少女は恐怖していた。こんな事はない。絶対何かの間違いなんだ。しかし、目の前で起きている戦闘は、幻でも夢でもない。戦慄、あるいは震撼。いや、それらとは違う、今まで感じた事のない感覚を今、少女は全身全霊で受けている。そして、少女は動かなかった――いや、動けなかった。街は炎上、家など跡形もない。両親は、爆風から少女を守るために犠牲になった。 少女にしてみれば悪夢としか言い様がない。目の前で両親が散り、今まで生まれ住んでいた故郷が、無残な形で滅んでいくのを見届けているのだから。 空をやっとの事で見上げると、黒煙と紅蓮の折りなす中に蒼い戦闘機が五機――常に五機いる状態で飛行しているので、何機だか数えられない――少女の目に映った。それはまるで流星の如く迅く、見とれる程奇麗でもあった。 しかし、彼女は知らない。 流星のように走っているその戦闘機こそ、少女の生まれ住む街を侵略していたと言う事を…… そして…… 東京のベッドタウンであった多摩ニュータウンは、この日を以って地図の上から名前が消えた。 1 世界の均衡が、人類の科学によって崩壊してから数百年。そして荒野と成り変わった土地は、すでに十数年が過ぎようとしている。 「ねぇ、どうするの?」 昼下がり。そんな荒れ果てた地で、愛らしい水色のワンピースを着込んだ一人の少女が疑問を投げかけた。少女は短めに切りそろえている漆黒の髪を、サイド・テイルにゴムで結ってあり、反対側をヘアピンで留めている。背はあまり高くなく童顔で、まだ発展途上の体つきと言ったところか。 『――ちょいと待ってくれ、禾奈。センサがどうも調子悪いんだ』 水陸両用のホヴァークラフトに入り込んでいる少年が、ガンッと拳で叩きながら外部スピーカで答えた。それを聞いて少女――禾奈と呼ばれたが――は、またかと言うようなため息を吐いた。どうせ中にいる少年には聞こえないが…… 「あ〜ぁ、いい天気なのになぁ……」 ボヤキながら天を仰いだ。確かに透き通るくらい空は蒼く、雲一つない。ホヴァーに寄りかかりながら、禾奈は時間を弄んでいた。何するでもなく、虚空を見つめる。高い所では鳶が弧を描いて翔び、平和だとしか思えない程悠然としていた。時間がゆっくりと回るかの様に…… 『――禾奈。ちょっと手伝ってくれないか?』 そんな中スピーカから、少年の声が響いた。 「女の子に手伝わす気?」釈然としない声で禾奈が言う。 『別に手伝ってくれなくてもいいけど、俺は。此処にずっといたいんだったらな……』 「や、やだなぁ祐……誰も手伝わないなんて、言ってないでしょ?」 ――嘘つき…… ホヴァーの中でそれを聞いた少年――祐は胸中で呟くのだった。 『――と、言う事でして。二人には多摩ニュータウン跡地で降りてもらいます』 二人のチーフ、中野邦靖に数日前に言われた言葉。祐と禾奈ははっきりと覚えている。この御時世、上司からの命令を断ると直ぐ、暇をもらう事が出来る。無論、そんなくだらない事で、肩たたきの対象になりたくない。 『そうですね、期間は一週間。その間に例の事件の爪跡を見つけてください』 例の事件――十数年前の事件には、不明瞭な点がいくつかある。 何故、此処多摩ニュータウンを襲ったのか。しかもその後、どこも襲撃していない。そして…… 蒼い戦闘機の正体は? 目撃の情報が少なく、何一つとして分かっていない。この広大な大地が知っているのだろうか…… ただ、二人が分かっている事は、中野邦靖と言う男が、そんな事など微塵にも考えていないんだ、と言う事だけ。つまり、そんなのはただの名目に過ぎない。本当の目的は、単なるペナルティである。 「まったく、何でこんな目に合わなくちゃいけないの?」 『元々はお前が原因なんだよ。俺が巻き添えを喰らった型だ』 まだホヴァーの中で作業している祐が、外部スピーカで禾奈と話す。断っておくが、外から中の話し声もちゃんと内部スピーカによって聞こえている。二人とも襟元にピンマイクを付けている。 「でも、あれは椎が悪いんだよ? わたしは……」 『連帯責任……あぁ、なんでこんな言葉があるんだろうな、禾奈。どうせ奴も同じようなペナルティ、課せられているはずだ』 「――わたしのせいなの? ねぇ、わたしのせいなの?」 泣きながら訴える禾奈。 『泣きたいのはこっちだ!! 勝手に暴れやがって!!』 と、とうとう祐は突き放した言葉で禾奈を攻めた。 『だいたいなぁ、お前がアイツの挑発に乗らなければ、こんな事にならなかったんだよ!!』 「だって。あの時……」 此処で禾奈が途中で言葉を切った。口篭るかのように。 『――あの時、なんだ? どうせつまらない事言われたんだろ。違うか?』 「……………………」 禾奈の口の字がへの字変わる。頬を膨らませながら。 『黙ってちゃ分からんだろうが。いつもこれだ……』 マイクが祐のため息を拾った。明らかに禾奈に聞こえるくらいブーストされて、スピーカから出てくる。 「――どうせ、わたしが悪いわよ!!」 襟元のピンマイクをむしり取り、地面に叩きつけた。と、同時に禾奈は任意の方向に走り出してしまった。 『禾奈? おい、どうした?』 祐の言葉は、無情にも虚空を薙いで、溶けていった。外の状況が分からずに…… 不毛の大地が広がる。此処に以前人が住んでいた事なんて、歴史の授業がなければ誰も思いつかないだろう。 「う〜……いつだってなにかあっちゃ、すぐわたしのせいだ」 そんな荒野を少女――禾奈は一人で歩いていた。 「ま、大半はあっているけど……けど、今回のは正当防衛よ……」 立ち止まり、禾奈は辺りを見渡した。 ――――!! それは、先程まで一緒にいた相棒の気配ではない……というか、人間のではない。だんだんと、大きく膨らんでいく。 「――ガゥガゥ!!」 「――ディルス!?」 叫び、それがハスキー犬に似た化け物と分かると、咄嗟に太股に忍ばせてあるコルト・センチメーターマスターを構えた。スカートの中身が見えるのも気にしないで。 ディルス(DiRs)―Diabolic Raiders―悪魔の急襲者 "パンドラ"と呼ばれている組織が、動物を遺伝子操作によって作り出した合成獣で、その体型はこれと決まった物がない。ただしそれは、常に悪意に満ちた顔つきである。現在、まだ家畜しか出ていないが、いずれ人間のディルスが存在するかもしれないと、皆恐れている。ここ数年の間、この多摩ニュータウン跡地によく出没し、徘徊している。 その特性は極めて獰猛で、動いている物であれば必ず攻撃を加える。動きの速さなどはそのディルスの形によって変わる。 「――アイズ、イアーズ、アンドノーズ……」 ――ガンッガンッガンッガンッガン!!…… おまじないの様に口ずさみながら、五感のうちの三つを奪う形で照準を定め、禾奈はトリガを弾いた。同時に銃から薬莢が飛び散ると、ディルスと呼ばれた物の顔面に弾痕が生じた。 一瞬だった。化け物はもがき苦しみ、のたうち回り、動きが鈍くなり、やがては動かなくなった。 「何で出てくるのよ!!」 禾奈はディルスの屍体を見ながら、唾を吐き捨てる。ディルスが出没するのを予想していなかった訳ではない。ただ、むかついているだけである。自分に対して……自分の拳銃捌きに対して…… 「やっと見つけた……」 近付いてきたホヴァーのルーフからヒョコッと顔を出して、少年が声を出した。少年は髪を短く刈上げ、野球帽を被っている。 「祐……よく見つけたわね」 「なに、お前のスカートんところに発信機を付けていたんだけど、いかんせん、センサがイカれてるだろ? 見つけんのに時間がかかっちまったよ。ま、お前の行動くらいは予想出来るけどな」 「あっそ……」 嘆息混じりのため息を吐くと、禾奈は咄嗟に手に持っていた銃を隠した。少年――祐はその行動を見、禾奈の足元に転がっている合成獣の屍体を見つけた。 「――ディルスの頭、粉砕かよ……こんな事、誰もマネできんぞ」 帽子を被り直しながら、祐は感嘆を漏らした。 「皮肉を言ってんの?」 「いや、誉めてんの……」 「――誉めるような事じゃないわよ……こんなの」 もう隠す必要ないなと思い、禾奈はセンチメーターマスターを目の前に出した。鈍く光るそれは、彼女にとって重い足枷なのだろう。 「そういうお前がいるから、俺は安心して仕事が出来るんだよ」 と言って、祐はホヴァーのルーフから降りてきた。背はそんなに高くないのだが、細身のせいで遠くから見ると、高く見える錯覚に陥る。彼がいつも被っている帽子は、彼のお気に入りだった゛ヤクルトスワローズ"の物である。今はもう、プロ野球自体、存在しない。 「ま、そんなに過去にこだわるのは止めた方がいいぞ。そのうち、自分が分からなくなるからな……」 「――あなたにわたしの事なんて、分かってもらいたくないわ……」 ボソッとした声は、なんとか祐に聞こえるくらいの大きさだった。 「――それは別にいいけどさ。背負っている物は、俺も変わらん」 天を仰いで、呟く。 「さ、頑張るか。舟が来るまであと一日だ」 「――そだね」 禾奈はその言葉を聞くと、無理矢理笑顔になろうと必死になった。 『二人ともお疲れ様です。本日、旧多摩センター駅へ迎えに参りますので、正午までにはいて下さい。――中野邦靖』 時計は午前十時を差した頃。ホヴァーの中のモニタには、一通のEメールが届いていた。開いてみるとチーフからであった。 多摩センター駅とは、廃線になった京王線と小田急線の駅の一つ。名の由来は、多摩ニュータウンの中心にある駅である。 「今、何処ら辺にいるんだ? 俺たち」 「ちょい待って……えぇっと、昔で言う馬引沢って所。多摩市内だね」 と、禾奈は地図を広げて指差した。 「そっか。じゃあそんなに時間はかからないんだな、そこまで」 「うん。燃料が足りればね……」 「……………………」 「……………………」 薄い氷が張りつめた様な沈黙。しかし、呆気なくそれは破られる。 「――知ってたの? 禾奈」 「うん。二日くらい前から……」 インパネを見ると、確かに給油警告灯が赤く灯っていた。 「――燃費悪いからな、アルバートは」 「確か、リッター5キロだっけ?」 「それが最高。アベレージは3.5キロ以下」 深いため息と共に、祐は嘆く。続けて、 「チーフは『燃料の値段が安いから、これでいいんです』なんて事を言うもんだから、みんな真に受けちゃって。結局はアルバート自体が安いからそんな事を言ったなんて、誰も気付いちゃいないよ」 「祐も?」禾奈が問いかける。 「いや、な〜んとなく嫌な予感がしてた。チーフの言う事だから……」 肩をすくめながら、呆れていた。 「ところで、予備燃料は?」「とっくに使い切ってる」「あっそ……」 即答されて、顔を引きつることしか、禾奈には出来なかった。 「こんなとこにステーショナリー・ボックスがあったとしても、ガソリンだけだと思うし……どうしたものか……」 祐はリクライニングを倒し、天を仰いだ。 「あれ、この子って燃料何だっけ?」 「エタノール。リッター10円のやっす〜い奴」 「後ろにあるお酒じゃ駄目なの?」 と言って、一升瓶の箱が置いてある後部座席を指差す。 「いいんだけど……」祐は少し考えながら、「俺が呑むから却下」 「未成年のくせに!!」 「五月蝿い。全てはチーフがいけないんだ。奴があんなんだから、これがないとやってられない」 「――アル中入ってる〜……」 目を細めながら、祐を睨む。が、本人は気にしていない。 「まったく。お酒なんて何時でも買えるじゃないの」 「大吟醸様を馬鹿にするな」 「でも、今はこんな状態なんだよ?」 「うっ……………………」 「祐はどうやってこの状態を切り抜けるの?」 「……………………」 「ゆ〜う〜?」 言い詰められ、俯いて黙りこくる。禾奈はその表情を見、笑顔のまま祐の顔を横から覗き込む禾奈。そして、 「てい」 ――ペチッ…… 首を振り、テイルにした髪を祐の顔に当てた。それがまた素直に鼻の辺りに直撃したものだから、祐は顔を手で覆い、蹲った。 「か〜な〜。それはやめてくれって言ってるだろ〜が〜」 「天災は忘れた頃にやってくるのよ」 人差し指を立てながら、禾奈はクスクスと笑っている。 「天災って、お前な……そんな事言うとその髪切るぞ」 「切ってもいいけど、お酒捨てるよ。いい?」 「嘘です。ごめんなさい。もう言いません」 結局卑屈の態度をとるしかない祐であった。 「――ねぇ、何でこんなにあるの?」 ホヴァーのトランクを開け、禾奈の第一声はそれだった。中には日本酒を始めとして、ウィスキー、バーボン、ウォッカ、ジン、ワイン、テキーラ、焼酎等世界中のお酒が入っていた。 「好きだから……」 「そんな言葉で片付けないで」 「――はい……」素直に謝る祐。 「禾奈。本当にお酒使うの?」 物惜し気に見つめる祐。しかし禾奈の言葉は過酷な物だった。 「勿論。わたしの命に関わるんだもの」 「お前の命だけか?」言ってみた所で、何も変わらないのはよく知っているので、あえてボソッと突っ込むだけにした。続けて、「――しょうがない。あ、その大吟醸゛風の誉"は駄目だよ。お気に入りだから」 「て言うか、こういうのってアルコール度数が高くないといけないじゃない。やっぱりここは日本酒より98%のウォッカでしょ」 禾奈はまだ未開封のウォッカを、惜しみなく開けた。無論、横では祐が涙を零していた。 「――思い出した。確かアルバートがリッター5キロ走ったのって、そのウォッカだった」 泣きながら言い出す祐。しかし、それは墓穴以外何物でもない。それはいい事を聞いたとばかり、禾奈はあるたけのウォッカを、給油口からジャンジャンと流し込んだ。全部で十本。それが全てタンクの中に飲み込まれていった。 「――言わなきゃよかった……」 その光景をみた祐は、涙を滝の様に流していた。 「いい事を言ってくれてアリガト。お礼は何も出ないけど」 そう言って、禾奈は素早く助手席に乗り込んだ。 「早くエンジンかけてよ。時間がないのよ」 「あいよ。すぐ火を入れるからな」 本当は無性に呑みたい気分なのだが、我慢して渋々運転席に座り、キーを回した祐である。車体は浮きあがり、そ〜っと――いや、多分歩く方が速い速度で、前に進んでいた。 「――ちゃんと進んでるの?」 「進んでいるよ」 禾奈の問いに、淡々と答える。確かに前へのヴェクトルは存在する。のだが、明らかに零に近い。祐は続けて、 「この遅さで5キロ走ったんだもん。何時間もかけて」 祐の声に生気がない。まぁ、現実逃避剤を奪われたから当然の事だが。 「うっそでしょ!? 今、時速何キロなの!?」 「測定不能。さ、ゆ〜っくりと、ドライブを決め込もうね」 「いっや〜〜〜〜!!」 浮かぶ力の方が強いホヴァーを、簡単に制御しながら祐。なんだか横が騒がしいが、気にしていないし、気にしてはいけない。時間は十時半を確実に刻んでいた。 道を彷徨っていた。生きる術をなくし、どうしたらいいのかままならなかった。目の焦点は合っておらず、自分で何故歩いているのかも分からないであろう。 あの忌まわしき襲撃が終わって、何日過ぎたのだろうか。一日かもしれないし、もしかしたらもう何年も経っているのかもしれない。 ――とう、さん……かあ、さん…… もう、歩く体力すら残されていない。足を引きずりながら、自分をかばってくれた両親の事を思い出し、ついには膝を大地につけた。 ――わたし……一体どうなるの? 薄れいく意識の中、少女は一条の光が見えた気がした。 「ねぇ祐。誰か倒れているみたいだよ」 その言葉に、ホヴァーを運転していた祐は耳を疑った。 「はぁ、こんな場所で行き倒れ? そんな馬鹿な」 「疑ってるのね? わたしこれでも、視力2.0以上なのよ」 「そんな事言われても……って、あ、ほんとだ……」 確かに此処から百メートルくらい離れた所に、誰かが倒れていた。呆気に取られ、祐はバカバカしくなってきた。 「禾奈。とりあえず先に降りて見てきてくれないか?」 「Okay」 言うが早いか、禾奈はさっさとホヴァーを降り、現場に駆けつけた。と、 『祐、急いで来て。かなり衰弱してるみたいよ』 トランシーバーで状況を説明する禾奈。それを聞いて祐は、エンジンを止め、ホヴァーから直に降りた。トランクの中にある救急道具を持って、走り出す。 「――ハァ、ハァ、……ど、どうだ、状況は……」 救急道具を禾奈に渡し、両膝に手をつきながら問いかける。見るからに、自分達と同い年くらいの少女である。ボロボロの、少し焼けた白いワンピースを着た、髪の長い少女…… 「詳しく調べないと分からない」 禾奈は道具箱を開けて、簡易スキャナ――脳波、心電図等を簡単にスキャン出来る機械である――を取り出し、彼女にコードを巻きつけた。 「――どうだ?」 「うん、一応大丈夫みたい。でも、一度舟で精密検査をした方がいいわね。祐、栄養剤を射ってくれる?」 「ほいほい」 祐は箱の中から、ペンの形をしたチューブを取り出す。それを少女の肩に刺し、数秒でその行為を止めた。 「後は様子を見るしかないけど……どうする? この娘」 「う〜ん。一緒に乗せてもいいけど、アルバートの調子があれだからな。だからと言って、こんなとこに置いてきぼりってのも……」 「ハ〜イ、いとしの祐。お久しぶりね」 後ろからその声を聞いて、禾奈と祐は背筋に悪寒が走ったと言う。顔を見なくても分かる……と言うか、見たくない。 「――け、恵さん……どうしたんですか?」 だが見つかってしまったからには、目を合わせないわけにはいかない。祐は恐る恐る振り向いた。その先には最新型のホヴァー、ニュートンに乗っているソバージュの女性がいた。実は彼女、祐にお熱であったりする。 「どうしたもこうしたも、祐に会いたいから、此処にいるの。わ・る・い・か・し・ら?」 それを聞いて祐の顔は引きつった。 「クスクス……嘘に決まってるでしょ? ほんとうは、市場に仕入れに行く途中なの。あ、禾奈ちゃんもいたんだ」 「――わ、わたしが忘れられている……」 禾奈がうつむきながら頭を抱え、ボヤく。が、そんな事は恵にとってどうでも良かった。彼女はホヴァーから出てきて、祐に近付き、事もあろうにいきなり頬擦りをした。それを眼にした禾奈は、頬を思いっきり引きつらせた。 「あぁ、やっぱりこの肌の感触、きもちいいわ〜」 「や、止めて下さい恵さん!! ひ、髭が痛いです!!」 「五月蝿いわね。美しいものにトゲが付きものなのよ」 そう、実は彼女、ニューハーフだったりする。そのため、祐は彼女(彼?)に言い寄られる事が迷惑なのだ。しかし容姿は、本物の女性よりも奇麗で、本当にニューハーフなのかと疑ってしまう程である。 「それより、その娘どうしたの?」 恵と呼ばれた彼女は倒れている少女に視線を送る。 「あ。俺たちもさっき見つけたんですよ。今しがた、栄養剤を射ったところでして、一緒に連れていこうと思ったのですが。ただ……アルバートの調子が悪くて、正午までに多摩センター駅跡地に間に合わないんですよ」 「正午まで?」恵が聞き返す。 「えぇ。チーフが俺たちを迎えに来る時間なんです。あの人、時間通りに動いている人だから、遅刻するとどうなる事やら……」 「あら。ならいい考えがあるわよ」 恵は続けて、 「わたしのホヴァーで、あなたたちのホヴァーを牽引してあげるわ」 時間は十二時五分前。なんとか二人――いや、三人は多摩センターに無事たどり着いた。 「ありがとうございます。恵さん」 「いいのよ、祐のお願いなんだから。そのかわり、あの約束守ってね」 「――約束?」 祐の後ろで、禾奈が怪訝そうな顔をする。 「あ……分かっています」 「頼んだわよ。あぁ、あとうちのお店にも顔を出してね。みんなで来ても大丈夫だから」 そう言って、恵は離れていった。 「ねぇ、約束って何?」 「禾奈には関係ない事だよ」 そっぽを向いて言い放つ祐。 「分かった。恵さんとデートするんでしょ?」 「それは絶対ない」 「――怪しい……」 「そんな事より、ミスカティアが来たぞ」 ジャスト十二時。ミスカティア――大きな陸舟(グラウンド・シップ)が、祐と禾奈に近付いてきた。駅に接舷させ、何人かのクルーがエア・エレベータから降りてきた。 「よ〜、祐。元気か〜?」 「禾奈〜。おっ久〜!!」 見慣れた顔がいくつもある。次々と二人に近付いてきた。 「――飛燕」 「香苗……」 二人とも、やっと知っている顔を見られ、特にこの同い年の二人を見て、安堵のため息を吐いた。 「二人ともあんな事になったから、もしかしたら二人で"愛の逃避行"をなんて……」 飛燕と呼ばれた中華人民系の彼は、そんな事を言い放った。 「こいつとそんな事、出来やしないよ」 「あっそ……」 罰に思ったのか、被っていた緑のベレー帽を深く被り直した。 「――ところで……」 先程禾奈に、香苗と呼ばれた少女がふと、地面に目を移した。 「この子は誰なの?」 「ついさっき、倒れていたのを助けたんだ。そうだフェイ、ちょっと肩貸してくれないか? 医務室まで連れていきたいんだ」 「お? あぁ、いいぜ」 祐と共に飛燕は、少女を肩に抱え、エア・エレベータで登っていく。 「ところで香苗……あの二人は?」 そんな二人の背中を見ながら、両肩まで伸ばした髪を三つ編みにした少女に声をかけた。 「二人……あぁ、椎と櫟ね。今、デッキにいると思うけど……」 「――帰ってきてるのね……」 香苗の言葉を聞き、禾奈は肩を落としてうなだれた。 「帰ってきましたか」 デッキの上。顎の上に髭を生やした男がそう口にした。 「え〜、帰ってきたの〜?」 「邪険しないの、椎」 男の後ろで、姿型が一緒の少女二人がコソコソ話す。 「どうして、櫟はそんな事言えるの? あんな奴、追放すればいいんだよ」 「椎君。悪口は減俸処分ですよ」 「ウギュ……イゴ気を付けま〜す、チーフ」 セーラー服を着たポニーテイルの少女がシズシズと謝る。 「どうして椎は禾奈ちゃんの事、そう思ってるの?」 「――ウマが合わない……」 「それだけならいいけど……」 「――え……?」 チーフ――中野邦靖の言葉に、白衣を着た、少しカールのかかっている髪を、肩口まで伸ばしている少女が、聞き返した。 「――なんでもありませんよ。さ、上原姉妹。行きましょう」 遠くで、大きな背中が彼女から離れていく。 ――ダメ……行っちゃ、ダメ…… 彼女は声帯を潰しているらしく、声が前に出ない。無論、誰も彼女に気付かない。そして…… そして、彼女以外の人々は、文字通り霧散した。 「イヤーーーー!!」 ――バ!! 彼女は起き上がり、視線を宙に泳がした。ベッドの上で見知らぬ風景を目の当たりにして、彼女は刹那戸惑った。手は汗でジットリと濡れて、動悸が激しく耳に届く。 「――やっと、起きたみたい……」 聞いた事のないその声で周りを見渡すと、サイド・テイルにした少女がベッドの側に立っていた。彼女以外は皆、耳を塞いで三人ほど倒れていた。中には痙攣を起こしている者もいるが。 「――此処は……?」 少女は開口一番で放つ。軟らかく澄んだ声。しかしそれは、シャボン玉の如く脆くて儚い声である。側に立っている少女は、そんな彼女の声を想像していたらしく、クスッと微笑みながら簡単に答えた。 「医務室。陸舟ミスカティアの中にある、ね」 「りくふね?」 不思議そうに口を開ける。 「そっか。陸舟なんて言っても、分からないか。これはね、反重力装置によって浮かしている舟なんだよ。世界で一つしかない、ね」 「世界に一つしかない……ですか?」 「そ。大体の舟は、重力中和装置で浮かしているんだけどね」 少女が自慢げに答えてる。それほど凄い装置なのかと、素人のわたしでもわかった。 「――そうですか。あの、あなた達は?」 「あぁ。わたしは渡辺禾奈。わたし達、"ワルキューレ"と言う特殊傭兵部隊のメンバーなの。あなたは?」 禾奈と名乗った彼女が、当然のように問いかけてきた。 「――瀬奈……喜多見、瀬奈……」 少女は天を仰ぎながら、やっとの事で言葉を出した。 「だって。ほら、何時までも倒れ込んでるんじゃないの」 『ウィ〜ッス』 ――コンコンッ…… 医務室の扉をノックする音。静寂の部屋に響き渡る。 「失礼します」 扉が開くと同時に、髭を生やした中年の男と、二人の少女が入ってきた。 「――調子はどうですか?」 男は、ベッドの上で上半身を起こしている少女に声をかけた。 「あ……大丈夫です。それより……」 彼女は紅潮させながら、消えそうな声で続けた。 「――すいませんが食事、頂けませんか?」 『――ちょっと、この格好は、ねぇ……』 扉の向こう――医務室から声が聞こえる。 『大丈夫だって、香苗。瀬奈だっていいでしょ?』 『あの……少し、大胆かと、思いますけど』 『二人とも、シャイなんだから。これくらい着ないとダメよ』 『シャイも何も……瀬奈が着る物なんだから、もう少し真面目に選びなさいよ。禾奈』 『あ〜い……』 一時の沈黙…… ――カチャッ…… 医務室の扉が開かれる。 ――オォー!! 「――何でこんな所にこんなにいるの?……」 男達の歓声(歓喜?)とどよめきの中に、禾奈は呆れた顔で医務室から出てきた。無論、皆の視線の先は禾奈にではなく、瀬奈である。彼女は背中の中ほどまである、絹のようにしなやかな髪を、白いリボンで先端を留めている。服は変わらず白いワンピースであるが、前のやつは焼けていたため、新調し直した。結果、誰かの趣味でカクテル・ドレス調のワンピースに変わったのだが、一見すると、箱に飾ってある人形みたいに奇麗だった。 「――あ……あの、そんなに注目しないで下さい。は、恥ずかしいですから……」 彼女のその言動に、酔わない男はいないだろう。乙女の恥じらう仕草が妙に艶やかである。 「――なんで、男ってそうなの?……」 「気にしないの、禾奈。気にしたら負けだよ」 「――そだね……」 瀬奈の後ろでやり取りする禾奈と香苗に、男たちは皆、誰も気付かない…… 「フェイ。センサの具合はどうだ?」 ドックの中。アルバートをハンガーで吊るしながら、飛燕はつなぎを着てホヴァーの下に潜り込んで作業していた。それを横から祐が見守っている。 「そうだな。一週間くらいはかかりそうだけど、大丈夫か?」 「そんなもんか。じゃ、出来次第連絡ちょうだい。ところでさ、フェイ。こいつの燃費、上げられないか?」 「無理だね。いくらオーバーホールしてもね」 「あ、さいですか……」 即答され、何も言う気になれない祐。と、 「フェ〜イエ〜ン」 甘ったるい声を出しながら、何故かセーラー服を着ているポニーテイルの少女がドックの中に入ってきた。 「――出たな、トラブル・メイカー……」 ボソッと言った祐の言葉を、聞き逃す彼女ではなかった。 「誰がトラブル・メイカーですって?」 「お前の事だ、椎」 それでもなお、シレッと冷徹に言い放つ祐。 「ウ……ク……べ、別にき、気にしてなんかいないわ……」 青筋を立てながら椎は平然を装う。かなり無茶しているのが傍から見ても、手を取るように分かるが…… 「きょ、今日は祐を相手しに来たんじゃないの。飛燕に会いに来たの」 顔を紅らめながら、椎は飛燕の方を見つめる。 「だってさ、フェイ」 作業中の飛燕に会話を振る祐。飛燕は振り向きもしないで、淡々と椎に言葉を投げかける。 「――何の用?」 「実はね、此処にドリームランドの一日フリーパスがあるの。一緒に……」 「僕は君ほど閑じゃないんで」 台詞の途中で飛燕に遮られる。そのやるせない空気を、椎はどうしようかと困っていた。横では祐が、笑いを堪えようと、必死になっていた。 「――そ、そうなの……じゃ、じゃあまたの機会ということで……」 肩を落としながら、仕方なく椎はドックから出ていった。 「――確かに閑そうだな。この中では……」 「と言うか、役割あったっけ? 椎って……」 「さぁ……」 首を傾げながら、考える二人であった。 「――あの。こちらに椎が来ませんでしたか?」 今度は先程の少女と同じ顔立ちなのだが、白衣を着ている。髪をカールさせて、少し大人びている少女が、さっきと違う方向から二人に近付いてきた。 「さっき、出ていったけど」 「そうですか。では失礼……」 「あ。ちょっと待って、櫟」 出て行こうとした櫟を、祐が制止した。「何でしょうか?祐さん」 「あのさ。本当にあんた達って、双子なのか?」 「――えぇ。ちゃんと出生登録を出していますし」 見当違いの答えを返す櫟。飛燕は頬を指で掻きながら、失笑していた。 「――そう言う事を聞いたんじゃないんだが……けどその割には、性格違いすぎというか……」 「それは、育った環境が違いますから……あ、それではわたしは失礼します」 と、櫟は懐中時計を見ながら、ソソクサとドックを立ち去った。 「環境が違うって……どういう事?」 「さぁ……他人の事情は知らない方がいい」 「――だな……」 「ゆう〜、フェイエ〜ン」 一息つくのも束の間、今度は禾奈が大きな声を出して入ってきた。聞いて二人は、同時にため息を吐く。あぁ、インターバルが欲しい。 「――また騒がしいのがドックに来た」 「今日はそう言う日なのかな?」 「騒がしい奴って、わたしの事かな? 祐」 「無論、歩く起爆剤と呼ばれる程だからな」 シレッと言い放つ祐。刹那、禾奈の額に青筋が浮き上がった。 「――誰が言ってんの? そんな事……」 目を細めながら、禾奈は問い詰める。が、 「俺」 と、祐は簡単に返答する。続けて、 「おっと、まだまだあるぞ。触ると危険女、危険物乙5女、絶対低血圧にならない女、水の中の紙縒り女……」 「――何、その水の中の紙縒り女ってのは?」 禾奈の顔は引きつりながら、無理に笑っている。もうそろそろで爆発寸前だった。 「切れやすいから。我ながらいい表現だと思うんだけど、どう思う?」 「ちっともよくないわよ!!」 ――ガン!…… 禾奈は足元に置いてあった塗料のスプレー缶を祐に投げつけ、それが見事に側頭部に命中した。 「――禾奈、そんな事をしに来たんじゃないでしょ?」 「ぅあ……そうだった」 後ろから香苗の声を聞いて、我に一応返る。 「――いってー! そういう事をするから、さっきみたいな事を言われるんだろうが!」 「なんですって!!」 たったの一瞬でドックの中は、二人だけのために喧々囂々となった。かくして、二人は足元にある工具の投げ合いの応酬が繰り広げられた。 「――あの、いつもこの二人って、このような事をしているのですか?」 「そね。こんな物かな」 香苗の後ろから見ていた瀬奈が、呆然としながら誰とでもなく、問いかける。その問いに香苗は涼しい顔で素直に答える。一方飛燕はその声で、瀬奈がいる事にやっと気付き、振り向いた。 「――あ……瀬奈、ちゃんなの?」 その姿を見た時、視線が釘づけになった。そして、持っていた大きめのドライバーを、うっかり自分の足に落としてしまった。のだが、その痛みすら感じなかった。 「は、はい。あの、変ですか? この格好……」 「ううん、そんな事ないよ……」 飛燕はブンブンと頭を激しく横に振った。 「――フェイ〜。鼻の下伸びてるよ〜?」 指摘しながらジトッと鋭い眼光で飛燕を射抜く香苗。 「そ、そうか? って、あ!! か、禾奈! そいつを投げたらやば……」 「――へ?」「――い…………」 禾奈が飛燕の方を向くが、時はすでに遅かった。最後の飛燕の言葉が無情にもドックの中に響いた。瀬奈に見とれていた事で、飛燕の周囲の認知が遅れていた。それが今となっては後悔である。今、禾奈の手にしていたスプレー缶が宙を舞う。液化酸素としっかり側面に書かれたスプレー缶が……!! この時飛燕には、スローモーションの様にスプレー缶が空を泳いでいたと言う。 そして、 ――カンッ……シュゴ!! 見事祐の頭に当たり、缶の中身が噴出した。液酸は当然の如く祐の頭に直噴、一瞬で祐の髪は凍ってしまい、祐はそのまま昏倒した。 「――あや?……」 禾奈が呆ける。何が起きたのか、まだ理解していなかった。それと同時にその場の時も凍結した。 祐に対する心配などではなく、禾奈に対する脅えだろうか。戦慄の視線は禾奈に集まっている。 「あ、あは、あはははははは……」 空笑い。ドックの中に空しく響き渡る。冷や汗を何条も流しながら、禾奈は回れ右を奇麗に決めた。このやるせない場から離れようと思いながら。だが、 「――禾奈?」 優しい声で香苗に制止され、ビクッと体を震わせる。「なに?」と、声を裏返して返事する。服の背中は、もう汗でビッショリに濡れていた。 「何処行くのかな?」 「……………………」 禾奈は依然、硬直している。 「ねえ?」 「――じゃね!!」 猛ダッシュをかけ、少女は一目散でドックから出て行った。 「――逃げ足だけは、人一倍速い……」 誰が呟いたのか分からないが、皆、禾奈の背中を追っていた。唯一救いだったのは、倒れている祐を瀬奈だけが、心配していた事だろう。 「"パンドラ"の動きはどうですか?」 ブリッジの中、中野がオペレータに状況を聞く。 「現在の所、動きは見られません。ただ……」 メインモニタに映し出された地図を見ながら、オペレータが口篭る。 「ただ、どうしたのですか?」 「ただ、愛宕と旧稲城市を中心に、不審な動きが見られます」 「"パンドラ"が、何か行動を起こすとか?」 横にいた飛燕が、口を挟む。普段、彼は此処には来ないのだが、リタイアした祐の代わりに顔を出していた。 「現状では、愛宕の方は"パンドラ"だと確認できるのですが、旧稲城市のその動きが"パンドラ"かどうかは、確認できません」 コンソールに向かいながら、オペレータは言う。 「そうですか、わかりました。 皆さん、聞いて下さい。これより此処、多摩センターを基点とし、待機いたします。何かありましたらすぐ、連絡を下さい。以上」 |