逢いたい日に……



 春の柔らかい風が桜の花びらを巻き、早く散らそうと急かしている。桃色の花弁は空を舞い、そんな事とは知らずに風と一緒に戯れている。
 そんな風景を高尾山の山頂で、ファインダーから覗いていた。
「ちゃんと撮っていますか?」
 モデルの娘が、少し首を傾げながらたずねた。彼女は小柄で、髪は肩口まである。美少女、とまではいかないが、素朴な雰囲気が好感持てる。
「大丈夫、ちゃんと君もファインダー越しに見ているから……」
 カメラを構え直しながら、わたしは返事した。
「そんな事言って、先輩の撮る写真はモデルが風景にとけ込むんだから」
 言われ、苦笑するしかなかった。
 もともと、キャンディット・フォト(スナップ写真)を撮る事が好きなので、こういうポートレイトみたいに造っている写真は苦手なのである。だからいつも、モデルの自然の動きを納めてみたり、風景の一部としてモデルを使ったりしている。
「そういう事言うな。今日はちゃんとポートレイトを撮るように頑張るから……」
「――今日は……ね」
「ん? 何か言った?」
「いえ、別に……」
「そうか。じゃあ由紀、そっちの方に立ってくれるかい?」
 そう言ってわたしは彼女を促した。


 由紀――川嶋由紀は、高校時代の写真部の後輩に当たる。一つ年下で、少しおてんばな処があるが、笑顔を見ると何でも許せてしまうのが彼女の魅力なのだろう。わたしは彼女の笑顔を密かに写真に撮りながら、高校の時を過ごしていた。
 わたしは高校を卒業して、大木事務所と言う小さな撮影所に入った。所長である大木哲治の写真は一言で言うと、時間を切り取る、としか言い様がなく、わたしが求めていた型なのだ。究極のキャンディット・フォトグラファー、それが彼のふたつ名である。そんな彼のもとで仕事がしたくて門を叩き、色々と彼から教わった。
 5年間働き、わたしは大木事務所から独立して、本格的に写真家として活動を開始しようとした。そのとき芸術大学を卒業した川嶋由紀がわたしを尋ねてきた。
『――先輩はどうして写真を撮るのですか?』
 はじめ、なぜ彼女がそんな事を尋ねたのか分からなかった。しかし、聞くにつれて彼女は、自分が何を撮ればいいのか分からなくなっていたのだ。大学の考え方の食い違い、あるいは他人との競争……その全てに、彼女は4年間で押し潰されてしまっていたのだ。彼女は思いきり泣いた。4年間積もりに積もった我慢が、わたしにあって堪えきれなかったのだろう。
 わたしは、彼女が辛く、せつなくしているのを見ていられなかった。高校の時の、あの無邪気な笑顔を、もう一度カメラに納めたい。そう思ってわたしは、まだ就職の決まっていなかった彼女を助手にした。


 陽も傾き、焼ける空が美しいコントラストで街を映していた。
「さ、そろそろ引き上げようか」
 春と言っても、まだ夕方になると肌寒い。上に薄手のコートを羽織りながら彼女を促した。
「――先輩……」
「ん、どうした?」
「――やっぱり先輩はポートレイトは無理ですね」
 改めて言われると、もはや何も言えない。
「仕方ないだろ。大木先生についていたんだから」
「…………処なんですけどね」
 彼女の声は語尾しか、わたしの耳には届かなかった。
 彼女は上着を着込み、カメラをケースの中にしまい込んだ。
「先輩、これから食事に行きましょうか」
 唐突に、ケースを車の中にしまいながら由紀は声をかけた。
「どうした、急に。由紀から誘うなんて珍しい」
「行きたくないんですか?」
「あ、別にそういう意味でいったわけではないのだが。――では行こう。何処に行きたい?」
「もう決めてあります。さ、先輩。車を出しましょう」

 ――そういえば、彼女がわたしの家に尋ねてきてから、ちょうど1年になるな……
 車を運転しながら、ふとそんな事が頭を過る。もしかしたら、その事で今日、食事に誘ったのかな? 彼女は人前では泣かない性格だ。あの時のわたしの目の前で泣くと言う行為は、多分彼女にとって汚点であり、逆に心の中がふっきれた瞬間なのだろう。それ以来、おてんばと言う言葉は似つかわなくなり、あどけなさは残っているが、大人の香りを漂わせている。運転しながら彼女を横目で見ると、ドキリとする。
 慌てて目線を前に戻し運転に集中するが、どうしても彼女が気になって仕方がない。高校時代にはなかった魅力……今はまだ分からないが、その何かにわたしはひかれているのだろう。
「で、何処に行けばいいのかい?」
「八王子駅前の、グラルドという小さなバーです。マスターとは知り合いで、たまに一人で行くんですよ」
 由紀は微笑みながら語る。聞くと、大学時代によく通っていたらしい。通っていた理由は大体想像つく。
「OK。じゃ、駅前の地下駐車場に止めればいいね」
 そう言って、わたしは車を飛ばした。

「へえ、いい処だね」
 わたしは感嘆を漏らした。店の中に入ると、心を落ち着かせてくれる、そういったクラシックな雰囲気を漂わせていた。由紀の言った通り店は小さく、カウンターだけで成り立っていた。時間は5時半。まだ店には私たち以外の客はいない。
「マスター、久しぶり」
「――本当久しぶりだね、由紀ちゃん」
 口髭を生やした中年の男は、入ってきたわたし達を一瞥し、その一人が由紀だと分かって顔を綻ばせた。
 男は中背、細身。しかし見た目とは違い、結構ガッチリとした体格である。タキシードを着、意外とそれが様になっている。
「あ、マスター、紹介するね。こちら、わたしの高校の時の先輩、荻島知宏さん」
「どうも、荻島です」
「はじめまして。わたくし、グラルドのマスターを勤める瓜生圭と言います。気軽にマスターと呼んでください」
 マスターは微笑み、わたし達を席に促した。
「マスター、始めはシャンデー・ガフで」
 座りながら、由紀は指を二本立てた。マスターはそれを見て、かしこまりました、とすぐ造りに入った。 「シャンデー・ガフ?」
「先輩、知らないんですか? ビールとジンジャービアーを半々に割ったカクテルなんですよ」
「――こういう場所にくるなんてなかったからな。そういうのには疎いんだよ」
「だいじょうぶですよ、荻島さん。由紀ちゃんですら、一ヶ月で覚えちゃったんですから」
 タンブラーに注がれたシャンデー・ガフを、マスターはカウンターに静かに置きながら口を開く。
「ひっどーい。それはないんじゃないですか? マスター!」
 由紀は頬を膨らませながら抗議した。それがこの場をなごませたのか、カクテルが口の中にすんなりと入っていった。
「どうですか?」
「そうですね。口あたりが柔らかくて、すんなりといけますね」
「まあ、これは彼女用にジンジャーエールを使っていますけど……本来はこんなには甘くありません。どうぞ」
 マスターは、いつの間にか切っていたチーズを並べた。
「なにか、造りましょうか? 飲んでいるだけでは胃に負担がかかりましょう」
「マスター、いつもの造ってくれる?」
 由紀はタンブラーを口に運びながら、注文した。それを聞いたマスターは、壁にかけていたフライパンをコンロの火にかけた。続けてパスタパンに水を張り、それも火にかける。
「もしかして、ナポリタン?」
 わたしは由紀に問いかけた。彼女は首を振り、「違います」と一言言った。
「ペペロンチーニなんですよ。素材は少ないけど、美味しいですよ。あ、ごめんなさい。席外します」
 と、彼女はスッと立ちあがり、奥の方へ進んでいった。
「――なにか差し上げましょうか? 荻島さん。グラスの方が空になっていますが」
「あ……そうですね、なにかお薦めのカクテルありますか?」
「ジントニックなんかどうです?」
「ではそれを……」
 そう言うと、マスターは別のタンブラーにカクテルを造り始めた。
「――シェイカーは使わないんですね」
「シェイカーは基本的に、混ざりにくい素材を無理矢理混ぜる道具なんです。だから混ぜやすいものだとステア――掻き回すだけなんですよ」
「なるほど……カクテル=シェイカーと言うわけではないんですね」
「そうですね。あとは先程出しましたシャンデー・ガフなんかだと、炭酸が抜けるため注ぐだけにしています」
 言いながら、タンブラーにレモンを浮かべ、わたしにそれを差し出した。
「由紀ちゃんからお話を伺っております。なんでも自然の写真を撮るのが上手だそうで」
「上手だなんて……まだまだ上の人は沢山いますよ。大木哲治先生、井上祥子先生、舘幸昌先生……」
「しかし、由紀ちゃんは荻島さんの写真を見ていると、落ち着くと言っていますよ」
「それはただの依怙贔屓では……」
 しかし、マスターはかぶりを振った。
「――あの娘は悩んでいます。多分、解決出来るのは荻島さん、あなたしかいないと思います」
「――なにマスターと話しているんですか? 先輩」
 ハンカチで手を拭きながら席に戻る由紀。マスターは何気なくパスタパンの方へと向きを変えた。
「いや、カクテルについてレクチャーを受けていたんだよ」
 と、わたしはとっさに答えた。
「そう……あれ?新しいの頼んだのですか?」
「マスターが薦めてくれたんだ」
「――ジントニックですね。それはわたしの口には合わないんですよ」
「確かに女性にはきついかもしれない。シャンデー・ガフとは一味違うな」
「うん、だからマスター。わたしにジンフィズ造って」
 笑顔でマスターに頼む。そう、いつものあの笑顔……
 ――カメラを持っていたら、撮っているな……
 しかし、カメラは車の中に置いてきた。
 後悔?高校時代に沢山撮ってきたのに、後悔なんてあるのか……
 いや、違う。今と昔は全然違う雰囲気を漂わせている。やはり後悔しているんだ。
 ――やめよう。これだと多分きりがない。
「すいません、トイレは何処にありますか?」
「そこを右に曲がって、つきあたりにあります」
 それを聞き、軽くため息吐いてわたしは椅子から腰を浮かした。

「しかし、何に悩んでいるのかな、あいつ……」
 マスターの言葉が少し気になり、鏡に向かって呟く。
 ――わたしにしか解決出来ない、か……マスターも気になる事を言う。まさか、な……
 手を洗い、トイレの扉を開ける。見ると由紀はカウンターに伏せていた。
「――どうした? 由紀。酔い潰れたのか?」
 わたしの声に反応したのか、彼女は顔を上げた。彼女の顔はほんのりと紅く染まっていた。
「まさかぁ、そんな事ありませんよぉ先輩ぃ」
 少し間伸びした声で、由紀は返事した。
「――トイレに行っている間、なに頼んだ?」
「まずジンフィズでしょ。それからモスコミュールにミモザ、テキーラサンライズかな……」
「――それを全部……飲んだのか?」
「うん!!」
 ――たった数分間で、そんなに……
 それを聞いて、少しめまいを覚えた。初めて、彼女がいける口と知った瞬間でもある。確かにカウンターの上に、カクテルグラスや8オンスタンブラーが数個、置いてある。これで酔わないほうがおかしいだろう。
「――ペペロンチーニです。冷めないうちに召しあがって下さい」
 マスターが盛った皿を置く。にんにくの香りが鼻に届き、それが食欲をくすぐった。



 気付いたら、わたしは家の布団の中で寝ていた。時計を見るなり、今が朝の九時半だとわかる。
 わたしはふと、昨日の事を思い出した。

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 あの後、わたしは運転があるからアルコールは飲まず、醒めるまでソフトドリンクを頼んでいた。マスターもその事は承知の上で、わたしにノンアルコールカクテルを作ってくれたし、お酒を進ませるような食事も控えてくれた。
 店に入って二時間。静かになったと感じてふと、横を見たら由紀が潰れてカウンターにへたりこんでいた。
「マスター、すいません……由紀を連れて帰ります。お勘定は?」
「今日は早く連れていったほうがいいですよ。お金のことは心配しなくていいから……」
「――何から何まですいません。由紀、いくぞ」
 わたしは彼女の腕を持ち上げながら、店を出ていった。

「おい、由紀……大丈夫か?」
「うにゅ〜……せんぱいぃ〜……」
 地下駐車場の中は、わたし達二人だけだった。わたしは由紀を車に乗せようと、悪戦苦闘である。
「――先輩……」
 やっとの思いで車に乗せて、ドアを閉めようとした時、突然由紀が声を出した。
「なんだ? 気持ち悪いのか?」
「そうじゃない……そうじゃないの……」
 彼女はかぶりを振りながら、答える。続けて、
「その……去年は……ありがとうございます……わたし去年、先輩に会っていなかったら、どうなっていたか分からなかった。生きていく事もままならなかったと思う。
 でもね、あの時先輩がわたしに言ったよね。
『自分の信念は貫き通せ。他人に何を言われようが関係ない。由紀には由紀の良い所があるんだから、それを高めればいいんだよ。
 もし、それでも撮るものが見つからなかったら、空を見よう。空を見て何もしない。ふと、感じるものがあれば、そいつを撮ればいいんだ。焦ってはいけない。ゆっくりと待つんだ』って。
 その時わたし……心にかけられていた鍵が解けたんだと思うの……身体が軽くなって、気付いたら泣いていた。先輩の目の前でね」
 彼女は紅潮しながら、話していた。他の車が駐車場に入ってきたので、車を出すよ、と彼女を促す。彼女はコクッと肯くだけ。
 わたしは運転席に回り、VTECエンジンに火を入れた。ホンダ独特のエンジン音を駐車場内に轟かせ、サイドを下ろした。

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 苦笑いした。理由なんて、あってないものだ。布団から出てわたしは、着替える事にした。
 6年前から住んでいる、2DKのアパートメント。部屋はすべてフローリングになっている。その割には家賃が安く、ずっと根を張り巡らせて今に至っている。
 昨日、彼女はまっすぐ自分の家に帰ろうとしなかった。車の中にずっといるのも仕方なく、彼女を此処へ連れてきた。

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「寒いか?」
 わたしは部屋の電気を付け、少し散らかった床をかたした。
 彼女は横に首を振ると、靴を脱いで部屋の中に入った。
「去年以来……ですね、此処にくるのは。本当、あの時は先輩に助けられた思いがします。先輩がいなかったら、どうなっていたんでしょうか。わたしは……」
 少し俯きながら、由紀はクッションに座る。わたしは冷蔵庫の中を物色しながら、彼女に答える。
「多分、俺がいなくても解決出来たと思うよ、自分でね。――ただ、あれこれ考えすぎたんだろうな。大学側の考えと自分の考えの交錯、板ばさみになって、君は何も出来なくなったんだよ。
 正直言うと俺もね、そういう事あったんだよ。人を撮る楽しみを知ってからね。でも、自分は自然という相手を撮りたいんだ! って、身体が言う事を聞いてくれなかったんだ。
 その時、大木先生が『人間も自然体で撮れば、それはポートレイトではなく、キャンディットだよ』って言ってくれたんだ。それから迷う事なんかなくなった」
 ――言えないよな。人を撮る楽しみを知った原因が、由紀だなんて……
 言いながら、心の中でそう呟く。続けて、
「そんな事、気にするなよ。助言受けたって変われない奴は、山ほどいるんだ。変われた由紀は凄いよ」
「――そんな事、ありませんよ。第一、先輩が言ってくれなかったら、わたし……わたし……」
 完全に俯き、彼女はそのまま沈黙した。沈黙は破れなかった。何て彼女に声をかけたら良いのか、分からなかった。
 しばらくして、彼女は口を開いた。
「――わたし、とても嬉しかった……嬉しくて、泣いちゃった。人前でなんか泣いた事ないのに……
 あの一言が、やさしくわたしを包んでくれたから……殻を取ってくれたから、今のわたしがいると思う……」
「……………………」
「先輩……」
 彼女は紅潮させながら、恥じらいながら、言葉を紡ぎだそうとする。
「――好きです。先輩の事が好きです」
 由紀の顔が、わたしの不意を突いて接近してくる――いや、よたれかかってきた。彼女の顔は、わたしの腕の中にうずくまり、彼女はか細い寝息を立ててまぶたを閉じていた。
「――やっと、言えた……」
 寝言なのか分からない彼女の言葉は、心の中へ浸透していった。

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 時には、感情に流されてはいけない時と、いい時がある。あの時がどちらかだったのか……わたしは知る由もなかった。ただ、由紀はあの時、後者を選んでいた事は間違いなかった。
 と、そんな時。戸が開き、エプロンを着けた女性が声をかけた。
「おはようございます。ご飯、食べますか?」
 その声と同時に部屋の中は、醤油の香ばしい香りが広がった。
 彼女は昨日、あのまま帰らなかった。
 ――そう、帰らなかった……
 彼女は一人暮らしであると言う。実際家を見たわけではないが、本人がそう言うのだからそうなのだろう。しかし、女性が異性の家に泊まる、という行為は一人暮らしをしているにせよ、考えものである。両親がいれば、かなりの確実でそう思うだろう。
 ――しかしわたしは……
 その場の雰囲気に流されなかった――いや、流れなかった。
「――先輩?」
 彼女にはボーッとして見えたのだろう。心配して顔を覗き込んできた。
「ワッ!!」
 わたしはあまりにも近付いてきたので、顔を熱くしながら慌てふためいた。
「ふふっ……か〜わいい。紅くなって……」
「コラッ。年上をからかうな!!」
「むきになる処がまた……」
 笑いながら背を向け、顔だけこちらを向ける。
「ご飯、冷めないうちにきてね」
 ――トクン……
 一瞬、由紀の笑顔に見とれていた事に気付いたのは、少し経ってからだった。

 ――臆病だな、俺は……まだ返事していない。
 ましてや相手から言ってきたのだ。正面切って。
 正々堂々じゃない。臆病だ。
 しかし……
 あの時、雰囲気に流れなかった事には後悔していない。
 流されて由紀と関係を持つと、自分らしさに欠けてしまう。信念を貫く事が出来なくなる。そう感じた。だから、流れなかった。
 わたしは、確かに彼女の事が好きだ。今も昔も、これからもそうだろう。ただ、"好き=SEX"という方程式は、自分の中では成り立たない。逆に、今のままでいいのだ。今を失いたくない。
 心の奥底で、そう思っている。だから、方程式は成り立たない。
 そう、成り立たないのだ……

* * * * *


 ――トントントントン……
 台所に出ると、由紀がまな板に向かって調理していた。コンロに乗っている片手鍋から、味噌の香りが漂ってくる。
「やっと起きたんですね? 先輩……」
 ふすまを開けた音に気付いたのだろう。背を向けたまま言葉を投げかけてきた。
「いい香り、だな……」
「先輩、ゴミ箱見ましたよ。カップ麺の屑山になって……体に毒ですよ」
「――男の一人暮らしなんか、そんなもんだよ。しかし、料理出来るんだ。知らなかった」
「失礼ですね。これでも一人暮らし歴五年ですよ。何処かの人とは違って、ちゃんと料理しています」
「何処かの人ってのは、俺の事か?」
「勿論!」
 なおも背を向けたままで、今度は堂々と言ってのける。由紀は続けて、
「ま、今度からわたしが……その、……から……」
「え?」
「な、なんでもないです! 気にしないで下さい」
 慌てて取り繕う由紀。わたしは、そんな表情をしてくれる由紀が、年甲斐もなく、かわいいと思ってしまった。



 しばらくしてわたしは、由紀と二人で大木事務所に向かっていた。いつも、と言うわけではないが、わたしは大木先生から仕事をもらって、それをこなしている。
 大木事務所は多摩市連光寺にあり、わたしの家から車で15分位である。今もこうして車で移動している。
「今日は由紀にも仕事があるって言ってたぞ。大木先生は」
「わたしに、仕事ですか?」
「ああ。先生は気にいった人じゃなくちゃ、仕事を分けたりしないからな。先生の下につかないで仕事をもらうなんて、極めて珍しいケースだよ」
「――どんな仕事なんですか?」
 由紀はごく当然の質問をした。
「いや、詳しくは聞いていない。が、期待して大丈夫だぞ」
 この時はまだ、平和だった。そう、全てが……

「おお、来たか知。それに由紀ちゃん」
 デンと大きく構えた中年の男が、野太い声でわたし達を迎えてくれた。彼は見た目より小さく、少し禿上がっている。
「大木先生、おはようございます」
「おはよう。今日は知にピッタリな仕事があるぞ」
「ありがとうございます。どのような仕事ですか?」
「観光パンフの写真を撮ってもらいたい。場所は長野の飯田だ」
「飯田、ですか……期間は?」
「一週間後に仕上げる事。ま、頑張ってきな。――ところで由紀ちゃん」
「はい?」
 いきなり呼ばれて、素っ頓狂な声を上げる由紀。
「突然だけど、君に頼みたい事がある。頼まれてくれるか?」
「ええ。無理な仕事ではなければ」
「大丈夫だ。それでな、君に報道の写真を撮ってもらいたい」
「報道……ですか?」
「そうだ。なんでも、わしの知り合いがやっている編集部がな、人手不足だと言っておる。カメラマンが足りないそうなんだ。やってくれるかい?」
「はい! やらせて下さい!!」
 由紀は元気な声で返事した。
「知と一緒じゃないが、大丈夫か?」
「ええ。だって一生の別れじゃないから……」
「言うじゃねえか。じゃ、明日から頼むぞ」
「はい!!」
「知も、明日から飯田のほうに向かってくれや」
「はい」

* * * * *


 ――観光パンフか。さて、どうしたもんか……
 考えながら、車を運転する。チラリと横を見やると、由紀が緊張しているのが分かった。
「どうした? 由紀……一人でやるのが恐いか?」
「ううん、そうじゃない。ただ……」
「――ただ?」
「ただ、わたしなんかにこんな仕事を与えてくれるなんて……実際いいのかなあ、なんて思って……」
「大丈夫だよ。見込みのない奴には、仕事を与えたりしない人だから。大木先生は」
「――自信持って、いいんですか?」
「ああ、ガンガンいけ。ただし、報道だろうがなんだろうが、自分の信念はちゃんと貫き通せよ」
「はい、先輩!!」

* * * * *


「へえ、アルプスが一望出来るんだ」
 電車から見える山々を見ながら、わたしは感嘆した。
 わたしは仕事での旅行は、車より電車を好んで進んでいる。と、言うのも、のんびりしたいというのもあるが、運転していると景色が見れないからである。
 ――さて、何を軸にして構成するか……
 大体パンフレットなんかは、表紙を大きく構えて、その周りに細かいのをチラッと見せれば済むだろう。しかし、それはあくまで基本。
 何を見せるか。何を伝えたいか。これをしっかり守れば、なんでもいけるのだとわたしは思っている。  わたしはカバンの中から観光用マップを出し、眺めた。
 ――飯田と言えば、水引、天竜川……そして、飯田城、か……
 実際、そんなものである。が、3つあればたいていは事足りる。
「ま、今日は初日だから、散策といくか……」
 カメラを首から吊るし、わたしは電車から降りた。

 天竜川の水は、深緑といっても過言ではない色だった。紅葉橋から見下す川は、透きとおって底まで見えそうな幻惑を覚えさせた。
「一度、由紀と二人で来たいな。こんな風景、東京なんかじゃ見れない……」
 荒々しくむき出しになった土と岩の絶壁。その上に、生きようと上へ伸びる木々。一見したら、中国と間違えてしまうかもしれない風景である。
 わたしは無意識下で見とれてしまった。日本にも、まだこういう場所があるのかと思うと、心を躍らせてしまう。
「さ、川を下るか……」
 空では青鷺が優雅に風と戯れていた。鳶もそれに負けじと、上昇気流に乗って、鳴きながら弧を描いていた。空は蒼く、白い雲が映えている。空は澄んでいた。
 ――トゥルルル、トゥルルル……
 胸ポケットにしまっていた携帯が、突然鳴り響いた。着信を見やると、"川嶋由紀"と、記されていた。わたしはすぐさまアンテナを伸ばしてボタンを押した。
「はい、荻島……」
『もしもし、先輩。仕事は順調ですか?』
「――ああ、順調過ぎて困ってるくらいだ。それよりどうした? いきなり電話かけてきて」
『え……少し暇だから。先輩はどうしているかな、なんて思っていたんだけど』
「どうしたもこうしたも、仕事をしているさ。遊んでいる訳ではないぞ」
『そ、そうだけど……』
 一瞬、彼女の声が低くなった。
「――冗談だって。真に取るなよ……言ってるこっちが変に気を使っちまうよ。まぁ、今は気楽に何を撮るか考え中だ」
『……………………』
「どうした?由紀……」
 わたしは由紀に問いかけた。
『ううん、何でもない、何でもないよ。ごめんなさい、突然電話して』
「そんな事ないって。
 そうだ。今度、一緒にこっちにこないか? いい景色ばっかりで、写真に納めるのがもったいないくらいなんだ」
『そうですか。じゃ、秋にしませんか? 紅葉が楽しめそうで、いいと思いますよ』
「そうだな。その時期になったら二人で暇を造って、来よう」
『はい……何だかすいません。こっちから電話かけたのに……』
「いや、別にいいよ。どうせ暇だったし……」
 と、うっかり口を滑らせた。
『!! 結局暇だったんじゃない!!』
 由紀がむきになる。それが何故か心にしみる。
「ゴメン……」
『――やだ、本気にしているんですか? 冗談ですよ、冗談。
 そうだ、先輩。お土産、頼みますよ』
「あ、あぁ。分かった」
『じゃあまた』

* * * * *


 仕事は恙なく進み、わたしは五日で切り上げて、東京へと足を戻そうとしていた。
「さて、今日は土産でも買いに行くかな。何か買わないと、由紀の奴、なんて言うか分かったもんじゃない」
 独りごちながら、荷物をまとめ終えた。夕方、駅前の商店街に爪先を向けた。
 空は少し明るく、茜色の夕日が雲を照らす。
「あいつには何がいいかな。やはり、後に残っていく物がいいか」
 わたしは品を見ながら、独り言の様に呟いた。
 と、そんな時だった。
 ――トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル……
 携帯が鳴った。着信相手は、大木事務所。何故か不安が頭を過った。
「――はい、おぎし……」
『知か!? 俺だ!!』
 野太い声が、鼓膜が破れそうになるほどの音量で響いた。
「先生? どうしたんですか、一体……」
『大変な事になった!! 至急戻ってきてくれ!!』
「え?」
『――由紀が……大変なんだ!』

『由紀が、テレビカメラの照明に、眼を焼きつけられた!!』
 焦る気持ちで、電車に飛び込んだ。何が何だかさっぱり分からない。頭の中が、白紙になっているのが、嫌でも分かる。
『身体の方は大丈夫なのだが、いかんせん、眼は駄目かもしれない』
 大木先生の言葉が胸に、頭に谺する。
 それはちょっとした出来事だった。照明を持っていた青年が、あまりにも多い報道陣に押され、引っ張られ、挙げ句の果てに倒され……倒れた拍子に、照明が由紀の目の前に迫ってきたと言う。
 ――失明、なのか?……もう二度と、眼で物を見る事が出来ないのか?
 グルグルと、色々な事が頭の中を巡る。本当、何をしていいのか、分からなかった。窓の向こうの民家の灯りが、流れ星の様に線を描くが、わたしの脳裏には、焼きつかない……
「――由紀……」
 気付かず、名前を、涙を、こぼしていた。

 やっとの事で病院についた時は、すでに0時を回っていた。八王子南部病院。此処に由紀が運ばれた。
「知、やっと来たか」
 先生の野太い声が、元気なく、耳に届いた。
「先生、由紀は……どうなったんですか?」
 声が震えていたのが自分でも分かる。
 聞きたくない。しかし……聞かなければ、ならない事。
「――由紀は……光を失った」
 その声はいつもより、体に響いた。虚無としか言い様がない何かが、脊髄を落雷の如く、つきぬけていった。そして、鼻の奥がツーンとしびれ、目頭が熱くなり、手でとっさに押さえた。ここまで、自分が女々しいとは、思えなかった。
「おい、お前が泣いたってしょうがねえだろ? 泣きたいのは、あいつなんだ。なんせ、好きな野郎の顔が、拝めなくなったんだからな」
「――はい……」
 空気が凍りついたように、沈黙が続いた。夜明けまでまだ、遠い。



 何時寝入ってしまったのかと錯覚を起こしながら、目を覚ました。時計を見ると、針は10時を指している。大木先生はすでに起きていた。陽が廊下に射し込んで、やけに明るい。白衣を来た看護婦が、足早でわたし達の前を通り過ぎていく。
 ――ガチャッ……
 横の扉が開く。目を向けると、長い白衣を羽織った男の、30前後の医者が出てきた。
「――川嶋由紀さんの、関係の方ですね?」
 言われて、コクッと肯いた。
「ここではなんですから、中に入ってください」
 促されて入ったカンファレンスルームと書かれた部屋は、こざっぱりしていて、意外と広く見えた。中は楕円状の机と椅子が数個。それ以外のものは何もなかった。
「――川嶋由紀さんの容体ですが、角膜が非常に損傷しています。眼球そのものは問題はないのですが、この角膜が厄介なんですよ。
 一応、移植する事が出来るんです。しかしドナーが……その、死亡患者でなければいけないのです」
 男の医者はそう告げると、身を乗り出して、
「非常に深刻です。ドナーが見つからないかもしれません」
 その後、心をえぐるような沈黙が、嫌と言うほど続いた。

「それはもう、由紀の眼が、元には戻らないと言うのですか?」
 沈黙を破ったのはわたしだった。
「いえ、そうは言ってません。ただ、意志表明カード、"ドナーカード"と呼ぶのですが、それに記載されていないと、どうしようも出来ないのです。それに、ご家族の意見も聞かなくてはいけないのです」
「あんた、医者だろ!? 何とかしろよ!!」
 大木先生が怒鳴りたてる。無理なのは承知だ。だから余計にこの声が心を絞めつける。痛いほど、分かる。
「そ、そんな事言われても……何とかしようにも出来ないんです。この決まりを破ると、わたしは医師の免許を剥奪されてしまいます」
「クソ……由紀はこのまま、眼が見えないまま暮らさなくちゃならないのかよ」
「――先生……血圧が上がりますよ。落ち着いてください」
「知。お前、何でそんなに落ち着いてられるんだ」
「過ぎてしまった事は、しょうがないです。後で言えば言うほど、惨めになりそうで……」
 心ではそう思ってる。でも、やはり、やるせなかった。
 ――本当、こういう事態になったら、無力だな……
 当事者でなければ、何をしていいのか分からない。第三者とは、そういう葛藤が生じるのだと、心から実感した。
「先生……患者の意識が戻りました」
 白衣を着た看護婦が、扉を開けて男の医者に告げた。
「分かった。今行く」
「わたし達も、行っていいですか?」
 わたしは医者に聞くと、コクッと肯いてくれた。わたしは何よりも、由紀の顔が見たかった。それだけで、本当によかった。
 部屋を出て医者の背を追いながら、廊下を突き進んだ。病棟の無機質な風景が、横を過る。しばらくして医者に、「此処です」と、病室を促された。
「――由紀……」
 部屋に入ると彼女は目に包帯を巻いて、ベッドの上で上半身を起こして佇んでいた。見ているこっちが痛々しく感じる。
「――先輩……ですか?」
 朧ろげに、彼女がこちらを向いて返事した。しかし顔は、正面を向ききっていない……
「――情けないですね、こんな事になって……もう、奇麗な景色が見れないんですって。何だか、寂しいな」
 彼女の切ない、淡い思いが、胸の奥で低く響いた。彼女が一番辛いのだ。続けて彼女は、
「こんなことなら、先輩と一緒に飯田に行けばよかったな……」
 その言葉が、心を抉った。

 あの後すぐ、診察をすると言ってきたので、私たちは病棟の各階に設けられている、ディルームと呼ばれるスペースで待機した。
 待機して約30分が過ぎようとしていた。
「荻島さん」
 一人の若い看護婦がわたしを呼びかけた。はい、と答えると、
「川嶋さんがお呼びですよ」
 と言って、すぐにナースステーションに消えていった。わたしは大木先生の顔を見やると、行ってやれ、とでも言いたげな顔をして促してくれ、わたしは足早に病室へと向かった。
 ――コンコンッ……
「――いいかな?」
 ノックして由紀に声をかけた。彼女は上半身を起こして、開いている窓から入ってくる風を受けとめていた。髪をなびかせながら。
「由紀?」
「――先輩……わたしもう、先輩の顔が見れないんですね」
 肩がかすかに震えていた。由紀は続けて、
「――恐いです、先輩!! 助けて下さい!! ねぇ、先輩!!」
 彼女はいきなり叫んだ……いや、慟哭だろう。包帯を濡らして、彼女はわたしに訴えていた。わたしの胸がはちきれそうになった。辛く、切なく、厳しく、悲しく。
 そっと、わたしはベッドの横に腰を掛け、彼女の身体を抱擁した。
「――大丈夫だよ……わたしはずっと、由紀の側にいるからな……」
「――先、輩!!」
 彼女はワッと泣き出し、わたしの身体にしがみついた。堰止めていた感情を、一気に押し出して……

エピローグ


「由紀、大丈夫か?」
「えぇ、大丈夫。あ!ちょっと待って!!」
 彼女が光を失ってからもう、一年が経とうとしていた。彼女は一生懸命になって、生活を過ごしている。退院してから、わたしは彼女と一緒に暮らし、六月に結婚しようと誓った。
 彼女は本当、明るくなったと思う。あの事故があれば、普通精神面がズタズタに崩壊していくだろう。
『――それは、先輩が側にいてくれたから……』
 そう言ってくれた時は、心から、やはりこれでよかったんだ、と思った。
「桜……キレイ?」
「あぁ、キレイだよ。去年と同じくらいな」
 手をつなぎながら、わたし達は高尾山に写真を撮りにきた。由紀が「高尾山で写真に納めて」と、言ってきたのだ。
「去年と? じゃあわたし、覚えてるよ。先輩がファインダー越しに花びらを追ってたんだよね?」
 彼女は満面な笑みで話す。
「そうだっけ?」
「そう。でね、結局キャンディット写真しか撮れなくて、夕方になっちゃって……」
「あ、思い出した。あの時の写真、確か大木先生持ってるんだよ」
「本当?」
「あぁ。偉く気に入ってたらしくて、『ネガをくれ!!』なんて言ってたな。ネガに関しては丁重に断ったけど、焼き増しで一枚渡したよ」
 肩をすくめて、ため息を吐く。由紀は気配で分かったのか、クスリと微笑んだ。
「そうなんだ、知らなかった。
 ――先輩、覚えてる? わたしがあの後、言いかけた言葉……」
 わたしは無言でいた。覚えている。まだ、鮮明に。
「あの時ね」
 由紀がわたしの方を向く。
「『それが先輩の良い処なんですけどね』って言ったんですよ。先輩はキャンディット・フォトだけで、いいんだと思います」
「――ありがと……そう言ってくれると、嬉しいよ。特に由紀から、ね」
「本当?」
 パッと明るく微笑んだ。いつにないその表情に、一瞬だけ時間を忘れかけてしまう。
「本当さ」
「――わたし、逢いたい日に逢えて、本当によかった」
「わたしもだよ。おっと、目的を忘れるところだった。由紀、この樹に寄りかかって立ってみて……」
「はい、先輩」
 手で案内しながら、由紀を樹に立たせた。

* * * * *


 ――トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル……
 電話の音が鳴り響く。無人の家の中で。
『はい、荻島です。だた今、出かけて電話に出る事が出来ません。御用のある方は、ピーッという発信音の後にメッセージをどうぞ』
 ――ピーッ……
『こちら八王子南部病院です。川嶋由紀さんの件ですが、ドナーの方が見つかりましたので、至急連絡下さい。お願いします』
 ――ピーッ……

Fin



あとがきめいた物


 少々長いものになってしまった、この作品です。実はこの作品「作家でごはん!」の方に載せて貰っているのです。知っていました?
 ま、そんなことはともかく、この作品は私が初めて書いた、恋愛物ですね。書いていて大変疲れました。疲れて何がなんだかサッパリ分からなくなって……そんなことが多々ありました。書いていて、自分が淋しくなったり、こんなことあるのか? と疑問に思ったり。ねぇ……
 ちなみにこの作品に、きちんと「そら」が入っていたの分かりましたか? それがどうした! と言われてもしょうがないのですが……
 教訓として、恋愛物は中途半端に書く物ではないでしょう。私はそう思いますね。では。

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