真昼の夢

作:水月煌子          

 太陽は南の空高くからやわらかな光をふりそそいでいる。典型的な春の昼下がりだった。
 ただし、なまあたたかい南風がこれほどまでに吹き荒れてさえいなければ。
 はあー。公園の真ん中でしゃがみ込んだまま、僕は深いため息をついた。
 今朝のニュースで春一番と告げられた突風は、僕のコンタクトレンズをどこかに吹き飛ばしてくれていた。
 こんなところで外すんじゃなかった。
 いや、そもそもこんな日にわざわざ公園なんか通るべきではなかったのだ。
 風の強い日は舗装された道を歩いていてさえ目にゴミが入りやすい。まして地面がむき出しの公園ならなおさらだ。そのことにもっと早く気づくべきだった。
 近道をしようと足を踏み入れた公園で右目に走った痛みに思わずコンタクトを出したのだが、指先にのせたレンズは強風にさらわれあっけなくどこかに消えてしまった。
 約束の時間が迫っている。理由もなく物質が消滅するはずがない以上、この周囲何メートルかのうちに必ずレンズは落ちているわけで、未練はたっぷりあるのだがいつまでもこうしているわけにはいかなかった。
「さがしものはこれですか?」
 諦めて立ちあがろうとしたとき、愛くるしい声とともに目の前に白い小さな掌が差しだされた。その上には薄ピンク色のコンタクトレンズがのっている。
 視線を上げるとふわふわとした縮れ毛の妖精のような少女が微笑んでいた。白いワンピースの裾を引きずるのもかまわずに、僕と同じように地べた近くにしゃがみ込んでいる。
「ありがとう」
 礼を言ってレンズを受け取ると、僕は園内のトイレに走った。赤くなってしまった目を水で洗って、目薬をさす。左目のレンズも出してめがねにかえた。
 急がなくては、撮影に遅れてしまう。
 トイレから出ると先ほどの少女が立っていた。軽く頭を下げて前を通り過ぎようろするが、彼女は僕のあとをついてくる。
 何だろう? 気になる。
 気になるのだが時間がない。少女のことは強引に頭の中から追い出して、とにかくスタジオに急いだ。
「私、ササラって言います」
 かなり本気で走る僕のあとを息を弾ませる様子もなく追いかけながら彼女はそう言った。

 写真を撮られるのは嫌いじゃない。
あたりまえだ。そうでなければモデルなんてやってない。まして今日のカメラマンは宮城勇先生で、僕はこの撮影を一週間も前から楽しみにしていた。
 それなのに集中できない。
 原因はスタッフに交ざってこちらを見ているササラだった。驚いたことに彼女は誰にも咎められることなく当然のようにスタジオに入り込んでいる。
「リョウスケ君、視線こっちでお願いします」
 アシスタントの村瀬さんが懇願するように言った。
 現場の雰囲気が悪くなっていた。宮城先生の機嫌も悪い。みんな僕のせいだ。
 最低……。指示された方に目線を送りながら、僕は自己嫌悪に陥る。
 その時、ふわりと柔らかいものが僕の肩に回された。ササラの腕だ。
 えっ?
 困惑しているのは僕一人で、宮城先生もスタッフも平然とそれぞれの仕事をしている。
 シチュエーションに変更があったのかな?
 素人を撮影に加えたことに僕は疑問を感じたが、その後の撮影はきわめて順調に進んだ。
 ササラは誰にも指示されることなく、ぴたりとふさわしい位置に立ち絶妙な表情をつくる。重力を感じさせない仕草は、それだけでもう芸術的とさえいえた。
 僕は大いに彼女に刺激されていつも以上に良い演技ができたと思う。
「リョウスケ君すごくいいよ」
 宮城先生はすっかり上機嫌だった。
 ササラと視線が絡む。うっとりと甘やかな感情が身体じゅうに広がる。感覚が無限に広がり、一瞬が永遠とも思える錯覚。僕の意識は完全に浮遊していた。
「はい、おつかれさまです」
 撮影の終了を告げる村瀬さんの声に我にかえる。
「ササラ、君って……」
「リョウスケ君、こっち」
 マネージャーの呼ぶ声がして僕は軽く舌打ちした。
「ちょっと待ってて」
 結局僕が解放されたのは小一時間ほどもたってからだった。
 後片づけを終えてスタッフも帰ってしまったスタジオにササラの姿はない。慌てて辺りを探したが彼女はどこにもいなかった。
「帰っちゃったのかな……」
 僕はがっくりとその場に座り込んだ。

 数日後、できあがったグラビアにササラは写っていなかった。それどころか、誰もがそんな少女はいなかったという。
 彼女は春風が見せた妖精だったのだろうか。

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