真夏の王者

 炎天下の中、マウンド上の温度は40度以上。更に疲労も手伝って、投手にとってはそれより高い温度を体感する。陽が西に傾きかけているのに、一向に気温は下がってくれない。
 阪神甲子園球場――高校球児たちの憧れ。その頂点を極める決勝。スタンドには戦っている両校の応援団や、高校野球ファンが押し寄せ、立見が出るほどの超満員。今は皆、マウンド上の投手に視線を注いでいる。

 3対2で迎えた9回裏。難なく2死まで取ったのだが、あと一人と言うところで、緊張しきった遊撃手の失策、二塁手の野選、挙げ句には冷静さを失った投手が制球力をなくし、四球で満塁。一打同点、もしくは逆転サヨナラの場面に陥った。此処で監督はマウンドの投手をあきらめ、背番号1を着けた、準決勝を一人で147球投げ抜いたエースを投入した。顔には出ていないが、彼が疲れているのは監督にも判った。だがもう、控えの投手は使いきっており、彼しか頼れる投手がいない状況だった。彼を送り出す時監督は、全てお前に托す、と言いながら肩を叩く。それに応える様に、利き腕である左腕を高く掲げた。
 マウンドまでの道中。それはエースの彼でも果てしなく長い距離に思えた。緊迫した場面での登板など初めて。しかもそれが、日本一を決定する場面となると、ますます雰囲気に圧迫されそうになり、足取りも重くなる。歓声が干渉し合い、歪んで聞こえる。声と言う音ではなく、もうそれは雑音に違いない。帽子を深く被り直し、ゆっくりと深呼吸をしながら、マウンド上のもう一人の投手から球を受け取った。すいません、こんな状況で交代なんて……汗か涙か分からなかったが、交代を告げられた少年は腕で目の周りを拭った。彼の無念が、受け継いだ球からひしひしと伝わってくる。この思いを無駄にしたくない。胸中でそう誓い、マウンドのプレートに左足を置いた。

 相手は右打ちの二番打者。今日は四打数四安打という脅威を、見せつけられている。胸の高鳴りが、車のアクセルの様に身体を急かす。それを自制しながら、相手打者を睨め付ける。相手に不足はない。それが誰であろうと、相手に敬意を払って全力で勝負する。
 身体を起した。走者は満塁。走られる心配はない。大胆にも彼は振り被る投球体勢に入り――第一球。左腕が頭上を通り、人差し指と中指の先から球を離す。直球。内角高目の投球は、打者の胸元に厳しく突いた。しかし僅かに外れてボールになる。打者が良く見たように思えるが、審判のコールが聞こえると、安堵のため息が漏れていた。手が出なかったのだ。打者もまた、この場面で安打を出せば、逆転になりうる大事なところ。すなわち、緊張しているのである。どちらが先に、いつも通りの自分が引き出せるか。焦点は此処にある。捕手から球を受け取り、もう一度、投球体勢に入る。
 第二球目――今度は内側から急激に外へと逃げるシュート。一球目が内角に入っていたため身体が泳ぎ、打者は球についていけずにそのままバットが空を切った。捕手が球を返すと、リズムよくすぐさま投球体勢に入る。意識してやっているのではなかった。身体が自然にそうさせていた。球を親指と人差し指で覆う様に握り、投球。が、手に汗が滲んでいたため、球にうまく回転がかけられずにスッポ抜けた。大きく外に逸れ、慌てて捕手が補球。捕った瞬間、動悸で息苦しくなった。捕手は肩を揺すり、力をほぐせ、と指示を送る。間合いを取ってマウンドに置いてある松やにに手をやり、深呼吸を一つ。気合いを入れ直した。失敗は許されない。例え小さな物でも命とりになる。切迫した雰囲気が野手を、走者を、球場を覆っていた。
 気を取り直して振り被る。と、同時に三人の走者が一斉に走り出した。三重盗。まさかここにきて、そんな無謀な作戦を仕掛けてくるのか。捕手は態と球を外させようと立ちあがった。要求通り、ミットめがけて投球。一条の線を導きながら、白球は進んでいく。が、打者がいきなりその球を強振し……振り遅れながらもバットに当てた。球は一塁線方面に一直線に飛び……線を辛うじて割った。冷や汗が額に滲み出てくる。帽子を取って嫌な汗を拭った。天を仰ぎ、腰に手をやった。一呼吸……悪い律動を打ち壊そうと、間を置く。念入りに松やにに手をやり、構える。腕を振り上げ、渾身の力を込めて外角に投げ込む。打者は手が出ない。決まったか? しかし審判の判定はボール……フルカウントとなってしまった。
 空かさず捕手はマウンドに駆けよる。大丈夫か? 心配ない……次でしとめるから。意外にも投手の顔は笑顔だった。この緊張の連続で、何故そんな表情が出来るんだ。逆に捕手のほうが狼狽した。とにかく心配なさそうだったので、すぐ守備位置に戻った。ともあれ、次の一球で勝負が決まるのだ。泣いても笑っても……

 松やにの入った袋を手で踊らせた。心配性の捕手が何を要求しようか迷っている。痺れを切らし、ついに自分の左肩を親指で二回突いて合図を送る。そしてすぐ、投球体勢に入る。

 耳に入ってくる観客の歓声が、突然なくなった。
 視界が真っ白になり、打者と捕手しか見えなくなった。
 そして、身体が勝手に動いていた。指から離れていった球は、捕手の構えているミットより少し高めを突き進んでいた。失投か……誰もがそう思った。打者とて真ん中にくる球を、狙いすますかのように、バットを振った。
 豪快な空を切る音が、マウンドまで聞こえた。三振。
 球はきちんと捕手の構えたミットに収まっていた。最後の投球はフォークだった。準決勝でも二球しか投げなかった球種。打者をまんまとだましたのである。そして……
 その瞬間、念願の高校球児の頂点……王者になった。



あとがきめいた物


「作家でごはん!」の鍛錬場に投稿させて貰った作品です。この作品を書いていた当時、ちょうど甲子園をやっていたので、ネタにさせて貰いました。
 鍛錬場では、原稿用紙7枚と言う規定とテーマ。これだと「王者」ですが、それだけで書くというので、結構勉強になります。大変ですけどね。

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