「おにいちゃあん……」
声がきこえる。
熱を帯びた空気の、まとわりつくように不快な風の、その向こうから……。
「……おにいちゃあん……」
目を開けると、白すぎる陽光が瞳を射た。
恐ろしいほど蒼く高い空。砂漠特有の、澄みきった色。
(夢、か……)
彼は砂の中に倒れていた。燃えるような光に全身を晒して、動けない。
死ぬんだろうかと思う。
もう、恐れる力も残ってはいない。
力無く、その瞳を閉じた。
(ユーリ……)
熱い。
日差しが熱くて、まとわりつく風が息苦しい。動けない。まるで……あの時のようだ。
「えー、だってえ」
少女は可愛らしく頬を膨らませる。
「やっと10歳になったんだよ? 初めて、伯爵様のお夜会へ行けるの。ワルツ踊るんだよ、ほら、いっぱい練習したもの」
くるくるっとまわってみせる。淡い紅色のドレスが風をはらんでふわりと舞った。
その様子が愛らしくて、彼は思わず微笑んでいた。
「分かったよ。……きっと僕の思い過ごしだ、行っておいで」
彼女が毎日毎日、飽きもせずワルツの練習ばかりしていたことは、彼もよく知っている。
だから、送り出した。大切な妹を。
胸中に飛来する不吉な予感を、魔道士としての勘を、ただの思い過ごしだと自らに言い聞かせながら……。
けれど。予感は当たってしまった。
その夜、ドラゴンが街を襲ったのだ。そして伯爵家が火事になった。
「ユーリ!!」
駆けつけたときには。
もう……間に合わなかった。
炎が屋敷を覆い尽くしていた。もう、為す術など、なにも……
それでも炎の間際まで駆け寄った。赤い輝きの中に目を凝らした。
「ユーリ、ユーリっ!!」
風にさらわれて、煽られる炎。熱くて熱くて、息が出来なくて。今この中に妹が……
『おにいちゃあん……』
ふいに。
どこか遠くから、かすかな声が聞こえた。
空耳か、と思う。それでも必死に炎の奥を見つめた。
灼熱の光に影が揺らめく。
「あ……」
ゆらめく。それは……焼けただれ、死にかけた少女の幻。
『……おにいちゃあん……』
「―――あ、うわあああああっ!」
その声は確かに、彼を呼んでいた。
「オレが……」
焼けるような喉から、掠れた呟きが洩れる。
「オレがあの時……おまえをちゃんと止めていたら……」
目のふちから一粒の雫が流れて、耳の横に落ちた。
気づかないまま、彼は空を見つめている。
「オレが……何もできなかったから、おまえは……」
あの時。助けることができなかった。その力が、あの頃の自分にはなかった。
無意識に起こした魔法で、彼女の姿を見、声を聞くことが精一杯で。
だからあの日から、強くなることだけを、ただそれだけを考えて生きてきた。一級魔道士の資格すら得て。それなのに。
「仇を討つことも……出来ない……」
ドラゴンを倒すためにこの砂漠へ来た。なのに結局、見つけることさえできなかった。
「ごめんなユーリ……何もできなくて……呼んで、くれたのにな……ごめんな……」
頭が朦朧として、白い太陽の光が視界いっぱいに広がった。
死ぬんだろうと思った。
まだ何もできていないのに……けれどもう、どうすることもできない。
「……ごめん……ごめんな、ユーリ……」
うわごとのように、ただつぶやいていた。
声の途絶えた砂漠に、やがて月が昇る。
「ごめんなさい……」
金色の光のなか、薄紅色のドレスをまとった少女が佇んでいた。
その姿は白く、すきとおっている。
「ごめんなさいお兄ちゃん。私が、お兄ちゃんを苦しめちゃったんだね……」
少女はそっと、砂に埋もれかけた少年の傍に膝をつく。
その頬を静かに、涙が伝う。
「もう、いいから……。一緒に行こう?」
呼びかけに、ゆっくりと少年の目が開く。
金色の月光が、静かに降りそそぐ。
抜け殻となった少年の体は、今は砂に埋もれて、その光を受けることもない。
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