微笑みの誘い

作:ゆきの翔          

 僕にしてみれば、時間がもうなくなっていた。期限は今日の夕方の6時。それまでに、正面に座っている少女を笑わせなければならない。少女はまだ十歳に満ちていない。長い黒髪をリボンで束ねた――ポニーテイルの似合う娘だった。少女は美奈という。
 ――こんな依頼、断ればよかった……
 そう思うが、それはもう後の祭である。無表情の少女は、僕が奮発して頼んだ上の握りを、何の感情もなく黙々と食べていた。普通の女の子なら、喜んで食べてくれるのに。そう思うと、僕もお寿司が味気なく感じてしまった。

 それは三十路に届くか届かないかの男が、僕の事務所に少女を連れてきたところから始まった。男は僕に、
「この娘の笑顔を戻してくれないか?」
 と、訪ねてきた。確かに僕は精神的なカウンセリングを主とした仕事をしているが、このような依頼は初めてだった。大抵は不眠症の人や、合法薬物の中毒だった人が訪ねてくる。
「――どうかしたのですか? 彼女……」
「この娘は……両親が亡くなってから笑うことを忘れてしまったようなんだ」
 聞くと、少女の両親は飛行機事故で亡くなってしまったらしい。男は彼女の母親の弟……つまり叔父にあたるという。彼女を引き取ってから、まだ一月も経っていないらしく、心配になって僕のところを訪ねてきた。
「――難しいですね……結構時間がかかるかも知れませんよ」
 僕は表情のない少女を見ながら、そう答えた。が、男は、
「重々承知です。しかし、この娘には時間が残されていないのです」
「と、言いますと?」
 聞き返すと、少女は一週間後の夜にイタリアへ行ってしまうらしい。もともと男はイタリアに住んでいて、少女を引き取りに帰国したのだが、なにぶん少女がこんな状態なので、しばらく住んでいたらしい。が、イタリアには男の家族がいるため、帰らなくてはならない。彼女をイタリアに連れて行く前に、笑顔を取り戻してもらいたいのだそうだ。
「――分かりました。全力を尽くしてみましょう」
 そう言って僕は、男の依頼を承諾した。

 のだが……どうもうまくいかない。まず手始めに遊園地。次に動物園、植物園と、喜びそうな場所を色々と試してみたが、ことごとく失敗に終わった。挙句、今日の昼食のお寿司も……ここまで困難な仕事だとは、想像もつかなかった。
「ねぇ……美奈ちゃん。どうしてなのかな?」
 事務所のソファに一緒の座りながら訊ねた。しかし、彼女は窓から外を見ているだけで、何も答えてくれなかった。というか、僕と対話したのは名前を言うときくらいだった。その他は、何を言っても返事はない。
 不意に、僕は彼女が見ている方を見やった。いつの間にか、窓の向こうは乳白色のまどろみに包まれていた。陽は沈みかけている。夕霧か……珍しいな。と、僕は胸中で呟いた。比較的、乾燥しやすいこの地方で、霧が発生すること自体、珍しいのだ。
 そんな光景を見入っていると、
「――お母さん……お父さん……」
 消え入りそうな、か細い声が部屋の中に響いた。僕は驚いて、思わず少女の方を向いた。彼女は机を乗り出すように、窓を見つめた。それにつられるように僕も見る……え? 目を疑った。そこには薄いながらも人影が二つ、映っていたのだ。
 その人影は、少女になにか話しかける。それは、僕の耳に届くことはなかった。しかし……
「うん……うん……」
 少女は瞳に涙を浮かべさせながら、一生懸命話を聞いているようだった。
「あ……」
 少女は一言ついた。もう、視線の先には人影もいない。霧はまだ晴れない。

 ――あ……

 その時僕は、一瞬だけ覗くことが出来た。少女の淡い微笑みを……
 少女の心の霧は晴れたのだろう。次第に色を取り戻し、愛らしく、年相応に微笑み始めた。
 そして……
 僕は、魅了という名の魔法にかかってしまったのかもしれない。

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