白砂の夜に

作:斑鴉          

 白い砂漠を見下ろしながら、翼を震わせ夜空を進む。冷気は体を蝕まず、ぎらぎらと照る太陽は大地の底で寝床に伏して、首を伸ばせば星にも口が届く気がした。翼を一打ちするごとに、白砂の下で生き物たちが逃げまどうのを鱗が感じた。爽快だった。
 いかなる自然も動物も決して彼をわずらわせない。彼は空飛ぶ竜だった。
 飛び続けるうち、足元が寂しくなった。彼は地面のまぎわを滑空したのち、翼をたたんで白い砂漠に降り立った。
 と、その瞬間に彼は大きくよろめいた。足が砂面を突き抜けたのだ。何度も四肢をばたつかせ、大きく羽ばたき宙に戻ると、彼は砂漠を凝視した。顔がほてった。
 なんと愚かな失念か。彼の眼下にあったのは、砂漠ではなく雲だったのだ。風に流され波紋を作り、山と積み上がっては崩れゆくのは、砂ではなくて雲だったのだ。竜の威厳をつくろうように一声吠えると、彼は頭を巡らせて雲の砂漠に身を投げ入れた。
 分厚い雲を抜けた先には暗い緑が広がっていた。風に吹かれて波打つさまは湖か海と見えたが、近くに寄ると森だと知れた。通り過ぎざま気まぐれに何本かの木を食いちぎったが、じょみじょみとした理解できない歯応えがして吐き捨てた。
 森を越えると深く濃い青の世界が揺らめいていた。海である。星のきらめく海面に───雲はもう晴れていた───翼を広げ、翡翠の色の彼の姿が浮いていた。彼は迷わず飛び込んで、辛くて苦い海水を喉に流した。もしもっと息が続いて、どちらに行けば地上に出るか忘れる予感に襲われなければ、いつまでも飲み続けたろう。
 水から上がると、海の底よりまだ深い夜空が彼を待っていた。磁力か魅力か重力か、理解しがたい力が視線を引き寄せた。中でもひときわ明るく輝く黄色い星に興味を引かれた。「満ち足りている」彼は思った。
 それでも何かが足りないと、頭のどこかで声がした。とても大きい何かが足りない。お前に息をし、翼をもって空を駆け、池を飲み干し獲物を食べる理由をくれる何かが足りない。よもや忘れていないだろうなと声が囁き責めたてる。内なる声にさいなまれ、彼は夜空に向かって吠えた。
 すると遠くで声がした。竜の啼く声。寂しさに潰されて、切なさに身を焼かれている声である。
 こだまではない。
 これは自分を呼ぶ声である。
 彼は叫んだ。なんと愚かな失念か。自分の無事を、自分がここにいることを、声の限りに叫んで伝えた。彼女に会いたい。瞬き一つの間も惜しかった。どうして森や海水などに、自分はうつつを抜かしていたのか。苦い思いが胸を焦がした。
 背後で翼の音が聞こえた。振り向くと、黄玉色の鱗の竜が近づいてくる。絶えて忘れたことはなかった。彼女こそ自分の伴侶となる竜である。
 だが、彼は彼女に近寄れなかった。恋人の孤独にやつれた顔を見て、あまりに長く彼女の愛に応えなかった我が身の不実の罪悪感が、彼の体を縫い付けていた。
 彼女はそんな彼に抱きつき、気にしないでと首筋に舌を這わせた。「でも、埋め合わせはしてもらうわよ」
 ふたりは首を大きく伸ばし、相手の首に絡ませた。もっとも皮の薄いところで互いの体と圧力をむさぼりあった。苦しくなって首をほどいて、瞳を見合せ微笑んだあと、ふたりはもっと情熱的に首と首とをすりよせあった。
 しかし長らく満たされなかった心は満足しきれずに、首を巻きつけたまま上半身を大きく反らして、互いの胸を押しつけた。前足で相手を抱きしめ、一つの体に溶け合うように体同士をこすりあわせた。
 胸を合わせて後ろの足で立ったまま、恋人たちは森を横切り海に潜った。それでも抱き合う相手の他に感じるものは彼にはなかった。耳に感じる彼女の吐息がワルツと聞こえた。
 抱擁しながら舞い上がり、再び雲を突き抜けたとき、眩しいものが瞳を刺した。この甘やかなひとときに水を差すのはなんであろうと、彼は苛立ち目を向けた。水平線のさらに向こうに、朝日が顔を覗かせていた。

   夢から覚めて、彼は自分がドラゴンでなく、砂漠に生きるただの小さなトカゲと知った。ぎらぎら昇る太陽を見て、砂漠の外の世界を忘れた。
 かかる奇妙な夢を見たのは、渇いて死んだ人間の頭の中身を食べたせいだと彼は思った。きっと男は砂漠を飛び越え、恋人と抱き合いたいと思って死んだ。考えるうち、そもそも彼のものではなかった知性が零れて流れていった。
 夜の冷気が蒸発し、寒さ凌ぎの砂から抜け出す。そうするうちに雲とは何か、夢とは何かを彼は忘れた。餌を求めて黄砂の上をさまよううちに、人とは何か、竜とは何か、愛とは何であったか彼は忘れた。
 黄金の髪の女性の面影が頭の中をよぎったが、それがいったい何なのか、トカゲはついに判らなかった。

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