マニュアル

作:あおいさくら          

「パソコンの矢印、動かないんですけど」
 電話の向こうの声は幼かった。近頃のお子様は、パソコンの使い方を親に聞く前に、サポートセンターに電話をかけてくる。キリコはため息を押し殺し、優しく言った。
「マウス、きちんと繋がってますか?
後ろに差し込み口がありますから、確認してください」
「……あ、なーんだ、きちんとはまってないだけじゃーん」
 先程のやや緊張した声音はどこへやら、やたら無邪気にそう告げて、電話はぷつりと切れた。今度こそ大きくため息を付き、キリコは外線ボタンを押した。
 ちらりとディスプレイの時計を見れば、14時50分。キリコの勤務時間は15時までだったが、何だかやる気をなくして、ついでに不在ボタンも押す。
「あ、夕霧ちゃんずるいんだ」
背後から声をかけられ、キリコはぎくりとした。声の主は、Jテックサポートセンターのマネージャーだ。30代前半のキャリア型の女性だったが、センターのスタッフはバイト学生が殆どなせいか、奇妙にノリが若い。それがいかにも、という感じで、キリコをはじめバイト組は敬遠していた。ちなみに、キリコに夕霧ちゃん、というあだ名を付けたのも、このマネージャーだ。「夜学の国文学科に通うコウノキリコ」の履歴書を見たとき、同じく国文科卒で源氏物語を専門にしていたというマネージャー女史は、「じゃ、夕霧ちゃんだ」と言いのけた。ちなみにキリコの専門は源氏とは何の縁もない歌舞伎である。
「ま、夕霧ちゃんはいつも頑張ってくれてるから、今日は大目に見てあげる。それはそうと、はい、これ新しいマニュアル。前とちょっと変わっているから、目を通しておいてね」
 マネージャーはキリコに分厚いマニュアルを手渡した。電話応対の基本から最近の問い合わせの傾向、クレーマー対策まで、懇切丁寧に教えてくれるマニュアルである。この間改訂したばかりじゃなかったっけ、と思いつつ、キリコはその分厚いマニュアルをバッグに押し込み席を立った。

 大学を終え、下宿に戻るのは、いつも11時前後になる。翌日も勤務が待っているから、キリコの自由時間は決して長くない。
 シャワーを浴び、帰り道のコンビニで買った緑茶のペットボトルを開けながら、キリコは昼間もらったマニュアルを引っ張り出した。センターに勤めて、早3年。キリコはもう古株である。それなりの責任もあるし、吹けば飛んじゃうように小さくても、仕事に対するプライドもある。全く目を通さないで明日出勤するわけには行かない。
 パラパラとめくっていくが、別に大きな変更点は見あたらないようだった。なんでわざわざ作り替えたんだろう、読み返すのが面倒なのに……、と思いつつ、マニュアルを更に繰る。
 ――と。
 キリコの手が止まった。瞳が信じがたい文字を捉えて、動かない。そこには、こう記してあった。
『補足:新しい魔法コマンドについて』
 頭の中を?マークでいっぱいにしながら、キリコは中身を読み進めていった。新機種より標準装備になった、魔法ソフトについてである。Jテックオリジナルの、パソコンを通じて行う時間管理魔法ソフトだという。だが、電話応対用のマニュアルには、詳しいことは書いてない。ただ、この手の問い合わせがあった場合は、担当者に速やかに回すこと、とあるだけだ。そこには担当部署の内線番号もあった。5284。本社の開発部。
 キリコは表紙をもう一度見た。改訂されても変わらない、見覚えのある表紙。裏も。サポートセンターの判子が少し曲がって押されている。それから、もう一度、中身。一章・電話応対の基本、二章・良くある問い合わせ、3章・お客様とトラブルにならないために……。そして、やっぱり、最後には、新しい魔法コマンドについて。
 Jテックは、魔法なんて非現実なものを開発して、パソコンに標準装備しちゃうような、とんでもない会社だっただろうか。キリコは疑心暗鬼で自分のパソコンを立ち上げ、JテックのHPへ繋いだ。一番目立つところにある、新機種の広告。「もっと詳しく!」という点滅文字をクリックする。

「馬鹿らしい」
 5分後、キリコは、マニュアルをベッドの上に放り投げた。
「素直に、タイムスケジュラーウィザードって言ってよね。期待しちゃったじゃないのよ」
 卒論は出雲の阿国に直撃インタビュー、と僅かながらに考えてしまったキリコは、残りの緑茶を飲み干した。

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