逢魔の刻

作:あらいあきら          

 夕霧の森には、魔が棲むという。

 シェラは、目深にかぶったフードをしっとりと濡らすほどの濃い霧の中に、ひとりたたずんでいた。
 ただ前を見据えて。
 きゅっと結ばれた唇は、白い。

 逢魔が刻。
 この時間のことを、そう名付けたのは、いったい誰なのか。
 日はすでに落ち、うすい紫の闇に、伸ばした自分の指先すらも見えない。こんな霧の闇の中には、なにか得体の知れぬものが潜む。それを恐れて、日が暮れたあとの森に近づくものは、滅多にいない。
 そんな場所に、若い女が一人でいるなど、普通では考えられないことだった。
 しかし、シェラには、ここに来なければならない理由が、あったのだ。そのために、彼女は全てを捨てたのだから。
 女の身でありながら、厳しい魔法の世界に身を置いた。少女でありながら、子供時代も、娘らしく過ごす時間も捨てた。
 全てはこの時のために。

 シェラは意を決して、マントを跳ね上げた。
 白くてたおやかな腕が剥き出しになる。腕を伸ばし、見えない指先に、念を込める。指先が次第に熱を帯び、かすかな痺れを感じはじめた時、シェラの指先に、あるはずのない光がともった。
 シェラは光の玉を引き寄せて、掌に載せると、呪文の吐息を吐きかけて、空高く放り投げた。
「霧に棲む魔よ、いでよ!」
 シェラの凛とした声が、その後を追う。
 刹那。
 中空で、光がはじけた。そのあまりの強さに、シェラは思わず目を閉じた。
 一陣の風が、刃のような鋭さで、シェラに斬りつけた。
 風の中で必死に目を開けたシェラの前に、なにかが、いた。
 ――娘よ、我を呼んだか。
 光は既に無く、霧の闇の中に、いっそう暗いものが蠢いている。それは、声とも言えない声で、シェラに語りかけてきた。
 シェラは、目を凝らした。良く見れば見ようとするほど、その姿は、ぼやけて輪郭を失った。しかたなく視線を外すと、不思議なことに、それはっきりと、人の姿を持っているように見えた。
 恐怖は、なかった。
「霧に棲む魔よ。わたしはおまえに喰らわれるために来た」
 暗いものは、嘲笑うように蠢いた。
 ――何故喰われたい、娘よ。
   魔に喰らわれたものは、魔となって生きねばならぬ。
   魔になりたいか、娘よ。
 シェラは頷いて、マントを脱ぎ捨てた。金色の髪が肩先にこぼれ、白いすんなりとした肢体が現れた。
「わたしは、美味いはずだ、魔よ。この通り若くて美しい。おまえを呼べるほどの魔力だってある。贄として、ふさわしかろう」
 ――おまえは、喰らえぬ。
「なぜ――」
 絶句したシェラを嘲笑う声が続く。
 ――おまえの中に、熱くたぎるものがみえるぞ。
   憎しみか。
   魔となって、憎しみを遂げたいか。
   それもよかろう。
   だが、その憎しみを呼ぶものはなんだ。
   なぜ憎むのだ。
 シェラの中に、熱いものが怒涛のように駆け巡る。
 それは、彼女から愛するもの全てを奪い去ったものへの、煮えたぎる溶岩のような憎しみ。
 それと同時に突き上がって来る、狂おしいほどの、愛しい思いがある。
 それは、今はもういない、かけがえのない人たちへの思い。
 ――わかったろう。
   おまえの中に、その熱いものある限り、
   我はおまえを喰らえぬよ。
 濃い闇は、嘲笑を後に残して、霧に溶けていった。
 闇が散ったあと、そこには、霧とシェラと、静寂だけが残された。

 なにもかも、全て捨て去ったと思っていた。ただ憎しみのみで、ここまで生きてきたと。
 彼女の家族を奪ったものに復讐する。人も、天も、裁けぬものならば、自ら魔となって裁きを下そうと。ただそれだけのために、生きてきたというのに。
 憎しみを遂げるためには、愛した記憶も捨て去らねばならぬというのか。それは即ち、この憎しみも、消し去ることだというのに。

 シェラは、霧の中に、ただ立ち尽くしていた。

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