柱時計の音が、夕霧に絡みつくように鳴り響く。扉を開けた瞬間の出来事に、硬直したコーディとマルト二人の少年は、ゆっくりと顔を見合わせた。茶色いくせっ毛が霧に濡れてぺしゃんこになったマルトは、お隣さん家の子犬みたいだとコーディは思った。けれど、彼も雨に降られたように髪が湿っている。
コーディはマルトを促した。
「入ろうマルト。確かにここなんだ」
「でも……」
その先に続く言葉をマルトは飲み込んだ。ここは町でも有名なお化け屋敷だ。いろんな人が夜中にピアノの音を聞いたとか、幽霊を見たとか言い、何年も買い手がつかないまま放置されているのだ。こんな所へあの猫が逃げ込むだなんて思いもしなかった。
「お前、あの指輪持って帰らなきゃいけないんだろ?」
「うん」
母さんが鏡台のうえに置き去りにした指輪。三軒向こうのコロッケ屋からお嫁にきた母さんがなぜそんなものを持っているかは分からないが、銀の指輪についてる小さな宝石は、稀少な月皓石らしい。
つい綺麗で持ち出してしまったが、母さんが帰るまでに戻しておかなければならない。
決心を固めたマルトは、コーディと手をつないで恐る恐る屋敷の中へ足を踏み入れた。
中は夜みたいに暗い。二人が開けた扉から霧が忍び込み、埃で白くなった年代物の絨毯から、クモの巣がかかった玄関ホールのシャンデリアへ手を伸ばしていく。奥には二階へ続く階段。その脇に置かれた深い飴色の柱時計を見上げていた黒猫が、ついと走り出して扉の開いた左手の部屋へ姿を消した。
「あの猫だ!」
二人は急いで後を追った。
黒猫は、部屋の中央に置き去りにされたピアノの上に立っていた。それだけは何故か埃が払われ、椅子に一人の女性が座っていた。長い淡い色の髪は湿度とは無縁な軽やかな感じで、身につけた藍色の外套は旅慣れた人のようだった。
「……ひっ」
お化けかと思って息を飲んだマルトに気づいた彼女は、二人を振り向き人差し指を唇にあてて「静かにしててね?」と微笑んだ。思わず手を強く握り返してしまったコーディも、マルトと一緒に何度もうなづく。
そして時間通り十七回目の鐘が鳴り終わった。辺りは物音一つ立たない静寂の中へ還る。
おもむろに黒猫がその場に座り、銀の瞳を閉じた。その瞬間、黒猫の周囲に白い光が硝子の破片のように弾けて、煌めきが消えることなく部屋中に広がっていく。
十分に光をあびた彼女が動き出す。ゆるやかに指が鍵盤の上をすべり、音が紡がれる。
マルトはその音色に目を見開いた。去年もっと大勢で肝試しに来たときに鳴らしてみた音は、狂ってどの音階なのかもわからないものだった。それに答えるように、コーディが呟いた。
「本物の魔法だ。みろよ宝石の力が引き出されて、光ってる……」
猫がくわえた宝石は、銀の月よりもさらに白い光の輪に包まれ、欠片の光で満たされた部屋の隅に、幼い少女が忽然と姿を現した。二人は驚いて叫びそうになったが、曲を止めた彼女は予想済みなのか、立ち上がって少女に語りかけた。
「昨日、あなたがピアノを弾こうとしているのを見たわ。このピアノは壊れてるから、綺麗な音が出なかったでしょう。けど魔法がかかっている今なら大丈夫。あなたが知っている曲を、弾いてみせてほしいの」
彼女の言葉をじっと聞いていた少女は、黙ってピアノの前に座ると、心なし嬉しそうな表情で弾き始めた。
空から落ちる雨滴。受け取る木々の掌。
水に満ちた大地を照らす三日月をマルトが想像しながら聞き入っていると、ふいに音が止み、目を上げると少女も消えていた。
魔法の欠片も無くなった部屋でぼんやりと立ちつくす少年二人の横を黒猫が走り抜け、指輪を持った彼女が目の前に立っていた。
「あの子勝手に借りてきたみたいね。ごめんなさい、そして貸してくれてありがとう」
にこやかにそう言った彼女はどう答えていいかわからないマルトの手に指輪を握らせて、屋敷から出ていった。
霧の中に薄れていく後ろ姿を、玄関まで追いかけて見送りながらコーディが言った。
「結局、あの人は何をしにきたんだ?」
「さぁ……?」
でも、とマルトは思う。
もうここが本物のお化け屋敷ではなくなったことは確かだろう。
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