に古典的な定義を引っ張り出してきました。1832年に、プロイセンつまりドイツの前身、プロイセンの軍人だったカール・フォン・クラウゼヴィッツという軍人が書き遺した『戦争論』という本が出版されました。彼がその前の年、1831年に死んだ後、彼のお連れあいによって翌年32年に出版されました。日本でも森?外が最初に翻訳したのを始め、何度も翻訳がなされていて岩波文庫にも入っていますが、この本の中でクラウゼヴィッツは、「戦争とは政治的行為である」ということを確認したうえで、「戦争とは、別の手段をもってなされる政治の継続である」という有名な言葉を記しているんです。つまり、政治ではもうだめだから戦争に訴えよう、政治の手に負えないからもうここで腹をくくって戦争しよう、というんじゃないんです。政治と戦争に区分はない、政治の延長が戦争だ、逆でもいいです、戦争は政治の延長なんだ。
同じような観点を別の角度から、実は有名な無政府主義者であった大杉栄も1915年、第一次世界大戦の最中に書いています。ディキンソンというイギリスの政治学者の著書を引き合いに出して、「政府というものが政治を行なう限り戦争は避けることができない」という意味のことを、大杉栄はとても力説したことがあるんですね。「本来国家は、他国を侵害して無限に膨張すべき約束を持っている」、「国家と国家とは生まれながらの敵である。したがって戦争は永久の必要である」とディキンソンは書いていて、しかし国家というのは「一種の虚構的抽象」に過ぎないのであって、「実在するのはただ国民だけである」と言います。だから、「実在としての国民を念頭に置いて考えれば、侵略戦争を是認し必要とする理由もなくなり、従って当然、防衛戦争の必要も是認もなくなる」というのがディキンソンの結論でした。これに対して大杉栄は、国家は「虚構的抽象」ではなく階級支配の形式・制度であるということ、そして戦争は資本家階級に莫大な利益をもたらす、「そればかりでなく戦争は資本家制度の必然の結果である」と指摘します。そしてさらに、「国民を実在とする国家は、もはや国家ではないのだ。征服者と被征服者との区別を絶滅した社会には、もはや国家も政府も何の必要もないのだ」と言うのです。
つまり、先ほどのクラウゼヴィッツの説と、ディキンソンと対決したこの大杉栄の説とを手がかりにして考えるなら、政府、政治の当局者、国民から委託されてと言いたいでしょう、政治を実際に行なっている政治家が行なう任務である政治は、その政治の延長としてこれまでの政治とは違う手段による政治、つまり戦争を行なう。だから、戦争がこれまでと違う方法の政治である以上、「国家」があり国家による「政治」という形での国民支配があるかぎり、「政治の延長としての戦争」はなくならない、ということになります。これまでの歴史を振り返るかぎり、私もまたそう思うのです。「政治」として私たちが当然視しているものは、その継続としての「戦争」を、本質的に内包しているわけですね。そして国家は政治によって運営されているわけですから、誤解を招く危険を冒して敢えて言うなら、「戦争をしない国家」は政治の本質に反するのですね。

8. 「日本国憲法」が秘めている窮極の理念とは・・・

そうすると――ここから、法律の門外漢、素人の話です。いったい日本国憲法というのは何のためにあるんだろう。ここにおられる方のほとんどが、専門的な言葉は使えませんので簡単に言うと、先ほど申し上げたように、憲法というのは国民に義務を課したものではなくて、何よりも政治当局者、つまり政治権力を担当しているものを縛るために、彼らに義務づけるために、基本的人権守れよ、言論の自由を大切にしろよ、それから兵力を持つなよ、これ全部、政府に対して、つまり政治当局者に対して義務を負わせるものだと、一般には言われているんですね。じゃ、私たち国民には義務がないのかという先ほどの話とも関連するんですが、もしそうだとすれば、政治の延長が今までの政治とは別の方法で行なう政治であるところの戦争だとしたら、日本国憲法というのはおかしいじゃないですか。日本国憲法というのは、政治を縛るためにあるのに、その政治に向かって、政治の一方法である戦争をするなと言ったって、だって戦争というのは政治の一方法なんだから。アメリカを見ればわかるでしょう。支持率が低くなったら大統領は戦争するじゃないですか。日本だっていよいよやるじゃないですか。尖閣諸島、竹島、これ彼らは「戦争する」とは言ってないでしょう。今の日中間の、ないしは日韓間のこのどうにもならない政治というのを、まさに政治によって処理するために、何万人も動員して上陸作戦を自衛隊にやらせているわけです。だから政治ですよ、戦争というのは。
そうしたら、戦争を禁止する憲法というのは、これは論理的にあり得ないんです。政治を禁止するわけですから。日本国憲法というのはあり得ない憲法ですね。世界でただ一つの9条を広げましょうなんて、のんきなことではなくて、こんなものは人類のまだ世界共産主義共和国であれ、何共和国でも何でもいいですが、世界共和国ができている以前にこういう憲法があったら、これは政治はできないんです。そうじゃないですか。さて、これは私はここにいらっしゃる法律の先生方に後でこういう論理はいいんですかと伺いたいので言ってるわけです。そんな憲法を私たちは持ってしまっている。これはとてつもない責任ですね。
そうしたらどうするか。まず、政府をなくすしかない。政治をする政府。政治の専門家集団である実行者である政府をなくす。そのためには、特別の技術者である政治家は要らない。歴史認識とは無縁な政治屋は要らない。もちろん、政治的利用しかされない天皇や皇族、天皇制は要らない。当然、「直訴」の対象としての天皇も要らない。私たちを超越した力を持つ存在など、私たちには必要ないし、そのような存在を私たちは認めない。そのかわり、民主主義の実践者である私たちが、私たちの直接民主主義としてこの社会を運営していく義務が、私たちにはあるということです。言葉では、いままでしばしば直接民主主義を小さな関係の中でつくろう、と言われてきました。池田は外で何か偉そうな格好いい民主主義とか言ってるけど、うちのなかでは女性差別者じゃないかとか今まで男は皆言われてきたわけですね。特に労働組合の幹部などがそう言われてきたわけですが。だから、身近な関係の中で本当の対等と平等と自由と、そしてできれば友愛を実現しようという義務が、この憲法をもしも本当に生かそうとしたら、あらためて問われざるを得ない。どっちを生かすのか。政治のほうを生かすのか、戦争をしないほうを生かすのか、政治のほうを生かすのであれば政治家に委ねて戦争まで任せればいい。でも、私たちが本当に日本国憲法で一番大事なものの一つ、もっとたくさん大事なものがありますが、一つだと思っている戦争放棄と軍事力不保持ということを、兵力不保持ということを実現しようとしたら、私たちは政治をなくすしかないんですよね。専門家集団に委ねる政治を失くすしかない。そういうようなことを、きょう考えてまいりました。
ナチス・ドイツでやはり一番問題だったのは、ヴァイマル時代にも国防軍がしっかりとあったことでした。国防軍というのは、日本語に訳すと自衛隊です。防衛のための軍隊、ヴェーアマハトというのですが、ヴァイマル時代の国防軍は、まさに日本語に訳せば自衛隊なんですが、こういうものがありました。したがって、ヴァイマル憲法の最大の弱点、あるいは本質的な限界は、「大統領緊急令」条項である以前に、軍事力があったということですね。戦争のための軍隊があるのだから、政治家は次の政治、別の方法である政治までできたわけです。ですから、安心してヒトラーは自分の権力を好き勝手に信念を持って力強い指導者として行使しました。
そういう力強い指導者も、そのような政治的な信念も、まったく必要ない、私たち自身がどのような社会を作りたいのか、どんな社会で、どんな人間関係の中で生きたいのか――これが、いまあらためて私たちの出発点であり原点であると思います。現状を追認するのではなく、別の現実を求めることが、いまのこの現実を生きる私たちの歴史的責任だと、私は思います。では、私たちはどんな別の現実を求めるのか。もしも戦争放棄と兵力非保持、そういう社会を私たちは作りたいのだとしたら、それに合わせて私たちの関係をつくっていくということを、もう手遅れかもしれないけれども、少数者になっても、どっちみちいままで少数だったんで、少数者になってもお互いに元気づけ合いながら続けていければいいな、というふうに思っています。

おわりに――歴史はくりかえさない、それはなぜなのか?

いまの歴史を生きる私たちが、いまの現状を追認して生きるのではなく、どんな現実を求めながら生きるのかによって、歴史の現時点である私たちの現在を意識的に見つめることができるのだと、私は思います。そればかりではなく、どんな現実を私たちが求めるのかによって、過去の歴史についての認識、歴史認識も変わってくるのです。歴史認識は、いま生きる現実の中でどんな現実を求めるのかによって、変わってくるのです。たとえば、戦時という歴史的状況の中では「従軍慰安婦」は必要だった、と考えるのか、そういう制度を必要としない現実を、私たちが自分の生きたい現実として求めるのかで、歴史の追体験である歴史認識は変わってこざるを得ないでしょう。いま自分が生きている現実の中で何を求めて生きるのかが、現在の現実に対する私の姿勢を決するだけでなく、すでに起きてしまった過去に対する姿勢をも形成します。そして、もちろん過去の現実を直視することでなされる発見が、また逆に、私たちの現在に対する姿勢をいっそう深く豊かにするでしょう。私たちの現在の状況に対する危機意識は、過去についての歴史認識によって裏打ちされるのです。
たとえば、ヴァイマル共和制がナチズム支配を生んだ歴史的過去を、私たちの歴史認識がしっかりととらえるとき、私たちは現在の現実の中にそれを投影して追体験することができます。現在の危機を、私たちはヴァイマルの危機の再来として、歴史はくりかえすことの実例として、認識します。この認識が、この歴史認識が、私たちはどんな現実を求めるのかという切実な願いと結びついて、それが声を発するとき、「あの歴史がくりかえすようなことがあってはならない」という思いの表現として行動するとき、たとえその声や行動が私たちがこれまでも押し込められてきた少数者のものに過ぎないとしても、そのとき、そのまま座視すれば必ずくりかえす歴史は、別の道へと転じるのです。
すみません、30分以上はみ出したことになるかもしれません。すみませんでした。ご迷惑かけました。ありがとうございました。

質疑応答

藤原弁護士 (司会)

そうしましたら、質疑応答の時間を若干とらせていただきたいと思います。質問等、意見等がございます方は挙手をいただければと思います。

フロアA

すみません、ごめんなさい。最後におっしゃったことがちょっとよくわからなかったんで、もう一回お願いできますか。

池田浩士氏

最後って、一番最後ですか。

フロアA

はい、少数者になっても続けていくとお考えになること、ごめんなさい。

池田浩士氏

もうこれは自虐的、自虐史観だといって笑われるんですが、自虐的なんですが、考えてみれば、今の自民党、公明党の政治になって私たちがすごく苦しい中で、すごくいつも励まされながら、一緒に励ましながら、何かを考えて試行錯誤をやろうとしているそういう友人たちのことを考えてみたときに、安倍政権になって、それから「秘密保護法」がいよいよ現実味を帯びてくるときに、あらためて私たちというのは本当にもっと力があればいいのになとか、力がない小さな少数派にすぎないんだなということを、切実に感じるわけですけれども、もともとずっと多数派だった覚えがないんですね、全然。いつも少数派だったわけです。
多分、ヴァイマル時代にもナチスの時代にも、ナチスが政権をとり国民の何と99.7%、これオーストリアのことですが、それだけの人がオーストリア併合を、つまりこれは韓国併合と同じですが、オーストリア併合を支持してしまった国民投票でも、賛成しなかった0.3%の人がまだいたんですよね。いま日本人口が1億2千万人だとしたら、1%が120万人ですか、0.3%としたら36万人ぐらいですか、じゃないか、計算ができませんが、ちょっと……。1億2千万人の0.3%というのは。

フロアB

36万です。

池田浩士氏

ですよね、36万人もいるんですよね。この時代でもなお。つまり、少数派というのを多いと考えるか少ないと考えるかというのは、見方によって違いますね。私は実は何でそんなことを申し上げたかというと、本当に何で自分は七十幾つまで生きてしまったのだろうという思いがあるからです。今のような末路に至った戦後民主主義の責任世代だと思うからです。戦後民主主義の時代に、戦後民主主義だと言って浮かれていて、最初に民主主義について教えられたとき、先生は何と言ったか、小学校の先生、「民主主義というのは多数決で何でも決めることです」と言われた。
私も長いこと民主主義というのは多数決で決めることだ、だから反対でもまだ議論しているときには反対意見は言ってもいいけども、みんなで決めてしまったらそれに従う義務があるんだというふうに信じてきましたね、ずっと。でも、民主主義というのはそうじゃないですよね。少数意見を大事にすることが民主主義ですよね、そう私は思うわけです。そうすると、それなのに多数決で決めるということに乗っかって、それが民主主義だと思ってきた私たちが間違ったことをしてきたという思いがいますごくあります。だから、そういう意味でもうちょっと早く死んでおけば、こんなひどい現実に出会わなくて済んだなというそういう思いとともに、でもいいじゃん、どっちみち今までも0.3%だったんだと思うんですね。だから、これからも0.3%であることにしっかりとこだわってやっていきたいなと思っているという意味です。すみません。本当は0.3%より日本ではもっと多いと思いますよ。
この恐ろしいナチス時代でさえ、併合されたほうのオーストリア人はドイツにあこがれたんですからね。オーストリアも第一次大戦後は悲惨な状況になったので、ヒトラー・ドイツがどんどん国力を盛り上げていくありさまを見て、せめてドイツの一部になったら、世界の中でもオーストリアもドイツと同一のステータスになれると思って、わずか0.3%を除いた99.7%の人が併合に賛成したわけです。だから、今でもアベノミクスとかに浮かれている現実の中で、やっぱり自分たちの幸せというのをだれもこれを思うのは当たり前のことですから、でもその中で、それよりも大事なことがあるじゃないか、やっぱり戦争をしないことのほうが、政治家が信念のある強い政治家であるよりも大事だと思う人が、私は0.3%以上いると思うので、やっぱりこれからも元気にやっていきたいなと思った、そういう希望表明です。

藤原弁護士 (司会)

ありがとうございました。45分には終了して、5時までに館自体がしまってしまいますので、外に出ないといけませんので、これで閉会とさしていただきたいと思いますけれども、閉会の挨拶を七堂弁護士、いただけますでしょうか。

七堂弁護士

本来は、自由人権協会大阪・兵庫支部の代表であります菅弁護士が挨拶するべきところなんですが、ちょっと風邪で声が出ないということですので、前事務局長であります七堂からかわって簡単にご挨拶いたします。
本日は自由人権協会の大阪・兵庫支部と自由人権協会京都というところとの共催でございます。1年交代で京都と大阪・兵庫支部が交代でとりまして、ことしは大阪・兵庫支部の順番ということでここでやっておりますが、来年は京都ですので、またその際はよろしくお願いいたします。
そして、本日は池田浩士先生に大変貴重なお話をいただきまして、非常に勉強になったというか、知らなかったことがたくさんありまして、大変勉強になりました。私がおります事務所のボスの弁護士であります北本というのがいるんですが、彼によると池田浩士先生は反ファシズム統一戦線という時代においての非常に理論的な柱の、非常に偉い先生であるということを聞きまして、ちょっとそれも知らない世代なんですが、先生がおっしゃるようにいまの時代ここをもう一度振り返ることの意義は本当に大きいんじゃないかと思っております。その上で、これからの安部改憲、政権についてどう見ていくのかというところの、やっぱり大もとはこのあたりにあるんじゃないかというふうに思います。
本日はこういう地道なテーマでありますが、たくさんの市民の方に来ていただきまして大変ありがたく思っております。そして、後ろにもJCLUの人権新聞というのを置いてありますので、またお読みいただければと思いますとともにまたこの自由人権協会のほうに入会していただけると大変ありがたいということと、今後もこのような講演会を開いていきますのでその際またよろしくご参加のほうをお願いいたします。
本日はどうも皆さんありがとうございました。先生ありがとうございました。
では、本日は以上で終了したいと思います。皆さん、どうもありがとうございました。

資料

  1. 用語メモ

    1. アードルフ・ヒトラー (Adolf Hitler, 1889.4.20.〜1945.4.30.自死)

    2. ナチズム: Nationalsozialismus (ナツィオナールゾツィアリスムス) = 国民社会主義
      ナチ: Nazi (ナーツィ) = 国民社会主義者 ナチス: Nazis (ナーツィス) =ナチの複数形
      ナチ党: NSDAP (エヌエスデーアーペー) = Nationalsozialistische (ナツィオナールゾツィアリスティッシェ) Deutsche (ドイッチェ) Arbeiterpartei (アルバイターパルタイ)

    3. ヴァイマル共和国: Weimarer (ヴァイマラー) Republik (レプブリーク) (正式には: Deutsche Republik)

    4. ヴァイマル憲法: Weimarer (ヴァイマラー) Verfassung (フェアファッスング) (正式には: Die (ディ) Verfassung (フェアファッスング) des (デス) Deutschen (ドイッチェン) Reichs (ライヒス) = ドイツ国憲法)

  2. 資料

    1. 2013.7.21.参議院議員選挙 (投票率:52.61%) 自由民主党・公明党の得票率

      比例 小選挙区
      自民党 34.68% (議席数: 18/48) 42.74% (議席: 47/73)
      公明党 14.22% (議席数: 7/48) 5.13% (議席: 11/73)

    2. ヴァイマル時代 (1919.8.11.憲法施行〜1933.1.30.) 中期以降のドイツ国会選挙

      1924.12.7. 1928.5.20. 1930.9.14. 1932.7.31. 1932.11.6. 1933.3.5.
      (投票率) 78.8% 75.6% 82.0% 84.0% 80.6% 88.7%
      (議席総数) 493 491 577 608 584 647
      ナチ党 14 (3.0%) 12 (2.6%) 107 (18.3%) 230 (37.4%) 196 (33.1%) 288 (43.9%)
      社会民主党 131 (26.0%) 153 (29.8%) 143 (24.5%) 133 (21.6%) 121 (20.4%) 120 (18.3%)
      共産党 45 (8.9%) 54 (10.6%) 77 (13.1%) 89 (14.6%) 100 (16.9%) 81 (12.3%)

      * 1933年1月30日 ヒトラー内閣成立 (「第三帝国」の始まり)

    3. ヴァイマル時代後期の失業率 (Reinhard Kuhnl: Der deutsche Faschismus in Quellen und Dokumenten, 1978. による)

      1928 1929 1930 1931 1932
      完全失業 9.7% 14.6% 22.7% 34.7% 44.4%
      短期労働 5.7% 7.5% 13.8% 19.7% 22.6%
      完全就業 84.6% 77.9% 63.5% 45.6% 33.0%

    4. 完全失業率の推移 (政府統計)

      1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 (1939.9.1.戦争開始)
      29.9% 25.9% 13.5% 10.3% 7.4% 4.1% 1.9%

    5. 「第三帝国」における「国民投票」

      1. 1933.11.12. 国際連盟脱退 (33.10.14.) 支持: 95.1%
      2. 1934.8.19. 「ドイツ国家元首法」(34.8.1.) 支持: 88.9% (投票率: 96%)
      3. 1936.3.29. ラインラント進攻 (36.3.7.) 支持: 99.8% (投票率: 99%)
      4. 1938.4.10. オーストリア併合(38.3.13.) 支持: ドイツ 99.02%/ オーストリア 99.73% (投票率: 99.6%)

    6. ヴァイマル憲法第109条 (平等の原則、同等の権利、称号、勲章)

      「すべてのドイツ人は法の前に平等である。/男女は原則的に同一の国民的権利および義務を有する。/出自もしくは地位による公法上の特権もしくは不利益は廃止されねばならない。貴族の呼称は、氏名の一部としてのみ認められるが、今後は授与されてはならない。/称号は、それが官職もしくは職業を表わす場合にのみ授与することが許される。大学における位階はこれに抵触しない。/勲章および栄誉章は国家によって授与されてはならない。/いかなるドイツ人も外国政府から称号もしくは勲章を受けてはならない。」

    7. 大統領緊急令条項: ヴァイマル憲法第48条(安寧秩序の破壊にさいしての処置)

      条文の概略: ドイツ国において公共の安寧秩序が著しく妨げられもしくは破壊されたときには、大統領は武力を行使してそれに対応することができる。そのさい必要なら、基本的人権を保障する憲法の諸条項を一部または全部、停止することができる。

    8. 「全権委任法」(「民族と帝国の苦難を除去するための法律」)――1933.3.23. 採決、翌日施行

      その概要:

      1. 「法律の制定」「国家予算の編成および執行」「外国との条約締結」は政府によって行なわれ、国会での審議および議決を要しない。

      2. 国会および州代表委員会の構成そのものを対象としないかぎり、政府によって決定される法律は憲法から逸脱することができる。

    9. カール・フォン・クラウゼヴィッツ『戦争論』(1832) より

      戦争は政治的行為であるばかりでなく、外交であり、彼我双方の政治交渉の延長であり、別の手段をもってなされる政治の継続である。

    10. 第三帝国」時代に刊行された二つの「国語辞典」で「国民社会主義」(Nationalsozialismus) という「ドイツ語」を引いてみると・・・

      1. Der Sprach-Brockhaus (ブロックハウス日常語辞典) 1935年刊

        「Adolf Hitler によって創設されかつ指導されている運動で、民族主義的社会主義の基盤の上でドイツ的人間の革新をめざしている。」

      2. Richard Pekrun: Das Deutsche Wort (ペクルン編・ドイツ語辞典) 1934年刊

        「ドイツ民衆の解放に導く世界観。血と土、忠誠と戦友愛という根本概念に依拠している。」