マジカル・ムーン・ナイト

作:水月煌子          

 見渡す限りの砂原を、月明かりが蒼白く照らし出す。どこまでも続く砂の上を青年が一人歩いていた。
 砂混じりの風が、彼の外套の裾をはためかせる。
 彼はぶるりと身震いした。
 砂漠の夜は冷える。
ふと足を止め、空を見上げた青年は、今宵の月がマジカル・ムーンだったと思い出す。
 大きな満月の表面にワルツを踊る死者たちの影が映る。その輪の中に愛しい少女の姿がないことを確認して、彼は安堵の吐息をついた。
 大丈夫、彼女はまだ生きている。
凍える足を踏みだして彼は再び歩きはじめた。足の裏に、さっくさっくと乾いた感触が伝わる。
 彼はデザート・ドラゴンを探していた。この砂漠にすむといわれる竜の鱗だけが、彼女の病を癒すことができる。
 何よりも大切な少女の命をこの世につなぎ止めるために、彼は伝説を頼りに広大な砂原を歩いていた。
 見渡す限りの白い砂の波。そこに生き物の姿はない。だが、白く輝く砂の下では、砂漠に生きる大小の動物たちが活発に動き回っていた。さわさわとしたその気配に、充分に注意を払いながら青年は歩を進める。
 不意にそれらの気配が消えた。嫌な予感に神経を澄ますと、遠くで風の唸る微かな音が聞こえる。目を凝らせば、濃紺の空から大地に一本の糸が垂れている。その糸は太さを増しながら急速にこちらに接近していた。
 砂嵐だ。
 周囲に身を隠すようなものはない。彼はすぐさま足下を掘り、砂の中に潜り込んだ。
 暴力的な風の音が次第に近づいてくる。あ、と思ったときにはもう青年の身体は中に浮いていた。無数の砂とすさまじいばかりの風圧が上下左右に彼を振り回す。
 ダメだ。僕は、こんなところで……。
強く目を瞑り、拳をぎゅっと握りしめたまま、彼は意識を手放した。

 頬に落ちた冷たい感触に、彼は意識を取り戻した。
 ここはどこだろう?
 程良く水分を含んだ、ひんやりとした空気が肌に心地いい。
 たしか僕は砂漠に……そう、砂嵐にあって……。
 ゆっくりと目を開けると、夜空のかわりに岩の壁。背中には砂よりもはるかに硬いごつごつとした感触があたっている。天井の岩盤からは、ぽつぽつと透明な滴が落ちていた。
起きあがろうとして、背中に激痛が走る。
『気がついたか』
 小さくうめいた彼の頭の中に低い声が響く。
「だ、誰だっ」
 動きの不自由な首をめぐらすが周囲に人の気配はない。
『我はこの洞の主、人の子がデザート・ドラゴンと呼ぶものなり』
 求めていたものの名に青年は勢いよく身を起こした。そのとたん、身体を襲った激痛にうめき声とともに背後に倒れ込む。硬い岩に頭と背中をしたたかにぶつけて再びうめく。
「なあ、ドラゴン。僕にその鱗を一枚わけてくれないか。僕の大切な、大切な人が苦しんでいるんだ」
『人の子の若者よ。我が鱗の見返りに、そなたは我に何を与えるのか?』
 青年は言葉に詰まった。
 永遠ともいえる寿命と天をも動かす力を持つ竜に、人が何を与えられるのだろうか。
「僕の命を」
 覚悟を決めて青年が言った。他に差し出せるものなどなにもない。
『それほどに少女が大事か?』
「もちろんだ!」
 全てを承知しているらしい竜の問いに、彼は間髪入れずに叫んだ。
『よかろう』
 重々しい竜の言葉とともに、彼は意識が遠退くのを感じた。

 暑い……。
 じりじりと炙られるような暑さに青年は目を覚ました。
 辺りを見回せば一面の砂。東の空を上り始めたばかりの太陽が、灼熱の光を放っている。そこは、昨晩、彼が砂嵐にあった砂漠だった。
「夢、だったのか」
 のろのろと身体を起こす。どこにも痛みはない。彼は右手の中に何か固いものを握っていることに気づいた。見れば茶色い動物の革のようなもの。
『行くがよい若者よ。そなたの勇気と愛に免じて、願いを叶えよう』
 青年の脳裏に低く重い声が響いた。
 夢じゃなかった。
 すっくりと立ちあがると彼は故郷を目指して歩きだした。

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